第9話
第九回
それは月の美しい初夏の夜だった。中天に月がかかり大熊星は星々の中でひときわ明るく輝き、星々は長い年月のあいだ人間の営みを眺めていた。星達は瞬き、人が生まれ人が死ぬ。それとはかかわりなく宇宙はその創世の時から時を刻みはるか遠くからこの大阪近郊の新興住宅地での出来事も眺めていたのだった。
大阪郊外のこの土地に小川のせせらぎの聞こえるところがある。かつて周りには人家もなくアカシアの林に四方を囲まれ、わさび田でもあってもおかしくない土地がある。そこにわらぶき屋根の小さな小屋が建てられ、その庵の周りにはさまざまな草花が月光を浴びてその小屋の周りに植わっていた。その庵の中に古今を空しくする拳法の達人が住んでいた。その男は部屋の中で眠っていたが、窓からは月の光が差し込みその男の顔を照らした。男は月の光がまぶしく、目を覚ました。ふと寝床から起き上がるとあたり見ました。窓から差し込む月の光と花の香りが懐かしくなり男は散歩をしてみたくなった。ぞうりを履いて外に出た。男の従者は男がいないことに気づき男の後を追って外へ出た。外では露草がその紫の花びらをつぼめ明日の日の出を待っていた。
「お師匠さま、いかがなさいましたか。」
「ちょっと外の空気が吸いたくてね。」
その男は小川のほとりまで歩いていくと月の光が顔に反射してまぶしく感じた。
「ほら見てごらん。月の光が川面に反射してまぶしく感じるよ。」
「お師匠さま何をおっしゃいます。それは月の光ではございません。小川に浮かぶ浮き草が川の流れに身を任せてゆらゆらと揺れているのでござます。」
「なんだ。川面の浮き草が揺れておるのか。」
そう言うと老人はからからと笑った。男はふとその背後に人影を感じた。
「お師匠様お目覚めでございますか。」
「ああ、お前か。その後調査はどのくらい進んでいるのか。」
「いや、申し訳ありません。なかなか進展いたしません。」
「そうか、くれぐれも無理をせぬように。御仏のお慈悲を。」
老人は松村邦洋と滝沢秀明が黄金の仮面の怪人物に襲われたとき救った人物だった。従者の方は古寺で黒覆面の怪人と戦った若い僧だった。
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いつものように三人は放課後このまま家に帰ってしまうのも退屈だと思い新聞部の部室にいた。そこは前にも言ったようにもともとといえば美術と家庭科の準備室だった。松村邦洋はケント紙に新聞記事の割付をあれやこれやと試みていた。線を引いたり消したりしているのでテーブルの上はすっかり消しゴムのかすだらけになっている。滝沢秀明は新聞部の三つある卒業生在校生たちの写ったアルバムを引っ張り出してきて眺めていた。そこには滝沢秀明の姿がない。去年の夏合宿やもっと前のセミナーハウスの記念写真などが張りつけてあった。吉澤ひとみはファッション雑誌をめくっていた。自分の髪が気にかかるのか盛んに髪をかき上げてる。三人が三様各自思い思いに時を過ごしていると新聞部の部長で三年生になる太田が教室にやってきて
「やぁ、三人とも何やってるんでだよ。」
「ああ、部長。このまま家に帰るのもおもしろくないんでここで時間をつぶしているんだよ。」
「何だ。しけているな。仲良し三人組としちゃあ、もっとやることがないんか。」
「部長こそ、三年生なのに家に帰って受験勉強でもせんでもええのか。」
「おい、うるさいな。つまらんこと言うな。もう推薦で行けるところがあるんや、しこしこそんなことやらんでもいいのや。うししし。」
「ああ、聞いちゃった。聞いちゃった。誰かに言ってもええやろうか。」
「全くうるさいやっちゃなあ。おんどれらは甲子園のアルプススタンドで毎日、六甲おろしでも合唱してればええのや。それより君ら三人にこれを渡してくれって頼まれたんや。」
そう言って部長の太田は松村邦洋に今しがたまで持っていった三枚の入場券を手渡した。松村邦洋は渡された三枚の入場券をしげしげと眺め、他の二人もそれをのぞき込んだ。
「なんですか。これ。」
「見れば分かるだろうプロレスの入場券じゃないか。校門のところで変なおじさんが君ら三人に渡してくれって言って手渡されたや。」
松村邦洋と滝沢秀明は今までのことがあるものだから不審に思った。
「変なおじさんってどんな人でした。名前は言わなかったの。」
「ああ、名前も何も言わへんかった。君ら三人の名前を知っていたからきっと知り合いだろうと思ったんだ。そのおじさんの事だけど今さっき会ったのにどんな人やったかよく思いだせんわ。」
「何か、気味が悪いわ。」
吉澤ひとみが滝沢秀明の肩に手をかけながら言った。
「ええやないか。三人で行けば。三人で行けば何も怖いことあらへんがな。わてもその入場券は三人が貰ったものだときっぱりと証言するわ。何かあったら。」
何も知らない部長の太田は太平楽に宣言した。
「うん、じゃあ、行こうか。」
滝沢秀明は言った。
「これ、今度の日曜日だね。僕の方は何の予定もないから行けるけど松村君の方はどう。それから吉澤さんは。」
「それからなんて失礼ね。二人が行くならもちろん私も行くわよ。だってあなたたち二人に私がいなければ始まらないでしょう。うふふふ。」
吉澤ひとみはそう言ってまたいたずらぽく笑った。
そのプロレスの入場券は今度の日曜日大阪府立体育館で行われことになっていた。それはKRPという十年ほど前に設立したプレス団体が興行を行うことになっていてニューヨークのマジソンスクェアーガーデンから多くの外国人選手を招待している団体であり今回のニューヨークからまたヨーロッパから数人の選手を呼び寄せ試合を行うことになっていた。次の日曜日三人は最寄りの駅に集まりそこから大阪府立体育館まで行った。大阪府立体育館へ行く道の途中にはKRPのポスターが所々に貼られ体育館の前にはKRPのロゴマークの入った旗がはためいていた。三人がその体育館中央入場者口へいくとその前の広場には入場者が順序良く並んでいた。そこで少し変わったと言えば変わったことがあった。松村邦洋が見つけたのだが、松村邦洋は自分たちの場所から遠くを歩いている遠くの方を貧相な男が歩いていた。松村邦洋はその人物を指さした。
「ほら、見てみい。あそこを歩いている六十才くらいのおじさんをあれが逆さの木葬儀場の管理人の栗木百次郎だよ。」
松村邦洋にそう言われても二人にはぴんと来なかった。
「松田政男を殺したという噂が一時たった人物だよ。いつだったか、担任の畑筒井がそんな根も葉もない噂を立てるなって言ったやないか。」
松村邦洋は昔からここに住んでいるので栗木百次郎のことを知っていたのだろう。しかしすぐに栗木百次郎の姿は見えなくなった。体育館に入る入り口にはプロレスを見に来た観客たちがもうすでに並んでいた。三人もその列に加わった。その列の中には親に連れて来て貰ってうれしくて仕方ないという子供がはしゃいでいた。やがて開門となり三人は体育館の中へ入った。中央のマットを中心として放射状に折り畳み椅子が並べられている。マットの上には場内アナウンスのマイクやその電気コードや照明が設置されていた。三人はちょうど真ん中あたり席を三つとって三人で並んで座った。ここからだと選手の顔の表情がなんとか見えるかどうかという距離だった。通路をリングアナウンサーが歩いてきた。
「さあ、始まるよ。」
「吉澤さん、プロレス見たことある。」
「失礼ね。私、プロレスのことは詳しいのよ。」
やがてリングアナウンサーがリングの上に上がりマイクを片手に握ると上方に向かって叫ぶように試合をする選手の身長や体重のことをアナウンスした。リングアナウンサーの顔にはリングの上からつるされた照明がシャワーのように降りそそいでいる。まず前座試合が始まった。身体のまだあまりできてない若手レスラーがやはりまだあまりない技を使って主に体当たりとかドロップキックとかを多用して戦った。なかなか決め手がなかったが。最後に片方の選手が片方の選手を体固めで破った。勝ち負けというよりも片方の選手の体力切れという感じだった。それから中堅レスラーの試合となりこのあたりになるといろいろな技も出てきて試合も盛り上がりを見せていた。この試合は片方の選手のリングアウト勝ちで終わった。最後のメーンイベントとなった。この試合は一対三の変則試合だった。一人に対して三人が同時にかかっていくと言う試合だった。観客の歓声の中を片方の花道から身長三メートルぐらいの男がゆっくりとリングに向かってきた。身体の均整がとれているのだが身体全体には針金のような毛が生えていて頭には黒い無地の覆面をつけていった。その事がなおさら観客に威圧感を与えた。これがプロレス界では今まで一度もマットをなめたことのないつまりどんなレスラーもこの男のからだを倒してマットに横にさせたことがないといわれる今や伝説上の人物のような扱いを受けているザ・ゴーレムというリングネームを持つレスラーだった。その私生活のことは全く知られずゴーレムというのは何かの小説に出てくる名前らしいのだがその小説のことを知らない人々もこのレスラーの事は知っていた。リングが壊れるくらいみしりみしりという音をさせてゴーレムはリング上に上がった。リングアナウンサーは身長二メートル九十、体重三百十キロと叫んだ。リングアナウンサーはさらにアナウンスを続けた。まるで有史以前の恐竜が人間の姿を借りてて地上に現れたようだった。アナウンサーは何か試合前のアトラクションを行うということを場内のアナウンスで観客に告げた。五、六人の若手レスラーがドラム缶を転がしてきた。二つのドラム缶がこうして運ばれてきた。二人がかりで一つずつドラム缶がリング上にあげられた。しかしザ・ゴーレムはこれらの様子を無表情で見ていた。
「レディス、アンド、ジェントルマン今から現代の奇跡、ゴーレムがこの二つのドラム缶を使った彼の腕力をご覧にいれます。皆さまよくご覧ください。」
リングアナウンサーが終わりの言葉まで言い終わらないうちにゴーレムは彼の衿口を人さし指と親指でつかむとをリンクサイドに降ろした。ゴーレムはそれから二つのドラム缶を両手で抱えるとそれ腕の中に抱き込んだ。そして両手を組み力を入れるとドラム缶はあっという間もなくぺちゃんこにつぶれてしまった。怪物はそれをリングの外へ投げ捨てた。リングと観客席の間には鉄柵がありドラム缶は鉄柵に当たるとその鉄柵を曲げ鈍い音を立てて床の上に落ちた。また若手レスラーが五、六人出てきてそのドラム缶を撤去した。ゴーレムはその様子を無表情に見ていた。それからリングの隅のところによりかかり戦う相手の現れるのを待っていた。ゴーレムは戦わずして立っているだけで周囲に異様な雰囲気を漂わせ、まるで目に見えない不吉な天変地異の先ぶれでもあるかのように周囲を睥睨していた。観客はゴーレムの圧倒的な怪力にただ唖然として声も上げられなかった。
「完全に人間じゃないみたい。」
吉澤ひとみがリング内を注視しながら言った。
「本当やあれは人間の遺伝子でできたというわけやない、突然変異の産物やなあ。」
松村邦洋がポテトチップをほおばりながら口をもぐもぐさせていると三人の相手レスラーが片方の花道からやってきた。三人は三人とも一メートル九十センチくらいある大型レスラーだった。ひとりは金髪、もう一人は銀ラメのマスクをかぶったメキシコ系のレスラーでマスクには華麗な刺しゅうが施されている。そしてもうひとりはやはりマスクをかぶったアメリカ系のレスラーだった。三人のレスラーが花道歩いているとき観客は物珍しげにそのレスラーたちの身体をうれしそうにぺたぺたとさわると彼らうるそうににその手を払いのけ観客を突き飛ばした。三人が通路を通って行くときカメラのフラッシュがばちばちとたかれた。三人はリングの下まで行くと一人ずつリングの中に入った。ゴーレムはやはり無表情にその様子を見ていた。三人は三人ともコーナーポストにパンチを浴びせたりロープに寄りかかりそのロープの反動でロープの張り具合を見たりしていた。そうやって身体のウォーミングアップをしているとリングの下でリングアナウンサーがレスラーたちを紹介した。レフリーもリングに上がった。やがて試合開始のゴングが鳴りゴーレムはゆっくりとリングの中央に歩み出てきた。三人はゴーレムの様子をうかがっていたがゴーレムがリング中央に立ったまま石像のように身じろぎもしないため一斉にゴーレムに襲いかかった。一人はゴーレムの右足、もうひとりは左足を、そしてもうひとりはゴーレムの頭を背後から羽交い締めにした。ゴーレムを転倒させることはプロレス界の勲章であり、もしその事ができれば長い事そのことが語り継がれそれが興行面での待遇にもつながることだった。しかしゴーレムの体は盤石で、まるで地中深く杭が打ち込まれてでもいるように身じろぎひとつしなかった。ゴーレムが体をひと振りするとその反動で三人のレスラーが投げ飛ばされた。一人はリングの下へ飛ばされた。そのダメージで床の上に伸びたままだったが盛んに首を振り覚醒しようとしていた。観客の座ってる椅子を取り上げると再びリングの上に上がっていった。二人のレスラーはゴーレムの向こうずねをけり込んでいた。いすを持って上ってきたレスラーは椅子を水平に振り回しゴーレムの胸のあたりを打ったがゴーレムは少しも動かなかった。そしてゴーレムは一人のレスラーの頭を握るとまるで聖火でも持つように頭上高く持ち上げリングにたたきつけるとそのレスラーはすっかりダメージを受け大の字に伸びてしまった。残りの二人のレスラーも同じようにしてそのレスラーの上に投げ捨てられた。三人のレスラーは重ねられゴーレムはその上に足を乗せると三人とも動けなくなった。レフリーはあわててスリーカウントをとった。あっけなく勝負はつきゴーレムがリングの片隅に戻るとと若手レスラーが出てきて倒れている三人のレスラーに肩を貸して控室に戻って行った。三人のレスラーはさかんに捨てぜりふをゴーレムに投げかけていたがゴーレムは全く聞いていないようだった。ゴーレムは少しも汗をかいておらず何事もないようにリングの片隅にもたれかかっていた。そこへまたリングアナウンサーがやってきた。今度は前と違うリングアナウンサーだった。吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人は今度は何が起こるんだろうかと思った。やがてリングアナウンサーはリングの中央に進み出るとマイクを握ってまるで観客をあざ笑っているかのように叫んだ。
「皆様、今日はもうひとつアトラクションがあります。飛び入りでゴーレムと戦う男がやってきております。紹介致します。全日本空手道チャンピオン松井要蔵氏です。」
観客席の中から白い空手着を着た男がリングに上がってきた。身長は二メートル近くあるかもしれない。鋼のような細い体をしているが全身がこれ凶器という感じだった。あごが張っていて並々ならぬ闘志を内に秘めているようだった。その空手家はリングアナウンサーからマイクを奪い取ると話し始めた。
「観客のみなさん私は古式空手の増井洋三です。皆様プロレスなんてみんなインチキです。お芝居です。しかしそれだけならいざ知らずおとといの番ある場所で私の門下がこの男に侮辱を受けました。酒の上のことだけばかりではなく空手界に対する大いなる挑戦だと思います。ここで私がその結論を出しましょう。我が空手が日本古来のまた東洋が生み出した最強の護身術でありプロレスが芝居でありインチキだということをこの古式空手の私が証明して見せましょう。目の前にいるこの体だけ大きな偽物を私が倒して見せましょう。」
増井洋三がそう言うと観客席からは非難の声と歓声が五分五分に起こった。しかしこれで試合がひとつ余計に見られのでみんなは喜んだ。増井洋三の門下生とこのプロレスの興行団体のあいだでどんなことがあったのか三人にはよく分からなかった。
「一体どうなってるのや、これ。」
「おいおい、何を真剣になってるんだよ。きっとのこの男は自分を売り出すためにやってるんだぜ、きっと。」
吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人はかたずをのんでリング上に視線を注いでいた。レフェリーはリングの上に上がっていることは上がっているが予想外の出来事に困惑しているようだった。レフェリーは盛んにリング下にいるこのプロレス団体の職員と連絡を取り合っていた。ゴーレムはやはり無表情な目つきで空手家を見ていた。空手家の方もゴーレムを睨んでいたがその目には自信があるようだった。三人はこの男ならもしかしたらゴーレムを倒せるかも知れないという期待を抱いた。レフリーのところに人がやってきて何かを相談した。レフリーは二人のところへいき何かを説得していった。どうやらこの私闘を取りやめるように説得しているらしかった。しかし二人は少しもレフリーの言うこと聞いていなかった。ゴーレムはレフリーのズボンのバンドをつかむと場外へ投げ飛ばした。それを合図として二メートル近い身長のある空手家は片足を伸ばすとゴーレムのあごのところを全身の力を込めて打った。ゴーレムはよろけて倒れた。それを見た空手家は体でリズムを取り小刻みなジャンプを繰り返しながら次の攻撃のチャンスを待っているようだった。ゴーレムは立ち上がると両手を広げて空手家をつかもうと突進してきた。空手家は横跳びになり回しげりをフォーラムの腹に加えた。ゴーレムは腹を抱えてうずくまっていたがやがて立ち上がったゴーレムの目は憤怒で燃えていた。ゴーレムは空手家の攻撃を受けるのを承知で空手家の方へ突進していった。空手家は前げりと正拳をくり出したがゴーレムに捕まってしまった。ゴーレムは空手家を熊の抱き締めのように抱えこんで力を加えた。空手家はしばらくジタバタとしていたがやがて力が抜け腕はぶらりとしてしまった。ゴーレムは空手家を放すと空手家はマットの上に大の字に伸びてしまった。するとまたリングアナウンサーが上がってきた。
「皆様御貰になりましたか。この空手家のぶざま姿を。これが空手などというものの実力ですこんなものを日本の皆さまはありがたがってきたのでしょうか。日本にある空手などというものは何の実力もない畳水練みたいなものです。そのくせやたらありがたがって見せたがるまやかしの格闘技なのです。」
ゴーレムはにやりと笑ってあたりを見回した。このリングアナウンサーとゴーレムは東洋の武道を馬鹿にしてるようだった。東洋のすべての空手家を挑発しているようだった。吉澤ひとみと松村邦洋と滝沢秀明は何か三人が馬鹿にされているような気がして憤った。三人は三人ともこぶしを握っていた。日本全体いや東洋全体がバカにされているような雰囲気だった。空手家が登場したときは五分五分の歓声と非難だったが今はゴーレムに対する憎しみで会場は満ちていた。しかし、外見とは裏腹にゴーレムは大変頭の良い男だというプロレス記者の報告もある。いつでも割と冷静で金にならないような試合は決してしないと言われている。しかし今日はどうしたということだろう。一円にもならない、発端がはっきりしたことはわからないが私怨のようなことから発展したらしい試合をしている。この空手家にゴーレムが勝ったからと言って彼には一円にもならないし、夕食の時間も遅れるだけなのだ。作っておいたシチューは冷めてしまうだろうし、焼いた肉は堅くなってしまうだろう。ワインのコルク栓があけられていたならその匂いも飛んでしまうかも知れない。何よりもゴーレムの人間離れした体力なら相手を軽く突き飛ばして、相手にせず、控え室に戻ることも可能だっただろう。しかし、ゴーレムはこの日本人の空手家を相手にしてよけいなエネルギーを使い、そこにいた観客たちの憎しみも買っていた。観客はみな屈辱のようなものを感じていた。するといつの間にか気がつくとリングのコーナーの下に一人の小柄な男が立っていた。男は墨染めの衣を着て頭は剃っていた。それはいつかの若い僧だった。その僧の異様な風体にゴーレムは目を丸くしていた。その若い僧はそんなことににかかわりなくリングの片隅の下で静かに手を合わせた。
「御仏のお慈悲を。」
そう言うとひらりとジャンプをしてリングのコーナーポストの上に立った。それを見たゴーレムは新たな敵と直感してその僧の立っているコーナーポストの方へ突進してきた。若い僧はコーナーポストからひらりと飛ぶとゴーレムの頭の上を飛び越え後方へ飛びゴーレムの後頭部へけりを加えた。ゴーレムはその一撃で音を立てて崩れ落ちた。若い僧はリングの中央にすっくと立つと両手を合わせた。
「御仏のお慈悲を。」
そしてまた飛び上がると体育館の天井を支えている鉄骨に跳び上がり鉄骨の上を走り去りいつの間にか消えてしまった。観客は皆呆気にとられて声も立てることができなかった。それは吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人組もまた同じことだった。その沈黙を破るように松村邦洋が口を開いた。彼はこの前黄金仮面に襲われたことを思いだしていた。
「滝沢、この前もあんなような坊さんに出会ったじゃないか。」
「うん。」
滝沢秀明はその事にあまり触れたくないようだった。吉澤ひとみが二人の話につられて口を開いた。
「それ、どういうことなの。松村君たち前にもあんなお坊さんに出会ったの。」
「うん、実はそうなんだ。」
松村邦洋と滝沢秀明はこのまえ帰宅途中黄金の仮面をかぶった怪人物に襲われその時老僧に救われたことを吉澤ひとみに話した。吉澤ひとみは目を丸くしてを驚いた。
「じゃあ、そのお坊さんはあなたたちを助けてくれたのね。」
「うん、そうなんだ。」
「黄金の仮面をした怪人に滝沢くんは心当たりがないの。」
「うん全くない。」
「そう。」
そのとき、このプロレス団体の職員たちが何人か、試合会場の方に走ってやって来た。誰かを捜しているらしかった。小柄の頭のはげたポバイに出てくるハンバガー好きのスウィーピーのような外人がネクタイをしていない背広姿で吉澤ひとみたちの前を走り回った。しきりに何か叫んでいる。誰かを捜しているようだった。
「あれはゴーレムのマネージャーじゃないか。」
吉澤ひとみの後ろの方で事情通らしいプロレスファンが話しているのが聞こえた。そのうち店内放送が体育館の天井から流れてきた。観客のざわめきでよく聞き取れなかったが、どうやら選手の控え室にどろぼうが入ったらしい。わざわざ混乱も懼れず店内放送をかけるということは大部大きな被害をうけたのかも知れなかった。また事情通らしい、そう言った種類、つまり選手のキャッチフレーズやロゴの入っているシャツを着ているからそう判断するのだが、後ろの方の見えない客席から仲間同士でそのどろぼう事件について話しているのが聞こえた。
「どうも、ゴーレムの控え室に誰か、どろぼうが入ったらしいぜ。」
「控え室、控え室にそんな大事なものが置いてあるかよ。」
「ゴーレムは特殊だよ。いつも、一人だけの控え室を要求して、大切なものは全部持ち歩いているって噂じゃないか。」
ゴーレムの控え室にどろぼうが入って何かを盗んで行ったのか。それで彼のマネージャーがあわてふためいて客席の方を駆け回って行ったのかと真相がわかった。そのため、会場を出るときは足止めをくらって、荷物検査までされたのだった。三人はそのプロレスの試合を見終わって体育館の外へ出ると外もすっかりと暗く星が空にまたたいていた。三人は夜の大阪の街を歩いていった。それはいつかと同じように松村邦洋が吉澤ひとみを尾行していたときと同じような道だった。吉澤ひとみはいつもと同じように颯爽と歩いている。松村邦洋と滝沢秀明波いつもと同じようにしょぼくれて歩いていた。松村邦洋は自分が吉澤ひとみを尾行したときのことを話したかった。それは吉澤ひとみがいるためにできない相談だった。
「それにしても随分遅くなったわね。」
吉澤ひとみが言った。プロレスの興行が終わるともう外は暗く時計の針は七時を過ぎていた。
「うん、こりゃあ、家に着くのは八時半ごろになると違うやろうか。」
「ええ、そうね。そのくらいの時間になるんじゃないかしら。それにしても今日のお坊さんは強かったわね。」
「ああ、あんなに強い人間を見たのは初めてや。あれなら世界中のどこへ行っても格闘技のチャンピオンになれると違うやろうか。」
「うん、そうね。でもあれはほとんど超人的だったじゃない。あの人本当に人間なのかな。」
吉澤ひとみは首を傾けた。
「話によるとこれはSF雑誌の受け売りなんだけどね。人間は修業によって超人的な力を持てるという話を聞いたことがあるんや。何しろ人間ってみんなその能力の三十パーセントも十分使いこなしてあらへんのやって。」
「へぇ、松村君、いろんなことを知ってるのね。」
「だからこれは別の雑誌の受け売りだと言っておるや、おまへんか。」
「でもうそんなに強くなったって一体どんないいことがあるの。それで他人の幸せを増すことができるというのかしら。他人とまで言わなくても自分の幸せを増すことができればね。それにどんなに強いと言ったってミサイルや生物兵器に勝てるわけじゃないでしょう。」
「あんまり難しいことも言いないや。強よければ。楽しいじゃない。世の中強いことが一番だよ。人類や誕生してから人類は強さも求めてきたじゃないかい。だから強いものにみんなが憧れるというのは世の中の常識やで。みんな自分にないものを求めているんや。一種のスーパーマン願望やな。」
「松村君って意外と子供なのね。」
「子供でいいわ。子供が本当の建前でない真実を知ってるかもしれへんわ。」
「私そういうも嫌いだわ、私だって何かを求めているわ。」
するとずっと黙っていた滝沢秀明が口を開いた。
「永遠の恋人ですか。」
その言葉に吉澤ひとみは顔を赤らめた。
「うん、もういやだ。滝沢くんたら。」
「それにしてもあのお坊さんの登場は最初の予定にはなかったみたいね。だってレフェリーがあんなに慌てていたじゃないの。」
「まあ、いいじゃないの、それでわてらも面白い試合をひとつ余計に見ることができたんやから。」
「でも、なんであんなことが起こったのかしら。」
吉澤ひとみはまだ少しふに落ちないように滝沢秀明のほうをちらりと盗み見た。
「滝沢くん、何故黙っているの。」
「いや、僕は別に黙ってなんかいないよう。今日の出来事があまりにも突飛だったので少し驚いているんだ。」
「じゃあ、空手とプロレスではどちらが強いと思う。松村君はどちらが強いと思う。」
吉澤ひとみは松村邦洋の方を振り返って見ながら言った。
「うん、どちらが強いかって言われてもよく分からないんやけど、それより吉澤さん。あの試合をカメラにとっておけばよかったのにカメラ持ってきたん。」
「ああ、そうだ。本当。松村君の言うとおりだは。こんな時にこそカメラを持ってきて撮っておけばよかったわ。
そうすればわたしたちの新聞の記事が一つ増えるじゃない。」
「あっ、そうや。この前、吉澤さんに撮ってもらったのもう出来た。」
松村邦洋は吉澤ひとみにあの事件のあった古寺を取材をしてその折りに写真を撮ってもらったことを思い出して聞いた。滝沢秀明はその事に興味を持ったらしく吉澤ひとみに話しかけた。
「ああ、吉澤さんを、松村君に写真を撮ってあげたんだ。」
「ええ、そうよ。」
「そうや、滝沢、吉澤さんにそのうち写真を取ってもらえばいいんや。ねえ、いいでしょう。吉澤さん。」
「ええ、いいわよ。その内にね。」
松村邦洋は吉澤ひとみの持っていたコンパクトカメラを思いだしていた。向こうから酔っ払いが。歩いて来る。随分と夏が近づいているためビヤガーデンでビールの大ジョッキでもあけているのだろう。このこのまま酔いつぶれて道端で寝てしまっても、もう冬のように風邪をひいたり凍死するということはあるまいと思えた。せいぜい警官に注意されるだけの話しだ。三人が栗の木団地についたのは思っていた通り八時半を少し回った時刻だった。あたりはすっかりと暗くなり大きな間隔を開け立てられている水銀灯が夏の夜空にぼんやりと浮かび上がっている。その水銀灯の回りには蛾が地球の周りを周遊する多数の人工衛星のように飛んでいた。勤め帰りのサラリーマンとも出合わなかった。松村邦洋と滝沢秀明が黄金の仮面をかぶった暴漢に襲われた場所にやってくると吉澤ひとみは興味を持ったようだった。
「へぇ、こんなところにその黄金の仮面をかぶった怪人が隠れていたの。」
吉澤ひとみは雑木林の下にある茂みに目を移した。その上そのあたりの茂みの中まで調べようとした。松村邦洋と滝沢秀明がとんでもないという表情でおもしろがっている吉澤ひとみの方を見ていた。彼女は二人の視線にもほとんど無頓着なようだった。三人は栗の木団地の九号館の前に来ていた。九号館はお稲荷さんの滝沢のそばにありそこに吉澤ひとみと松村邦洋が住んでいた。そして彼らの団地の横路を真っすぐ抜けたところにある一戸建ての住宅に滝沢秀明は住んでいた。そこで三人はまた明日学校で会おうと約束して別れた。
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