第4話

第四回

大阪の郊外に府立S高校という公立の男女共学の高校がある。同じ町には不可解な殺人事件のあった精神病院、暗闇の中の格闘のあった古寺を擁している。しかしこの高校ははなはだのんきである。この高校の中にはこれらの事件を知っている者は一人もいないのではなかろうか。環境としては周りを菜の花畑や雑木林などに囲まれた新設ののどかな高校だった。S高校の屋上に上って辺りを見回すとこの町の全容がすっかりとを見渡すことができる。あたりはだいぶ住宅も建ち並び始め赤や緑の屋根が緑のじゅうたんの中にまるでマッチ箱のように点在している。あの精神病院や古寺も風景の一要素としてとらえれば単なる小さなマッチ箱だ。そして所々に畑や農家のわらきび屋根も見える。ここら辺が町になる前はそれなりの伝説もあった江戸時代からの因習をひきずった村だったろうし、狸や狐にばかされた話しも、古沼に住む河童の話しも、そして藁葺き屋根の家の中でそれらの伝承を語り継ぐ老人の姿もあっただろうがそれらは新しく移入してくる住民や事物に押し隠されてしまった。そして新興住宅が次々と建てられていった。S高校から見える新興住宅は大体が一戸建ての家が多かった。それらのひとつひとつの住まいには住宅ローンに追われながらもまた通勤時間の長さに辟易しながらもやっと自分の城もてたことに満足している幸福な人々の生活があった。それらの一戸建ての住宅のほかにも大阪府の肝いりで計画建造された大きな雑木林の一角を区切って四階建ての集合住宅が十棟ほどたてられた。これは大都市の郊外の新興住宅地街ではよく見られる風景である。校舎の階段を上がっていくとS高校の屋上からは五月の薫風をほおに受けながらそんな景色を望見することができる。今、その白い長方形の箱の内部はだいぶ人で埋まっている。長期休みもあけてS高校も新学期になっていた。松村邦洋はこのS高校の二年生である。松村邦洋は連休中の宿題もなんとかやり終えて連休明けの提出期限に間に合わせることができた。連休も開け五月中旬ともなるとさすがに少しずつ夏の気配が感じられる。ときには真夏のような強い日差しの日もある。この暑い日差しが作物の生育に欠かせない。夏は成長の季節であり人が子供から大人に変わる季節でもある。高校二年生の松村邦洋はすっかり回りの皆が大人びてきたことを認めずにはいられなかった。しかしその一方でそう感じている松村邦洋は少しも成長しておらず回りの皆に取り残されていような印象を人に与えるほどあどけない容貌をしていた。そのあどけない容貌というのも彼の体型に起因しているといえないこともない。松村邦洋は極端に太っていた。そのユーモラスな外見がそういった印象を他人に与えるのかも知れなかった。現在活躍しているタレントで言えばものまねやお酒を飲むときコップを縦笛に見立てて指を演奏しているように動かすお笑いタレントに似ていた。松村邦洋が教室に入ると回りの生徒は連休中の思い手話しに花を咲かせていた。いつものように教室は活気づいてざわめいている。連休気分がまだ抜け切れないものもいる。やがて始業のベルが鳴り生徒たちは各自着席しホームルームの最近結婚したばかりの担任畑筒井が教室に入ってきた。ホームルームの担任は二人の生徒を後ろにしたがえていた。転入生らしかった。一人は男でもうひとりは女だった。畑筒井は婚期が遅れていてだいぶ年をとってから嫁さんを見つけたので三十の半ばを過ぎている。だからはなはだむさい。むさいホームルームの担任は教壇に上がると生徒たちの方を見回してあいさつをした。その間ふたりの生徒は教室に入って来て教室の前方にあるドアの前で借り物の猫のようにじっとして待っていた。ホームルームの担任が口を開いた。

「やあ、みんな連休は長かったが有意義に過ごしたか。」

するとどこからともなくちゃちゃを入れる声がした。

「先生、結婚したんですか。どんな人。僕たちの知っている人ですか。」

すると畑筒井はきまり悪そうに空咳をした。「おい、吉田、お前は連休をどんな風に過ごしたんだ。」

吉田と言われた生徒は小猿のような身振りで連休中に山に泊まりがけで旅行をしたことなどをてぎわよく話した。教室内の生徒たちはその話を聞いていたが二人の転入生に心を奪われているようだった。そんな教室の雰囲気にも畑筒井は無頓着だった。

「そうかみんな何らかのことに精出していたんだな。よろしい。よろしい。若いときは二度とない。みんな悔いのないように過ごすんだ。」

「人生チャンスは何度でもあります。畑先生でも結婚できたんだから。」

「うるさい、何を下らないことを言っているんだ。僕の良さを認めてくれる人が現れたってことだよ。うっしししし、ところで今日は新しい仲間がこのクラスに入ることになったので紹介しよう。二人とも今度新しくできた栗の木団地に引っ越してきた二人だ。」

ホームルームの担任畑筒井が言った栗の木団地というのはこの町にある大きな雑木林の一角を削って作った新しい団地のことだった。その団地が最近完成したためだいぶこの町の人口も増えたに違いない。そのためS高校にも編入者が随分と多く入ってきた。最も高校がというか行政側では栗の木団地の完成を見越して生徒数もだいぶ多く見積もって高校を新築したのだが。

「さあ、二人ともこっちへ来いや。」

ホームルームの担任がネクタイを直しながら教壇から二人の転入生を呼び寄せると二人が教室入り口のところから教壇の上に跳び上がった。そして照れ臭そうに教室内の生徒たちの方を見た。

「こっちが滝沢秀明くんだ。」

ホームルームの担任が男の方を指さして言った。その男子生徒は中肉中背で眉のあたりの濃い少しあごの出た容貌の男でどこが俳優のYに似ていた。またずいぶんと礼儀正しい男のように見えた。そして人を見るときの彼の目の奥にはどこか燃えている光があるようだった。演壇の上に立つとその特徴である顎を少し前に突き出して言った。

「滝沢秀明と言います。滝沢の滝は。山にある滝、居は住居の居です。お宮の滝沢と言ったほうがわかりやすいかな。よろしくお願いします。」

滝沢秀明はそう言うとまた照れ臭そうな表情をしてぺこりと頭を下げた。それはまるで宮沢賢治の童話どんぐりと山猫に出てくる山猫のようだった。滝沢が後ろに身を引くともう一人の転入生の女の子の方が一歩前に出てきた。そしてホームルームの担任はまるで今日の自分の恋人とのデートで上の空にでもなっているように彼女を見た。

「それからこっちの女性が吉澤ひとみさんだ。」

そう言うと今度は担任の方が山猫のようににやにやした。何とそれは**京を観光しようと電車に乗っていた、大江山の酒呑童子に出てくる渡辺綱に興味を持っていた女の子だつた。

「吉澤ひとみと言います。よろしくお願いします。」

吉澤ひとみと名乗った女子生徒はペコリと頭を下げた。笑うと目がクリクリとするなかなかの美人で表情はバラの花のように輝いていた。どこかいたずらっぽい感じのする女でそれでいてどこか純粋でけがれのない部分を持っていた。

「じゃあ席はどこにしようか。滝沢も吉澤も目を悪くないか。」

ホームルームの担任の畑筒井は間延びした表情で教室の中を見回した。

「いいえ。」

「いいえ。」

「じゃあ一番後ろの席が二つ空いているからそこに座って貰おうか。いいだろう。」

「はい。」

そう言って二人の転入生は自分の荷物を持つと教室の後方へ移動していった。クラス中の視線はその間中彼ら二人に注がれていた。もちろん松村邦洋の視線もこの二人の新しい転入生に注がれていた。その列には空いた座席が二つあったのだがそのうちの二つの座席が埋められた。まだ一つ席が空いているのだが担任の畑筒井はあご髭をさすりながら開いている席に目を移すと心の中ではまじめな気持ちで言っているのだろうが、やはりまだ間の抜けた調子で付け加えた。

「あとみんなに悲しい知らせがあるんだ。松田努はしばらく学校を休むことになったや。松田の世話をしている親戚がそう連絡してきた。いつまで学校に来られないかははっきりしない。早くまたみんなと一緒に勉強ができるようになればと思っているんやが。みんなも知ってるとおり松田のお兄さんが原因不明の精神病でK病院に入院してしまい、その精神病院の中で変死した。そのことは知ってるやろう。」

「ああ、俺、知ってる。」

クラスの中の一人の生徒が声を出した。するとまたその生徒のそばにいたもう一人の生徒が声を出した。

「松田の兄さんは自殺という事になっているけど噂では殺されたという話しやで。証拠がないからつかまえられないんやて。犯人はK病院のそばの逆さの木葬儀場の栗木百次郎だという噂やで。」

栗木百次郎と言われてもここに最近越して来た生徒にはわからなかった。昔からここに住んでいる生徒だけが栗木百次郎と言われてぴんと来るようだった。K病院のそばには逆さの木葬儀場という焼き場があるらしい。昔から住んでいる生徒の家ではその名前はかなり有名なのだろう。そしてその家の家族がそんな噂をしているのだろう。そう言った話を小耳に挟んだ生徒が半ばそう言った噂を信じてそう言った噂が出たのだろう。しかし軽率にそう言った生徒を担任の畑筒井はたしなめた。

「あんまり噂みたいな事を言うんやない。警察でもちゃんと自殺だったと結論を出しているんやから。まあ、とにかくその精神的負担からやないかと思うんや。それで努も随分とそのことを気に病んどったからな。みんなで少し力付けてやってくれや。以上。」

ホームルームの担任の畑筒井はそういうとネクタイを締め直しながら教室を出ていった。ホームルームの担任が出ていくとクラスの中でもに如才のない連中、二、三人が新しい転入生の滝沢秀明の前にやって来た。

「やあ、君、滝沢くん、君なんていう高校に行っていたの。前はどこに住んでいたの。」

好奇心の強い連中は山なりになってまるでひとつのエサに群がる猿のよう滝沢秀明の方へきた。

「前は東京の大田区に住んでいたんだけど。

通っていたのT高校だよ。」

「そう、東京と大阪ってどう違うと思う。第一印象でいいから聞かせくれや」

「そうだなぁ。どう違うか僕にもよく分からないよ。」

「じゃあ、東京の女の子と大阪の女の子だったらどちらがかわいいこが多いと思う。なあ聞かせてくれや。それによって、わてどこに住むか決めようと思ってんのやさかい。」

滝沢秀明は苦笑いをした。

「うーん、大阪の方が多いかもしれない。」

「あっ、そうだ。わての名前言うの忘れてたけど

三石言うんや。よろしくな。」

「それからわての方は勝岡言うんや。よろしくな。」

「松村邦洋の二、三人後ろの席からはそんな話し声が聞こえてくる。吉澤ひとみの方も二、三人の女の子に囲まれて話していた。

「吉澤さんどこから引っ越してきたのや。」

「うん東京の方よ。新宿からよ。」

「あら、うちの親戚も新宿にいるんや。この前もその親戚の家に遊びに行ったんや。」

「あら、新宿のどこ。」

「早稲田の裏の方や。」

「あら、私の親戚も早稲田に住んでいるのよ。あっちの方まだ市電が走っているでしょう。東京だったら都電って言うんやろうけど。」

「うん、走っている。走っている。」

「それに乗って大塚というところで降りたわ。」

「私もその都電には毎日乗っていたわ。それに乗って通学していたの。」

そんなことを話しているうちに次の授業のチャイムが鳴り皆は席についた。授業中二人の転入生はどんなことをするのだろうと他のクラスメートと同様松村邦洋もこの二人にほとんどすべての関心を向けていたが二人とも新しく貰った教科書に興味があるのかそれとも前の学校で使っていた教科書と違うのか授業中もそれらの教科書に目を通しているだけで何の変化もなかった。夕闇に囲まれたS高の校舎から出て吉澤ひとみは白い校舎の建物を見ると背後の夕闇が感傷をさそうようなだいだい色ではなく、不安や恐怖を暗示するような暗い色をして校舎を飲み込む悪魔のような姿に見えた。まだこの学校にやって来てそう日も経っていないのに何故そんな風にこの学校の姿が見えるのか吉澤ひとみ自身にもわからなかった。まだこの学校に来てから嫌な思い出が出来たというわけでもない。振り返った校舎の窓は大部分が閉まっている。少し大股で革のかばんを前後に振りながら女子高生がよく履いている白いハイソックスとリーガルの革靴で歩いていた。すると後ろから誰かに呼び止められた。吉澤ひとみが後ろを振り向くと彼女が転校して来て新しく入ったクラスメートの女の子が三人いた。彼女たちは吉澤ひとみに多いに興味を持っていた。吉澤ひとみがテレビに出ても良いような大変な美少女だという事と東京からやって来た人間だということが大きな原因だった。

「吉澤さん、これから真っ直ぐ家に帰るの。」

「ええ。」

「どこに住んでいるんや。」

「栗の木団地。」

「ああ、あそこ。」

「クラスの子で誰か栗の木団地に住んでいる人っているの。」

「うちのクラスにはいないけど、隣のクラスにはいるわ。」

吉澤ひとみには彼女の通っている高校の姿が不気味に見えた事の意識がまだどこかに残っていた。

「この栗の木市で何か変わった事件とか起こっていない。」

すると三人並んで歩いていた女子高生の一人が吉澤ひとみの方を振り向いた。歩きながらしゃべっていたが彼女たちは足を止めた。

「吉澤さんはまだここに来たばかりだから知らんかもしれないんやけど、犬が何匹も殺されているんや。どこで殺されたのかわからへんやけどその死骸が川の土手に捨てておかれたり、公園のごみ箱の中に投げ入れられたりしているんや。」

「前からそんな事があったの。」

「最近の事や。」

「犯人の心当たりは全くないの。」

「それが全くないんや。犬を飼っている家なんか、それやから戦々恐々や。どこかの家で犯人らしい人物を見たという噂の立った事もあったんやけど。」

「犯人は変質者なのかしら。」

「たぶん、そうやろ。」

「なんや。」

吉澤ひとみの横を歩いているもう一人の女子高生の方が校門の方を見て小さく声を上げた。二つ並んだ校門の柱は巨大な四角柱の形をしていて白い墓石のように見える。その墓石の向こうに顔の表情ははっきりとは見えないのだがくすんだあずき色の服を着た河童のような男が横目でこちらの方を見ている。

「いやだあ、栗木百次郎がこちらの方を見ているわよ。」

「あっ、本当だ。栗木百次郎だ。」

女子高生たちはおぞましいものを見るようにひそひそとささやき合った。そこには何となく怖さも入り交じっていた。遠くの方で背をかがめてこちらの方を横目で盗み見ているその河童のような人物の姿は吉澤ひとみにも薄気味悪かった。もしかしたらこの校門から出て行く女子高生を観察しているのかも知れない。この校門に立っている理由などないのだからそうとしか考えられない。

「ねぇ、ねぇ、ひとみちゃん気を付けなきゃあかんであいつ盗撮魔なんやで、うち噂を聞いた事があるんや。うちの生徒の一人がテレクラでおじさんを引っかけてホテルにしけ込んだのはいいんやけど隣の部屋にあの栗木百次郎が隠れていておじさんとのセックスから金を受け取るところからみんな、壁に穴をあけていてそこからその様子を隠し撮りしていたんやて、それをゆすりのねたにして自分とつき合えと脅迫してきたんやて。それだけではないや、やっぱりうちの生徒が万引きをやったときそれを隠し撮りしていてそれをねたにうちの生徒とつき合うように脅迫したって話や。」

「それでつき合ったの。」

「警察にその生徒たちが通報して栗木百次郎は警察に捕まったという話や、それが何で警察からすぐに出て来られたか不思議なんや。脅迫ってものすごく思い罪なんやろ。」

「そうね。」

気味が悪いと思いながら栗木百次郎の姿を見ていると急にそそくさと栗木百次郎は猫背の姿勢のままでその場から立ち去った。校門の前は大きな農家のけやきでできた生け垣になっていてその生け垣と生け垣の間に大きなくぬぎの木が立っている。そのくぬぎの木の陰で校庭の方を伺っていたのだがそそくさとそこを離れて行った。吉澤ひとみが校舎の方を見ると男の教師が二人こちらの方に小走りでやって来る。きっと校門のところに栗木百次郎がいるのを見てやって来たのだろう。そうすると栗木百次郎はかなりのお尋ね者ということになる。

「先生、栗木百次郎は逃げて行きましたよ。」

生徒の一人が言った。 *

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