第3話 マルさん

 僕は見知らぬ家並みを歩く……。僕たちは。


 彼女は、汚れたぬいぐるみを抱えながら、僕の手を引き黙々と歩く。

  

 しばらくして、彼女は一軒の家の玄関前で足を止めた。

 ここに辿り着くまで、僕たちは何の会話もしなかった。ただ、僕は彼女に引っ張られながらここまで来たんだ。


 クマは砂埃で汚れてしまったが無事だった。おかげで僕は、数人の大人に助けられた後、飛んで来た駅員さんにこっぴどく怒られた。

 でも、クマを救えたからいいじゃないか。汚くなったぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている彼女を見れば、その存在が彼女にとっていかに大事かはわかる。


 彼女が玄関ブザーを鳴らすと、一人の女性が出てきた。


「希衣奈! どうしたの?」

『こいつに助けてもらったんだが、ケガをしている。手当をしてほしい。』

「……あら、本当。入って。君、希衣奈のお友達?」

「いえ、あの……友達っていうか……。」

(っていうか!!!!)

 彼女、希衣奈の母親(たぶん)は全く普通に接しているけれど、今、また例の声がしゃべった。

 僕は、希衣奈と彼女のお母さんを交互に見ていたからわかる。希衣奈の唇はやはり動いていなかった。


(どういうことだ?)




 僕は、この後、希衣奈のお母さんに手当されながら、希衣奈について少しだけ教えてもらった。


 さっきしゃべった声……クマのぬいぐるみは『マル』。希衣奈の大切な存在で、彼女の代弁者……。

 希衣奈は小さな頃から腹話術でしかしゃべらない。しかも、マルの声色で、マルが通訳する形でしか、自分を表現しようとしないんだそうな……。そんな変な女、いるんだな。

 それにしても、彼女の腹話術の腕は相当だ。ひょっとして、これで食べていけたりするんじゃないか……僕はそんな呑気なことを思いながら、その後の数時間を彼女の家で過ごした。



 希衣奈のお母さんは、彼女が他人を家に連れて来たことが初めてだったらしく、そのことをとても喜んでいた。

 僕は、何か変なことに巻き込まれたような感じはしたが、彼女がさっき、僕のことを『マルを助けたやつ』だって言っていたことに悪い気はせず、また単純に芽生えた彼女への興味に僕自身が関心を持っていた。




 家での希衣奈の行動を観察していると、その容姿に似合う愛くるしさが本当の彼女にはあった。マルを置き忘れたり、マルから少しでも離れると、たちまち迷子の子どものようになり、母親の後をトコトコ付いていく。

 彼女から何か伝えたいときは、マルを抱っこしてマルになりきってしゃべる。


 それにしてもマルはちょっと変なキャラだよな。男という設定なんだろうか。希衣奈のお母さんも、彼女がマルを抱えているときは、彼女に対して「マルさん」と呼びかけ、マルが話しているときはまるでそれをじっと聞いているように、希衣奈の表情は固まったままだ。


(変なの……。)


「あ、マルさん。あなた、すごく汚いから洗濯させてちょうだい。」

『それは困る。』

「いいじゃないの、明日から週末だし、すぐに乾くわよ。」

『キイナが、困るだろ。』


 希衣奈のお母さんは、微笑みながら少し首を傾げたが、希衣奈の腕の中からマルを抜き取った。

「すぐに返すわ、ね。」

 肩をぽんと叩かれた希衣奈は、とたんに小さな少女になっていた。


「これ、やるよ。……マルさんが戻ってくるまでの代わりに、ならないかな?」


 僕は、鞄の底で眠る『ミチザネくん』の人形のことを思い出し、咄嗟に彼女へそれを手渡した。あのとき、絆創膏をくれた彼女のように……。



「あら、なあに、この可愛くないお人形。」



 希衣奈のお母さんの素っ頓狂な声が室内に響いた。

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