もう一度、を待つ

 放課後の校舎に吹奏楽部の演奏が響いている。ちょっと頼りない音で、同じところを何度も繰り返したり、つっかえたりで、思わずくすりと笑ってしまう。マユはきっと苦い顔をしているんだろうな。

 靴を履き替えるのにちょっと手間取る。お気に入りのローファーは、最近少しキツくなった。新しい靴も探しているけれど、履き心地がよくてもデザインがイマイチとか、デザインがよくても制服に合わないとか、どうにもしっくりくるものが見つからない。


「アカリ」


 名前を呼ぶその声に、ぴりっと体に電気が走った。振り返る前に、そこに誰がいるか分かっている。ふぅっと気付かれないように息をついて、友達の顔を作って振り返る。


「一緒に帰ろーぜ。マユは『これ』だし」


 ユータは、校舎に流れる音楽そのものを指差すように、人差し指を立ててくるくると回した。


「コーヘイは?」


 私がぎこちなく聞くと、ユータはにやっと笑った。ユータとコーヘイは二組、私とマユは一組。男女で分かれるなんて温泉みたいだね、なんてクラス発表のときにマユが笑ってたっけ。


「四組の白川って女子に呼び出しくらったんだって。あいつけっこうモテるからな」

「へぇ、そうなんだ」

「あーあー、いいなー。俺もモテてみてー」

「なに言ってんの」


 ユータ、髪伸びたな。靴を履く姿を見ながら私はそう思った。前髪を払う回数が多くなったし、昨日もクレープ食べながらクリーム付かないように苦労してたし。また染めるのかな。生活指導の先生に睨まれてるって言ってたけど。でも、明るめの茶色はユータによく似合ってる。


「腹減ったー。なんか食ってく?」

「あ……、ううん、ダイエット中だからやめとく」


 寄り道をすれば誰かに見られるかもしれない。まっすぐ帰るだけなら、いくらでも言い訳ができる。ちょっとつまらないけれど、そのほうがいい。

 私とユータが校門を出ると、吹奏楽部の演奏はぐっと遠くなった。それでも微かに聞こえてくるその音は、地面を這うように私に追い付き、まとわりついて、私の足を締め付けた。


「でさ、現国の田中が「ボタンは上まで留めなさい!」ってめっちゃキレてさ。マジねーわって感じ」


 えーマジでー、とか言いながら、私はユータの隣を歩く。ユータと二人のとき、私は自分のことをほとんど話さない。

 私にだって、面白かったこともムカついたこともあるけれど、ユータの声をたくさん聞きたいから。何を見て、何を聞いて、何を思ったのか、その声で全部知りたいから。

 だからただ相槌を打って、一言も漏らさないようにユータの話を聞いた。

 マユだったら。そう考えると胸がきりっと痛んだ。二人は一緒にいるとき、どんな顔をして、どんな話をするんだろう。


「アカリはさ、聞き上手だよな」

「あ、え?」


 まるで心の中を読まれたようなユータの言葉に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


「あいつはさ、自分のことばっか話すんだよ。大体は部活のことなんだけど。先生の指示がおかしいとか、一年が言うこときかないとか愚痴ばっか。じゃー辞めたら? って言ったらキレられたし」


 マユが部活に打ち込むことを、ユータがどこかよく思っていないのは分かっていた。部活が忙しくなると、マユはそっちに全力投球で、私やコーヘイだけじゃなく、ユータまでそっちのけになってしまう。

 朝練、昼休み、放課後、休日。マユはずっと練習。連絡してもろくに返ってこない。そんなマユにユータはいつも不満げだった。


「でも、マユみたいに一生懸命なんかやってるのっていいじゃん。あたしはそういうのがないからさ」


 万年帰宅部の私には、マユの青春そのものみたいな姿が眩しく見えた。私にないものを持ってるっていう眩しさが羨ましくて仕方なくなる。ときどき、憎らしくなるくらいに。


「でもさー、彼氏のことほったらかしにするってどうよ? 浮気したらとか考えねーのかな」


 ドクン、と心臓が跳ねる。浮気。もし、私がユータとこうして二人で帰っていることをマユが知ったらどう思うだろう。いや、マユはたぶん気にしないだろうけど。でも、周りは何て言うだろう。もしかしたらっていう目で見るかもしれない。


「あ、やっぱコンビニ寄っていい? 腹減って死にそう」

「うん」


 レジで唐揚げを注文するユータの姿をぼんやりと眺めていた。ちょっと背も大きくなった気がする。ずっと一緒にいるから気付きにくいけど、見上げる角度が前と少し変わった。

 ついでに私もミネラルウォーターと、ちょっと考えて、缶コーヒーのブラックを買った。

 コンビニを出て、唐揚げを頬ばっているユータに缶コーヒーを差し出す。


「おごり」

「おーっ、優しーじゃん」

「昨日頑張ったから」


 ちょっと目を見張って私を見たあとに、分かってるじゃん、とユータが笑った。

 ユータはもともと甘いものが苦手だ。だからクレープなんてホントは食べない。でも、マユが行きたいって言ったから。


「仕方ねーじゃん、彼氏としてはさ。甘すぎて胸焼け。昨日晩メシ食えなかったわ」


 そうだよ。私のほうがマユよりユータのことよく知ってる。ずっと隣で見てたから。でも、私の口から出てくる言葉は、いつもの友達の言葉。親友の言葉。


「おかげでマユも喜んでたよ。でも、コーヘイは相変わらずちゃっかりしてるよね」

「マイペースにもほどがあるよなー。空気読めっていうんだよ」


 ユータが唐揚げを一つ摘まんで、ん、と私に差し出す。


「コーヒーのお礼」


 醤油の匂いがした。こんなところ、学校の誰かに見られたらヤバい。別に深い意味のあることじゃない。でも、噂ってそういうもんだし。ああ。でも――。

 意を決して唐揚げにかぶりつく。唇にユータの指先がほんのわずかに触れた、気がした。その部分が熱くなって、その熱が全身を駆け巡る。

 こんなところを見られて誤解されたらどうしよう。そう思うのに、心のどこかで、みんなが誤解してくれたらいいのに、と思ってしまう。

 ――好き。

 唐揚げを飲み込んで、胸の中でそう呟いた。それくらいなら、きっと許される。

 コンビニから少し歩いた場所で、私たちは別れた。ユータが「じゃあ、またな」と言って私に背を向ける。その背中に向かって小さく手を振った。

 三ヶ月くらい前、この場所で、私はユータと一度だけキスをした。

 今日と同じ、マユは部活で、コーヘイは知らない女子に呼び出されて二人っきりだった日。今と同じように「またな」って言ったユータが私に近付いて、一瞬、二人の距離がゼロになった。

 キスだって気付いたのは、ユータの姿が見えなくなってから。唇に残った違和感だけが証拠だった。

 あの日から、私はずっと二回目を待っている。

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