第2話
第二回
向島の駅から表通りを抜けて行くと、まだここには下町情緒が残っている。家の前に植木をたくさん並べて年寄りが水をあげていたりする。それも小さな植木ばかりでカルシウムの肥料をあげるために卵のからなんかがふせられている。万年青や盆栽なんかである。裏通りのかどを曲がると日本髪がひょっこりと顔を鉢合わせにするのではないかと思う。まだこの街には小舟が近くまで乗り入れて来られるように水路がひかれている。
江戸時代から続いている小店も多い。そこには昔から庶民に使われて来た商品が置かれている。佃煮や櫛や履き物やそんなものが売られている。
不動付言は横町に入って自分の家に通ずる横道を歩いていた。不動付言の家は瀬戸物屋をやっていた。大正時代のはじめからある木造の店で木が黒光りしている。瀬戸物屋の並びには同じような店が並んでいる。
そして細い道を境にして向こう側にも古い小店が並んでいる。不動の実家の向かいは和菓子屋だった。それは少し上品な呼び名で実際は団子屋、餅菓子屋である。テレビの放送に参加してから家に帰るともうすっかりとあたりは暗くなっていた。いつも見慣れた商店街も明かりがともっている。表の方から家の中に入ろうとすると足下に水をまかれた。
「おい、なにするんだよ」
団子屋の方を見るとワンピース姿の付言と同じくらいの女がひしゃくを持って家の前で打ち水をしている。
「みちよも家の手伝いをすることがあるんだ」
「付言くん、みちよもは余計じゃないの」
女は付言のほうにすり寄って来た。
この団子屋の娘、平家みちよは不動付言の幼なじみだった。平家みちよはなぜか旧態依然とした日本の風俗にどっぷりとつかって育ってきたくせにワインに興味を持っていて洋酒メーカーに就職して就職したとたんにヨーロッパのワイン園に出張していた。それはもちろん学生時代から培って来たワインに対する知識と語学の力におうところが大きい。もちろん彼女とは幼なじみであり、付言自身、みちよを女として意識したことはない。
「ベルギーにいる友達から送ってもらったの。おばさんにあげたら付言くんが帰って来たら一緒に食べたらっていっていたのよ。付言くんが帰って来たから、一緒に食べようか」
みちよはなんだか舌を噛みそうなヨーロッパのお菓子の名前を言って付言を煙にまいた。付言が実家の繰り戸をあけると父親は勘定場に座りながらテレビの相撲中継を見ながら片手で瀬戸物にはたきをかけていた。
「お帰り」
親父はテレビの相撲に目を奪われてふたりの方をちらりと見ようともしなかった。
「おばさん、今晩は」
二階に続く階段をお袋が下りて来て
「みちよちゃん、冷蔵庫に入っているわよ」
付言が瀬戸物が荒縄で縛られて横に積まれた階段を上っていくとうしろからワンピース姿のみちよも上がってきた。まったく遠慮というものを知らない女だった。
「今、冷蔵庫から出して切って持って行くからね。みちよちゃん、冷やした方がおいしんでしょう」
「そうよ。おばさん」
「麦茶でいいぞ。わざわざビールなんか出すことないからな」
不動付言が大きな声で言うと勘定場に座っていた親父が大きな声を張り上げた。
「付言、罰当たりなことを言うんじゃないぞ。お前がいくらみちよちゃんの世話になっているのか覚えているのか。みちよちゃん、ビールでもなんでも飲みなよ」
「はあい、おじさん」
不動付言はこれらの発言を無視した。
みちよは女のくせに平気で付言の部屋に入って来た。
「この部屋は見通しがいいのよね。それに風通しもいいし、向かい同士の家なのになんでこんなに違うのかしら」
実際不動付言の二階の部屋は風通しもよいし、見晴らしもよい。家の裏がちょっとした広場になっていてその向こうは墨田川の支流が流れている。もっと昔の時代にここに住んでいる人間が漁師ばかりだった時代にはここで干物を干したのだと死んだじいさんが言っていた。不動付言が扇風機のスイッチを入れると階下からお袋がお菓子と麦茶を持って上がって来た。その前にみちよはうちわを取り上げて自分をあおいでいた。
不動付言はみちよがヨーロッパの知り合いから送ってもらったという菓子を切り分けると口の中にほうりこんだ。
「付言くん、テレビに映っていたわよ。馬鹿みたいな顔をして手品を見ていたでしょう」
「馬鹿みたいだけ余計だよ。でも格好よく映っていた」
「もとが格好いい人は格好よく映るのよ。そんなの常識じゃない」
「なにが常識だよ。あんな番組を真剣に見ているみちよのほうが馬鹿みたいだよ。あそこで吉田が働いていたよ。吉田と云ってもみちよは知らないかも知れないけどね。ある時期ここらへんに住んでいたんだぜ。みちよは覚えていないかも知れないけど、すぐに転校して行ったからな。その吉田が言っていたよ。あんなのやらせだって。みちよは本気になって見ていたんじゃないだろうな」
不動付言はお気楽に平家みちよから貰った菓子をもう一切れ口の中にほうりこんだ。
「なあに、あれはやらせだったの。じゃあ、あの先生も前もって出ることが決まっていたの」
「そうだよ」
そのとき階下から不動の母親の声がして不動付言は二階の階段を上がったところにある木の柵から下のほうを見ると母親がのれんのあいだから顔を出して不動のほうを見上げていた。
「吉本あつきさんがいらしゃったわよ」
「上がってもらって」
みちよは急に不機嫌になった。
「吉本あつきさんって」
「同僚だよ。と言っても向こうのほうが三年ほど先輩だけどね」
「なんで来たのよ」
「前から約束してたんだよ。僕に用があるんじゃなくてこの家に興味があるみたいだよ」
階下から二階の付言の部屋に大人の雰囲気を少しく漂わせている吉本あつきが上がって来た。みちよより背は低いが顔つきが大人ぽいので全体として落ち着いて見えるし、不動付言よりも大人に見える。
「はじめまして、お客さんでしたの」
「いえ、こちらは向かいの団子屋の娘で僕の幼なじみなんです」
「本当、付言さんの幼なじみなの。付言さんの思い出話なんかを聞きたいわ」
「思い出話なんてたいした話はないんですよ。この裏に流れている川に浮かんでいる釣り船に岸から飛び乗ろうとして溺れかけて大騒ぎになったことがあったわ」
「くだらない」
不動付言はくさった顔をした。
「それから大空電気の前に飾ってあった宇宙金星王子の人形を自分の家に持って来て隠していておまわりさんに大目玉をくらったことがあったじゃないの」
さらに付言ははなじらんだ。みちよはさらに五、六個付言の得点を下げるような思い出話を続けたが、それらがみんな事実だったので付言はくさったが反論することも出来なかった。そのたびに吉本あつきは笑ってそれが調子を合わせているのか真実から笑っているのか付言には判断出来なかった。
そしてまた世話焼きの付言の母親が階下から二階に上がって来た。母親は三人分のメロンの切ったのを持って上がって来た。
「吉本さんがメロンをおみやげに持って来てくれたの」
不動付言の部屋にはみちよがくれた名前のよくわからない洋菓子、ビール、そしてメロンがあった。窓から外を眺めると昼間の天気が良かったからなのか、真っ暗な空の中に星がちかちかと輝いている。
「むかしは病院に入院でもしなければマスクメロンなんて食べられなかったな。でも特別にうまいものでもないのになんで高級品なんだろう」
付言は言ったあとでしまったことを言ったと思った。横の吉本あつきの顔を見るとにこにこしているので付言は安心した。
「このメロンの角度は六十度じゃない。ということは三つで百八十度なわけだ。きっと下で九十度のメロンを食べているよ」
不動付言の予想は当たっている。事実、下の部屋では付言の両親が半分のメロンをふたりで山分けして食べていた。それもがつがつと食っていた。
みちよは吉本あつきが女にしては大きなバッグを持っているのが不思議だった。そしてなぜ吉本が不動付言の家に来たのかよくわからない。しかし、そのわけもすぐにわかった。下にいったん下りて行った不動付言が上がって来て言った。
「今、おふくろが風呂に薪をくべているところですから二十分もすれば風呂も沸きますよ。前もって電話をかけて来てくれればよかったのに」
大きなかばんの中をあけて吉本あつきが中からバスタオルや石鹸を出して持ち物を確認している。
「お風呂に入りに来たのよ」
吉本あつきがあっけらかんにそう言うと平家みちよは馬鹿じゃないのと云う表情をした。実際うら若い女が他人の家の風呂に入りに来ることは珍しい。そんな話は聞いたことがない。しかしそれなりの理由があった。付言の家は瀬戸物屋をやっているが明治の頃には違う商売をしていた。ちょっと大きな旅籠屋だった。それで旅人が荷を下ろして風呂に入るのに風呂も少し変わっている。下から薪を炊く五右衛門風呂だった。大きな鉄の釜に水を張って直接に火を炊くので裸足では入ることが出来ない。下駄をはいて入るのだがその話をすると吉本あつきは是非入ってみたいと言うので招待したのだった。そのため風呂場はいつもより念入りに掃除をして水も張ってある。いつも石鹸箱に置いてある石鹸も小さくなったので新しいものに変えられていた。
馬鹿じゃないのと内心でつぶやいたみちよの印象を吉本あつきは知っているのか知らないのか違う話題を取り上げた。
「今日、変わった話を聞いたのよ」
「どんな話ですか」
不動付言はあぐらを組みながらスプーンでメロンの果肉をひとつすくって口の中に入れた。
「関東航空輸送の人から聞いたんだけど、三日前のことらしいんだけどね、セスナが全部借り切られたんですって」
吉本あつきはうちわで自分のほうに風を送った。平家みちよは付言と同じようにメロンをスプーンですくって口に運んだ。
「関東航空輸送のセスナが全部ですか」
「業界の中での噂ではほかの民間の航空輸送会社でも小型飛行機が全部借り切られたそうよ。だから三日前の東京の空の上では何十機という小型飛行機が旋回していたというわけね」
「でもどんな目的でそんなことをしたのだろう。それらの飛行機を借り切ったのがどんな人なのかわかっているのですか」
「さあ、そこまでは聞かなかったけど」
三日前の夜の東京の上空に多くのセスナ機が飛び回っていたのだ。
「それがおかしいことにはパイロットは必要としなかったんですって、自前のパイロットに操縦させたらしいわよ」
「世の中には変なこともあるもんですね」
不動付言はもっともらしくうなずいた。そのうち母親が風呂が沸いたと言いに来たので吉本あつきは下に風呂をもらいに下りて行った。風呂から上がって一休みした吉本あつきを別当付言とみちよは駅まで送って行った。そこで来栖みつのりと云うマジシャンの話になり、吉本あつきもその手品師の出ているテレビを見たことがあると云う話もした。つい最近の生中継のとき不動付言がテレビに映ったと主張したがその場面は見ていないと吉本あつきが言ったので付言は少しがっかりした。
新宿にある伝染病研究所の一階にある食堂で不動付言が昼定食を食べていると食堂のはじにある天井につり下げられているテレビがニュースを流した。不動付言のつとめる伝染病研究所は近代的な建物である。一階はすべてガラスの素通しになっていて充分な光が取り入れられるようになっている。
ここが昔、戦前は軍の研究施設になっていてあやしい細菌の研究がなされていたということは噂で知っているもののその実体を不動付言は知らなかった。中にはここの地面を掘ると人骨がざくざくと出て来ると言うものもいる。しかしそれは冗談だと思っていた。
そんな過去をまったく想像だにさせないほどこの建物は新しい装いを身にまとっていたからである。
不動付言がトレーの中で安物のフォークを使ってメンチカツを切り分けていると天井につり下げられているテレビからアナウンサーがニュースを読んでいる声と映像が流れてきた。
最近、関東地方では原因不明の皮膚病が発見されました。もものあたりにDという文字に似た斑点が生ずる病気です。それが健康にどういう影響を与えているのかはっきりしたことは研究中です。この報告は**医科大学の鷲見博士からなされました。なお感染経路は不明です。
話を要約すればこういうことだった。
結局なにも重要なことはわかっていないらしい。たんなる皮膚病なのだろうか。しかし感染経路に関してはある程度のことはわかるだろうと不動付言は思った。しかし、その原因となる細菌の種類がわからないということがネックになっているのかも知れない。不動付言は自分の仕事に関係しているらしいことなので興味を持ってそのニュースを聞いた。
不動付言は微生物の研究からこの伝染病研究所に入った。すべての微生物は不動付言の友達のようなものである。昼のランチを食べ終えて廊下を歩いていると向こうから同僚の鍋島が歩いて来る。
「376号は役に立っているかい」
鍋島が歩いているのを止めて不動付言に話しかけて来た。
「役に立っている。極めて有効だ」
376号と言っても囚人のことではない。新しい種類のウィルスのことである。日本ではそれが手に入るのは鍋島を通さないと入って来ない。それがそもそもドイツで発見されたものだったが鍋島がドイツで研究生活を送っていたためにその研究グループに属している鍋島の手元にしか届かなかったのだ。それは実験器具のようなもので非常に有効なウィルスだった。
「昼間のニュースを聞いたか。変な皮膚病が発見されたと云う話だが」
「知らん」
鍋島は自分の研究以外には興味がないようだった。
「それより前田さんが呼んでいたぞ」
「なんの用で」
「知らん」
鍋島はそのまま行ってしまった。
不動付言はここの所長の前田になんで呼ばれたのか考えてみた。最近出たデーターがおもわしくなかったのだろうか。規模を縮小するのかも知れない。そうなると自分はもっと小さい部署にまわされるのかも知れない。不動付言の心の中には一抹の不安が広がった。 所長の前田の部屋の中に入ると前田はいやに神妙な顔をしていた。話は深刻な問題なのだろうか。
「不動くん、きみにお客さんが来ている」
「おじさん」
不動付言は思わず口を滑らした。部屋の隅には警視庁捜査一課に勤めるおじの木島たかのりが座っていた。
「木島さんはきみに捜査の協力を要請に来ている。ここに籍を置きながら捜査に協力してくれ」
所長の前田が言った。
「捜査とはどんなことですか」
「まあ、座りたまえ」
所長の前田が木島の座っているソファーの向かいに不動を座らして自分自身も木島の横に座った。
「東京で発生している皮膚病のことを知っているかい」
「さっき、ニュースで知りました」
「もものあたりにDという文字に似た斑点が浮かび上がるという奴ですよね」
「そうだ」
「それで問題が生ずるというのはどういうことなんですか。それが単なる皮膚病ではなく患者の生命を脅かすというようなおそれがあるとか」
「そういう可能性ももちろんあるが、それはまだ確認されてはいない。しかしそれがある細菌によっておこっている可能性ははなはだ高い」
所長の前田が言った。
「付言、それよりも問題になることがある」今度はおじの木島たかのりが口を開いた。このおじの顔を子供のときから不動付言は見ている。
「問題ってどんなことですか」
「社会的問題だ」
「社会的問題って」
「新興宗教に関連している」
「新興宗教ですか」
不動付言にはなんのことかわからなかった。年取った人の良い保険の外交員のような木島たかのりは肩掛けかばんの中から変な文様のたくさん描かれたなにかのマニュアルのような本を取りだしてソファーの前のテーブルの上に置いた。そして最初に目星をつけておいたページを開いた。
「これは」
不動付言はその本をのぞきこんだ。外国の実験器具のマニュアルで日本語に訳してコストを下げるためにこんな装丁にした本を不動付言は見たことがある。しかしこれは実験器具のマニュアルではない。それが簡単な装丁で作られているということは秘密裏に少量の部数が作られたということを意味していないか。
「とにかく読んでみてくれ」
木島たかのりがそう言うので不動付言はその本を読んでみた。最初の数行を読んだだけで普通とは感じが違っている。
この世界の構造のことがある種のヒエラルヒーを持って記述されている。しかし、それは科学的ではなく思いこみが動機になって書かれている。どうも新興宗教にかぶれている人間の書いたテキストだとしか思えない。その本の内容には神と同義語が違った言葉で語られている。
「おじさん、この本は」
「もっとさきの部分を読んでくれ。そこにメモ用紙がはさんであるだろう」
「この傍線はおじさんが引いたのかい。世は終結に近づいている。そして世が終わるとき神に選ばれた者と破壊される者の印があらわれるだろう」
「変なことが書かれているだろう。社会的不安をあおるような内容が」
「確かに。変なことが書かれているけど、よくこんなことを書かれている本はあるよ」
「しかし、そう書かれていても想像の世界だけでそれが終わればいいんだけれどな。その本を所有している人間が傷害事件をおこした」
「この本が引き金になってその傷害事件が引き起こされたというのかい」
「そうだ。もものところに特定の文字が浮かび上がる皮膚病が起こっているだろう。その病気で皮膚科を尋ねて来た患者がいる。その患者を急に殴りかかった男がいる。病院の中でのできごとだったのだがな。すぐにその男は取り押さえられた。まわりの人間にな。その男はそのに行動の理由をその本に啓示をうけたからだと言っている。つまり今回流行っているこの皮膚病の症状が選ばれたものと破壊されるものの区別だと思っているんだな。ひとりそういう人間が出て来るということは同じ人間がまた現れるということだ。これが社会的な問題と言わずになんと言うのだろうか。似たような事件がまた起こるかも知れないんだ」
木島たかのりはむずかしそうな顔をした。
「この本は誰が書いたのですか。それはわからないのですか。新興宗教のリストの中でそれにかくとうする集団はないのですか」
「木島さんもそれを調べたのだがわからないそうだ。その犯人もそれをどこで手に入れたのか、はっきりしたことを言わないそうだ」「はっきりしたことを言わないのではなくて本人もそれがどこの誰だかはっきりわかっていないようですな。渋谷の地下街を歩いているとき、ゴミ箱の上にそれが捨ててあったので拾ったと言っている。そしてそれを読み始めて自分にとっての天啓だと言っている。本人もかなり妄想にとらわれている節がある」
「たまたま誰かを殴りたくなってその理由をつけるためにその本を引き合いに出しているんじゃないですか」
「もし、そうならその男だけの問題なのだが、最近流行っている皮膚病の問題があるだろう。それに関連してまた同じような事件が起こるかも知れない。今回の皮膚病との因果関係を調べてもらいたいのだよ。付言。もちろんこの本が誰によって書かれたのか、警察のほうでも調べるが」
「不動くん、君を警視庁のほうに臨時で出張させるということで話はついているのだ。今回の皮膚病のことについて調査をしてもらいたい。これがある種の細菌によってひきおこされているかも知れないということでの調査も続けてみよう」
「所長がそう言うならそうしますが」
不動付言はいやいや返事をした。
不動付言はこの事件の担当にさせられてしまった。別に警察に関係した人物でもないのにである。もっともおじが警視庁の捜査一課に在籍している。そのおじの声がかりでその役をふられたのではあるが。
そしてその役を振られたというのも不動付言の専門が微生物の研究といってもきわめて特殊なものであるからである。感染経路の研究をするという日本にはあまりない分野をやっている。同じ病原菌でも感染力にいろいろなものがある。それには菌の増殖力や媒介をする生物との関わりがある。そこに不動付言の研究の余地が、というよりもわからないことが多くあるのだが。そこが微生物と人間社会をつなぐ謎を不動付言は調べているのだ。 そのことをおじの木島たかのりが知っていたから白羽の矢が立ったのだ。
所長の部屋を出るとき所長が声をかけた。「君が尊敬している葦か沢京太郎くんも今回の皮膚病には興味を持っているようだよ」
その声を背後に聞きながら不動付言はびっくりすると同時にたのもしく思った。
「葦か沢京太郎さんもこの皮膚病に関わっているのか」
なにか楽観的な見通しが頭をよぎるのだった。
微生物研究所の正門から外に出ようとするとくぬぎの木の下から見慣れた女が向こうから歩いて来た。肩のところから袖のない服を着て手を振っている。近づくにつれて顔がはっきりと見えた。
「不動くん、これから君のところを尋ねるところだったのよ」
「どういう用件で」
「仕事でよ。もちろん。あなた、葦か沢京太郎っていう生物学者を知っているんでしょう。その人を紹介してもらいたいのよ。その人が微生物のことで役に立つ発見をしたというじゃない。ワイン作りに必要なのよ。その人の研究成果を利用すればうちの会社もだいぶもうかるわ」
「葦か沢京太郎先生と呼べ、微生物の世界では俺がもっとも尊敬する人物だ」
「それなら葦か沢京太郎先生でもいいわ」
「これから尋ねるところだ。よかったらついて来い」
ふたりは最近出来た地下鉄の郊外に向かうほうの線に乗り込んだ。電車は途中から地上に出て私鉄の線路の上を走る。眼下には平行に走っている高速道路のインターチェンジが見える。インターチェンジの背後には大きな森があった。ここいらが都心と郊外の境目になっている。ここいらから奥多摩の背後にひかえる山が見えるからだ。
葦か沢京太郎の研究所は駅から歩いて十分ほどの場所にあった。葦か沢京太郎は微生物のいくつかの発見をなしとげていてその産業的な成功がこの研究所を建てることを可能にしていた。高い塀に囲まれた研究所の敷地の中に入ると建物の外に立っている高い塔が目についた。
「ずいぶん、高い塔が立っているじゃないの。二十メートルぐらいあるかもしれない。なにに使うの」
その塔の横を通るとき平家みちよにそう言われたが不動付言自身それがなにに使われるのかさっぱりとわからなかったので何も言うことが出来なかった。研究所の中に入って葦か沢京太郎の事務所のドアを開けると中では乱雑にいろいろな書類の載った机の上を一部のスペースを開けてそこにお盆が乗せられていてお盆の中にはバターを塗ったトーストとミルクティという簡単な食事がのっていて葦か沢京太郎はトーストをほおばっていた。前もって電話で来訪をつげていたので葦か沢京太郎特別な挨拶もせずにふたりが自分の事務所に入って来たとき特別な挨拶もせずに「やあ」と言ってソファにすわるように促しただけだった。と言うよりも不動付言と葦か沢京太郎がそれだけ親しいということかも知れない。葦か沢京太郎は付言よりも十歳くらい年上である。しかし微生物の研究者のあいだでは世界的にその名前は鳴り響いている。葦か沢京太郎の研究成果によって産業界では一つの分野が成立しているくらいなのだ。
「付言くん、電話で聞いたよ。そうそう、そこに紅茶の入ったポットがあるだろう。冷蔵庫の中にはミルクも砂糖もすべて入っているし、カップのある場所もわかっているね。かってに飲んでくれたまえ。さて、そのお嬢さんは」
「僕の家の向かいに住んでいる女で、洋酒メーカーに勤めているんですが、京太郎さんの研究成果を使わせてくれという話なんで」
「あっ、そう」
「緊急を要する問題ではないようです」
平家みちよは付言の言葉にむくれた。
「お嬢さん、申し訳ありませんが、お嬢さんの話はあとで聞きましょう」
葦か沢京太郎は手についたトーストの粉を払った。そしてソフアーにこしかけているふたりの前に来て座った。不動付言がなにか話し始めようとすると葦か沢京太郎はそれを手で制した。
「待ってくれ。付言くん。きみの言いたいことはわかる。都内で発生している原因不明の皮膚病のことだろう。もものあたりに英語のDに似た文字が浮かび上がるという」
「そうなんです。なんでそのことを知っているんですか」
「僕は東京に存在する有害物質や病原菌のサンプルを集めることも仕事にしている。それが最初は人間に敵対して見えていても使い方で人間にどんな利益をもたらすかわからないからだ」
不動付言はあらためて葦か沢京太郎の用意周到さに感嘆した。
「きみはこの研究所に入って来たとき高い塔が立っているのを見ただろう。あれがここらへんにある有害物質や病原菌を採取する道具なのだよ。気象観測所にある百葉箱にちょっと似ているかも知れない」
「それでその皮膚病に関連したことを見つけたんですの」
みちよは自分の用件を忘れてこの事件に興味を持っているようだった。
「その原因はつかめていない。しかし、この一週間の間に今まで記録されていない病原菌が採取されたことは事実だよ。こっちに来てくれるかい」
葦か沢京太郎はこの部屋の隅にあるパソコンのある机のところに行き、機械を操作した。
「これを見てくれ」
葦か沢京太郎はマウスを操作していった。画面には無数の芋虫のようなものがうごめいている。
「これだよ。これが新種の菌だ」
「これをいつ採取したのですか」
「七月の十一日だよ」
そこで不動付言は頭にひらめくものがあった。七月十一日というと吉本あつきがそのことについておもしろいことを言っていた。
「もっと詳しいことはわからないのですか」
「どの方向から来たのかなどということもわかる。ちょうど北北西の二十度のあたりからこの菌が風に飛ばされて来たことがわかる。その日の気象情報を見ると北北西の二十度の風がこの付近には吹いていたことがわかった」
「この付近にはここにある塔よりも高い建物はないんですか」
「ないよ」
「じゃあ、空中のかなり高いところからこの菌がまかれたという可能性は高いわけですね」
「この付近にそんな高い建物がなければそういうことになるね」
「でも、その菌が人間に有害だとは言えないではないですよね。それがその皮膚病の原因だとは特定できませんよね」
平家みちよが横から口をはさんだ。
「そうに決まっているよ。この市で同じ症状の皮膚病にかかったものは何人いるんですか」
不動付言は葦か沢京太郎に聞いた。
「この市でも五人の人間がその皮膚病の症状を呈しているそうだ。テレビでもその皮膚病のことを報道したのでその症状のある人間やそれを発見した医者が保健所に届け出ている」
「伝染病研究所の同僚からおもしろいことを聞いたんですよ。七月の十一日に都内の民間の会社のセスナがみんな借り切られたという噂を聞いたんだそうです」
「そのセスナからこの菌が東京の上空にまかれた可能性はある」
「しかし、空中からまかれて発症するなんてずいぶんと伝播力の強い菌ですね」
「いや、それより、それで症状が発症したのがこの市内に五人しかいないということが不思議だ」
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不動付言は自分の勤める伝染病研究所で吉本あつきを見つけた。彼女は中庭の池に面した藤だなの下で涼んでいた。
「吉本さん、あの皮膚病の原因がどうやらわかりそうですよ」
不動付言は吉本あつきが座っている木のベンチの横に腰掛けた。不動付言の表情は定期テストが終わった中学生のように少し晴れ晴れとしていた。吉本あつきは形の良い横顔を少しねじって不動付言のほうを見てほほえんだ。
「原因ってどういうことだったの」
「吉本さんが関東航空輸送のセスナ機が全部借り切られたというような話しをしたじゃないですか。それにほかの航空機会社のセスナ機も借り切られたという。それですよ。それが原因ですよ。そこでセスナ機から皮膚病を発症させるような菌がばらまかれたんですよ」
「そう」
思ったよりも吉本あつきの驚きは小さかった。彼女は不動付言が警視庁の依頼を受けて捜査に当たっていることを知らないようだった。
「でも、あの皮膚病の原因は一種の食中毒ではないかという話しもあるようよ。何日か前に聞いた話だけど、境さんが話していたけどこの区内にあるクランケの調査をしたところ**冷食という食品会社があるのよね。そこのそこの冷凍いかフライを食べた人たちにその症状が出たという話しだったわ」
「いえ、たしかにセスナ機で菌がばらまかれた形跡があるんです。葦か沢京太郎さんの調査ではそうなっているんです」
「そう」
不動付言ほど吉本あつきは葦か沢京太郎を評価していないようだった。臨床医と細菌学者の違いだろうか。
「境さんの話しによるとその症状のクランケはみんな完治したそうよ」
「うっそー」
不動付言はその良い知らせをむしろつまらなさそうに聞いた。
廊下を歩いていると研究員のひとりが不動付言をよびとめた。
「所長が呼んでいるぜ」
所長の部屋に入るとそこにはおじの木島たかのりも座っている。
「不動くん、きみは本来の研究に戻ってもよろしい」
「えっ」
不動付言は拍子抜けした。
「付言、あの皮膚病の原因がわかったんだよ」横に座っていた木島たかのりが不動付言のほうを見て言った。
「原因ってどんなことですか。聞いていません」
「一種の食中毒でその食物も特定できている」
「冷凍いかフライなんて言うんじゃないでしょうね」
「そのとおり、なんで知っているんだ」
「同僚に聞きました」
「そうか」
「でも信じられませんよ。もっと有力な手がかりを僕のほうも持っているんですよ。おじさん」
「でも、わしには専門的なことはわからないが食中毒だろ。みんな食中毒の薬で完治したと聞いている」
「ほんとうですか」
「捜査を担当しているわしがそんなうそのことを言ってどうなるんだ。だから食中毒のほうが重要なのではなくて煽られて傷害事件を起こした、その煽りをおこなったあのわけのわからない小冊子の出所をさぐるのが警察の仕事だ」
「とにかく、不動くん、本来の研究に戻ってくれ。きみには義務以外の仕事をやってもらったよ。ご苦労だった」
不動付言はなにか釈然としないものを感じた。付言が何よりも尊敬している葦か沢京太郎の分析のほうがどうしても正しい気がする。その割り切れないものを抱いている不動付言の表情をおじの木島たかのりは察したらしい。
「付言、お前には余計な手間をかかせたな。よかったらこれでショーにでも行ったらどうだ」
木島たかのりは不動付言になにかの券のようなものを渡した。
「なんですか」
不動付言は一瞬ビール券かと思った。ビール券なら平家みちよがいくらでもくれる。
「みちよちゃんと一緒に行ってきたら」
どうやらそれはショーの券だった。
「今、流行っているじゃないか。魔術師というマジックショーが」
「みちよと一緒だけ余計ですよ」
木島たかのりはその言い方がもうふたりが結婚を決めたようなのでおかしかった。
来栖みつのりのマジックショーは浜松町にあるライブハウスでおこなわれた。港に面した場所にある百人ほどの観客が収容される施設で建物の半分の部分は海の上から立っている。道路に面した部分は小さな窓がいくつかついているだけなのだが海に面した部分には大きく窓がとられている。その建物自体が船をイメージしているようだった。入り口も船の甲板から客室内に入るような感じになっている。
テレビに魔術師が出たせいだろうか。この手のショーをふだんは見に来ないような若い客もいた。
「やっぱり僕と来るからいつもよりいい洋服を着てくるのかい」
「ふん、しょっているわね。久しぶりに都会に出るからよ」
「そんなことを言って、いつもより丈の長いスカートをはいて来ているじゃないか」
ふたりが厚い絨毯の上に置かれた椅子の上に腰掛けていると魔術師の来栖みつのりと来栖弥栄子がステージの上に出てきた。それは以前、不動付言が新宿で見たと同じ状況である。ステージと客席はある程度離れていて、照明も暗くおとされていて来栖みつのりの指先の動きの細かいところだけはときどき見落としてしまう。
「新宿で見たのと同じ」
平家みちよが横で不動付言の片腹をひじでつついた。
「同じだよ」
ステージの上にはやはりこうもりがいて照明のあてられかたによってきらきらと輝いていたりする。
「あのこうもり作り物じゃないの」
平家みちよが横で不動付言にささやいた。
新宿の公会堂で見たときは距離が遠かったのでつくりものだとは気づかなかったが近い距離から見ると平家みちよの言うようにそれは作り物だった。そうでもなければ照明にあんなにきらきらと輝かないだろうということはわかった。
新宿でやったときと出し物は違っている。客席との掛け合いはほとんどなかった。それでもそれなりにその出し物は楽しむことは出来た。不動付言の座っている席からはこの建物の下にある海面が見ることが出来て、夜の海が妖しく動いている。来栖みつのりはやはりマジックという表現を使わずに魔術という表現を使っている。一時間ほどのショータイムが終わって魔術師の夫婦は見栄を切って退出した。
「結構楽しかったわ」
「ただで見られたんだから十分だよ」
出入り口のところからライブハウスの中にいた観客はぞろぞろと出て行った。不動付言と平家みちよのふたりは最後に出てきたうちの観客の一組だった。外に出るとあたりは暗くなっている。客が道路を渡ろうとしているのを前のほうに見ていると後ろのほうに人の気配を不動付言は感じた。
ふりかえると来栖弥栄子が立っている。それも浴衣を着て立っている。その横には開襟シャツを着た来栖みつのりが立っている。
外人が浴衣を着ている姿は本来はおかしなものだが来栖弥栄子は小柄のためにそれほど変な感じはしない。
「あなたは新宿で公演をしたときもいましたわよね」
不動付言がなにも言わないうちに来栖弥栄子のほうで話しかけてきた。
「ええ。いましたけど。よくわかりましたね」
不動付言はどきまぎして答えた。来栖弥栄子の瞳の色は不動付言をどぎまぎさせるだけのものを持っていた。横で平家みちよが不満気な表情をした。
「外国人のあなたが浴衣を着て外に出るなんて少しおかしいですね」
不動付言はつまらないことを聞いた。面食らうと同時に彼女との会話を続けたいとい意志も持ち合わせていたからである。
「これから花火を見に行くつもりなんですよ」
来栖みつのりが舞台と同じようなずっしりとくるような声で横から口をはさんだ。
「吉田さんのお友達なんでしょう」
「ええ、ほんの短い期間だったんですけど、同じ学校に通っていたことがあったんです。吉田くんと僕が話していたのを見ていたんですか」
「ええ」
不動付言はテレビ放送のやらせなんてことも話していたのを聞かれたのかとも思ったが、そんな様子もないようだった。
「どこの花火を見に行かれるんですの」
横にいた平家みちよが素っ気ない調子で聞く。「東京湾でやるそうですね」
来栖弥栄子が外国人とは思えないようななめらかな調子で答えた。
そのとき甲高い声が聞こえた。
「やだあ、史郎ちゃん、アイスクリームをつけちゃって、しみになったらどうするのよ」
少し離れたところに立っている若いアベックの声だった。アベックの男のほうがアスイスクリームを持っているかして、浴衣を着ているほうの女にアイスクリームをつけたらしい。
「やだ。史郎ちゃん、ストロベリー味のアイスクリームじゃないの。しみになっちゃうわよ」
若い女はさかんにハンケチでそのしみをとろうとしている。
「ちょっと失礼」
来栖たかのりがその若い女のほうに近づいて行った。来栖弥栄子はその様子を見ている。来栖みつのりは普段着のズボンから自分のハンケチを取り出すと、その汚れた浴衣の上に置くと右手をパチンと鳴らした。するとどういうことだろう浴衣についていたアイスクリームのあとはきれいになっている。
「これが魔術というものですな」
来栖みつのりは不動付言のほうを見るとにやりと笑った。
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