第8話

第八回

松村邦洋が新聞部の入部手続きをするため新聞部の部室へいくと吉澤ひとみは喜んだ。

「松村くんうちの部に入るの。それから滝沢くんも。」

吉澤ひとみは振り返った。今まで書いていた原稿から目を離すと筆を持っていた手を止めた。そして今まで座っていたイスから上半身をくるりと二人の方に向けた。彼女は同級生というよりも教師のようだった。新聞部の部室の窓には金網が張られていてボールが当たっても窓ガラスが割れないようになっている。吉澤ひとみが吉澤稿を書いている机の上には散らばった吉澤稿と水栽培のグラジオラスの紫の花があった。新聞部の部室は校舎の一番端の位置にあった。もともと美術や家庭科の準備室として石膏像や家庭科で使うなべやかまなどが置かれていた物置だった。栗の木団地ができてから生徒が増えてきて手狭になったのでここを部室につくり直したのだった。部室には中ぐらいの大きさの黒板が描かれている。そのそばに机が三つあってそれは事務机だった。それから折り畳み式の椅子が五つある。部室の片隅にはロッカーが置かれていてそのロッカーにはガラスの引き戸がついている。そしてその引き戸には鍵がかかるようになっている。その中に新聞部の唯一の財産といってもよいカメラが数台入っている。コンパクトカメラが二台、それはだいぶ古い形のもので昭和四十年ぐらいに流行ったものだった。そのころフィルムを二倍使える方式でハーフサイズというものがあった。二十四枚撮りながら四十八枚撮れるようにフィルムを送るストロークを半分にするというつまりいう実画面を縦に半分の面積にするというアイデアだった。一台はリコーのものでもう一台はオリンパスのものだった。どちらもレンズの周辺には自動露出調整用の露出計がついている、それも古くなっているので正しい計測ができるかどうかわからない。もう一台は一眼レフカメラでそれはてミノルタ製のものだった。しかし巻き上げは旧式なもののために手動だった。このまえ吉澤ひとみが使っているカメラは吉澤ひとみの持ちものらしく新聞部のロッカーには入っていなかった。そして職員室から払い下げられた輪転機が置いてあり、その輪転機の下には一番安物のわらばん紙が積み重ねてある。新聞を一カ月に一回発行するのは決まりなのだが部員が新聞を発行するのが目的というより吉澤ひとみのそばにいたいという目的の部員が多かったためその理想もなかなか守らなかった。授業が終わると松村邦洋と滝沢秀明はこの部室によってから帰ることにしていた。そうすると必ずと言ってよいほど吉澤ひとみに会えるのだった。新聞部の部室に収まった吉澤ひとみはその部室を背景とした油絵のようだった。その油絵の中で吉澤ひとみは微笑んでいる。松村邦洋と滝沢秀明は土曜日の四時限目が終わると新聞部の部室へ急いだ。土曜日の四時間目が終わると帰ることができるのだ。しかしこれも学校の週休二日制が話題に上っている今日このごろはいつかは昔話となるかも知れない。しかし学生にとってこの土曜日ほどをうれしいものはなかった。いつもは授業で四時近くまで拘束されていてクラブのあるものはそれから六時、七時まで学校に居なければならない。それが土曜日の午後はいつもの日と違い、すっかりと暇になり大阪のキタやミナミへ出かけていって映画を見たりブティックをのぞいたり喫茶店でおしゃべりをしたりレコード屋へ行ったりと皆それぞれの予定が埋まっているというわけだった。そのため土曜の昼飯ほどおいしいと感じるものはなかった。二人は新聞部の部室で弁当を食べてから帰ることにした。部室に入ると吉澤ひとみがいた。

「あら、お二人さん、いらっしゃい。用件はわかってるわよ。お弁当食べてから帰るんでしょう」。

机の前で雑誌を読んでいた吉澤ひとみがいった。

「うん、弁当を食べてから帰ろうと思って部室に来たんだ。」

「ちょうどよかったわ。私もお弁当を持ってるから三人でお弁当だけでも食べてから帰りましょうか。ちょっと待っててね。」

吉澤ひとみはそういうと流しのところでやかんの中をゆすぎ、水を注ぎ、コンロの上にかけた。しばらくするとやかんの注ぎ口から白い蒸気が吹き始めた。三人は並んで弁当を食べ始めた。窓の外ではサッカー部の部員が柔軟運動を始めている。教室の中には甘やかな風が流れて滝沢秀明が吉澤ひとみが弁当をほおばっている横顔を見つめていた滝沢秀明を見て吉澤ひとみは彼をはしでつっくまねをした。

「恥ずかしいじゃないの。見てないでよ。」

吉澤ひとみははしを持ったままひじをつきながら何を思ったのかくすりと笑った。

「ねぇ二人はいくつぐらいになったら結婚したいと思うの。」

松村邦洋と滝沢秀明はいつもマドンナとして本当の感情を表さない吉澤ひとみの口から思ってもみたことないようなせりふが出てきたのでびっくりした。

{この女、何を考えてるのだ。いつもと様子が違うじゃないか。きっとこれは何かの策略に違いない。いつもこの女はそうなのだ。頭の中では何かを隠しているに違いない、きっとおれたちを利用しようとしているんだ。これがこの女のやり口なんだ。」

と松村邦洋は警戒した。滝沢秀明の方はぶ然としたような表情している。

「何びっくりしたような顔してるのよ。私だって女の子よ。結婚したいと思うこともあるわよ。ふふふふふ。」

松村邦洋は吉澤ひとみが熱病にかかっているのではないかと思った。

「なんや古臭いんやな。これからは男女平等や女も男の職場にどんどん進出するやろう。これから結婚しないバリバリのキャリアウーマンちゅうのがはやるやないの。」

「まあ意地悪な見方ね。松村君、私のことをそんな風に見ていたの。」

まるで吉澤ひとみを松村邦洋と滝沢秀明の二人がインタビューをしているような雰囲気だった。

「へぇ、吉澤さんは多くの男をかしづかせて一生結婚なんかしないと思ってた。だってわがS高校のマドンナじゃないか。」

「まあ私ってそんな女に見えるの。」

吉澤ひとみが困っているような顔をしているので松村邦洋も言い過ぎたことを反省した。

「待って吉澤さんだったらいつでも結婚させてもらわ。」

「まるで松村君は相手が誰だっていいみたいじゃないの。」

「いいことないよう。吉澤さんみたいにきれいな人なら誰だってそう思うよ。」

「私がちょっとかわいいからそう言ってるのでしょう。」

吉澤ひとみはもう少し何かを考えているようだった。しかしその表情にはあまり深刻な様子はなかった。

「こういうことは考えられないかしら大昔はどうやって赤ちゃんが生まれるかなんてその仕組みも何も分からなかったでしょう。人工授精なんて考えることのできた人が昔にいたかしら。」

「でも交配技術なんかはかなり昔からあったんやないか。おいしい牛肉を作るとか人間に役に立つ動物を作るとがそういうことは昔から考えられていたと思うよ。」

「松村君、なんかは動物の交配と結婚を同じようなレベルで見ているのね、問題だわよ。」

「そんなことないよ。」

松村邦洋はおどけて言ったが滝沢秀明は黙ったまま何も言わない。

「滝沢くん黙ってばかりいて何を考えているの。」

「いやあ、僕は何も考えていないよ。吉澤さんにそんな家庭的な面があるなんて意外だなあと思って。」

「何言ってるの。私だって夫婦がいて家庭があってこの世界に生まれてきたのよ。」

「それだから滝沢は古いんだよ。家庭なんてくそくらえだよ。これからはバリバリのキャリアウーマンの時代だって言っているじゃないか。」

「でもみんながそんな風に結婚しなくなってだ。少子化時代がやってくるじゃないか。」

「なんだ滝沢お前は子供至上主義になったんか。」

「あたりまえじゃないか。人間の命は短いんだ。子供作ってまたその子供が子供作る。それで人間の歴史は作られていくんです。」

「なんだ滝沢って種まく人みたいやね。でも俺も本心ではそういう意見には賛成しとるんやがな。だから女の人は子供がたくさん生めるかどうかが価値の基準になるんだ。」

それはまるで松村邦洋の吉澤ひとみに対する虚勢のようだった。それほど松村邦洋は吉澤ひとみの外見に劣等感を持っているのだろうか。吉澤ひとみはきょとんとした顔をして松村邦洋の話を聞いていた。

「へぇ、そんなもんなの。」

滝沢秀明は海苔でまいたおにぎりをほおばりながらコーヒー牛乳を吸っていた。口いっぱいに握り飯をほおばってものを言うのがしごく大変そうだった。窓の外ではサッカー部の連中が今度の対抗試合に備えてサッカーボールをさかんに蹴っている。S高校のサッカー部は出ると負けを続け今や対抗試合においては十八連敗をつづけていた。

「サッカー部の連中また練習やってるよ。出ると負けなのに。」

三人はそんなことを話しながら弁当を食べていたがやがて三人とほぼ同時に弁当食べ終わり三人で一緒に帰ることにした。帰る方向が同じだということや三人とも新聞部に属していて授業が終わると三人が三人とも新聞部の部室へ立ち寄ることで大の仲良しなっていた。それは彼ら自身はもちろん他の者たちもその事実を認めていたがその理由はわからなかった。まわりの生徒たちや教師はこの事実が不思議でならなかった。吉澤ひとみはこのS高校のみならずこの地域ではマドンナ的な存在でありその彼女がなぜこの男子二人、松村邦洋と滝沢秀明を自分の親衛隊に選んだかはこの高校の七不思議のうちの一つだった。


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