第4話 幼馴染は先生の秘密を知る
「そうね、自分自身だわね、音は……」
「先生。私、先生みたいなすごいピアニストにはなれないってわかってます。でも全然いいんです。強がりじゃなくて、本当に心から、自分はそんなピアニストである必要はないって思うんです」
「あら、そう? どうして?」
「私、ピアノが好きで、弾き続けていけたらそれでいいんです。誰かに評価されることが必要なんじゃなくて、音と一緒にいれることが何よりなんです。難しい曲にチャレンジして、弾きこなせるようになれたら、それだけで嬉しくてたまらないんです」
「そうね、確かにあなたはコンクール向きのピアニストではないわ。だけど、人に喜びを与えられるピアニストであることは間違いない。誰のために、何のために弾くか。ピアニストをどんなピアニストにするかは、すべてそこにかかっているの。あなたの音は寄り添っていく。語りかけ、呼びかけているの。だからね、私もあなたには、ずっと弾き続けてほしいと感じてる。エマ、あなたは素晴らしいピアニストよ」
憧れの先生の言葉にエマは全身がかっと熱くなるような気がした。競うのではなく、自分らしく弾いていいのだと言われ、何度も何度も心の中で頷いた。
「才能はね、神の祝福よ。どんな小さなものでも特別。時に残酷なこともあるけれど、愛されてるって感じると、それを信じて磨いていこうと思えるでしょ? そこから始まって芽生えたなにかは、自分だけのかけがえのないものになると思うの。その人らしさは大切なものだわ。エマ、あなたの音はどんな時も素直さを求めている。まっすぐであろうとしている。それはとても素敵なことだわ」
先生の目は金色に近い緑だ。黙って佇んでいる時にはあまり温度を感じさせないけれど、そこには密かに、雪解けの野原で見つけた芽吹きのような柔らかさが、優しさが隠されている。そんな瞳で先生はじっとエマを見つめた。
「エマ、お休みしていた間、悲しいことがいっぱいあったのね。あなたの音の中に身を震わせるような響きを感じるようになった。それは新しい魅力ではあるけれど、一方であなたを苦しめているわ。大切な何かを必死で守るために、あなたは知らないうちに、もっとずっとまっすぐであろうとしているのよ。無理をして強がっている。だから時々、疲れちゃって音が力をなくしちゃうのね」
エマははっとした。プライベートなことはなにも打ち明けていないのに、先生は自分の心の中を言い当ててしまった。それだけ音が自分自身に近づいてきているということが嬉しい反面、今一つ伸び悩んでいる自分を感じていたエマにとって、その一言は目からウロコが落ちる思いだった。無理をして偽って、力をなくした音なんかが、遠く深く届くはずもないのだ。
先生は驚くエマに頷きかけると曲を奏で始めた。それは初めて弾き切って、大興奮のあまり、テオと二人して部屋中に花を降り積もらせたあの曲だ。
「この曲、覚えてるでしょ? あの頃のあなたが私には一番あなたらしいと思えるの。あのあなたなら、この先もずっと迷うことなくあなた自身の音を伝えていけるはずよ」
その言葉は静かに、けれど何よりも深くエマの心の奥に投げかけられた。気がつけばエマは泣いていた。
言いたいことを無邪気に言い放っていた頃にはもう戻れない。失敗してもそれを許してくれる人をなくしてしまったのだ。それは自分のせいなのか、抗えない大きな力のせいなのか。どちらにしても、自分のことを誰よりもわかってくれた人はもういない。たまらなく寂しくて、信じられないほど悲しかった。
「思ったら即行動なんだよね。後先まったく考えてない。ホント、目が離せないよ。でもそんなエマだからいいんだけどね」
遠くでテオがそう言って笑っている。
(ねえ、そんなエマはどこへいってしまったの。ねえ、私は誰?)
もう一人のエマが、内側の奥深くから語りかけてくる。エマは底の見えない深淵を覗き込んだ。自分なんて二の次でいい、大切な人を解き放ってあげるのだと躍起になったくせに、結局は怖がって、事を荒立てないことを選んでしまった。でもそれは自分がすべきことだったのだと、自分に必死で言い訳して、その結果、なにも見いだせないまま途方に暮れている。
(ねえ、テオが好きだと言ってくれたエマはどこへいってしまったの。ねえ、ここで震えてばかりの私は誰?)
「エマ! 難しく考えない。受け入れてしまうのよ。あなたがしたいように心を解き放つの。理由なんて必要ない、結果なんて考えない。立ち止まっているあなたなんてあなたらしくないわ」
トラヴィス先生の言葉に、エマの中で何かが弾けた。それは心の奥深くに隠し続けていた怒りだった。
「先生は……。先生は絶対に叶わないと思う相手でも、負けるってわかっていても、向かっていけますか? 信じられないようなことも、理不尽なことも、どうにかできるって思えますか! 私は……私は無理です……」
「……そうね。その通りだわ。どうすることもできない大きな力の前では、私たちは無力。翻弄されて当然よ」
声を荒げたエマに、けれど先生は気分を害することなく、穏やかな声で答えた。
「ごめんなさい、人には簡単に言えるわね」
そう続けると、トラヴィス先生は少し寂しそうに笑った。エマはその表情の中に、先生が抱え込んだ重くて暗いものが見え隠れしたような気がした。けれど深く息を吸い込んだあと、先生はしっかりと顔を上げ、エマをまっすぐに見つめたのだ。その瞳には力が戻り、あふれんばかりの愛が感じられた。
「でもね、だったらなおさら、そうすべきなのよ。運命なんて言うものから逃げ出してしまった私だからこそ、今のあなたに必要なことを伝えられると思うの」
「運命……?」
静かに頷く先生の中に、エマは一筋の光を見出したような気がした。エマは心を決めた。あの頃の自分を取り戻すためにも、自分がもう一度歩き出すためにも、それはきっと必要なことだ。落ち着きを取り戻したエマは、深く息を吸い込んでそっと、けれどきっぱりと切り出した。
「先生、青い月の日の双子ってご存知ですか?」
エマのレッスンがその日最後だった。先生はエマの言葉にすうっと目を細めると立ち上がり、そこで少し待つようにと言った。足早に受け付けに向かい、アルバイトの子たちを帰したあと、素早く施錠をすませて再び彼女に向き直った。
「青い月? タフトの?」
その後はもう怒濤の勢いだった。青い月の日の双子のこと、テオとの出会いのこと、自分の能力のこと、テオの能力のこと、嵐の午後のこと、あれもこれも。気がつけばスタジオは暗闇に包まれていて、楽譜台を照らすライトだけが二人を浮かび上がらせていた。
エマは今更ながらに驚いていた。自分が抱えていたことを、ここまで隠すことなく誰かに打ち明けたことはなかった。ミッシェルやテオさえも知らないような、自分の弱くてダメな部分まで、粗いざらいすべて吐き出してしまったのではないだろうかと思った。
「ありがとう、エマ」
トラヴィス先生の声が柔らかく響いた。仄かな光の中に浮かび上がるその美貌は、暗闇をなぎ払う月の女神のようだ。いつもの冷たさなど微塵も感じさせない。それは慈愛に満ちた優しい表情だった。
喋り続けて半ば放心したようになっていたエマは、大きな波にのまれてもがく自分の前に、運命の女神が降臨したのだと思った。さまよえる自分に女神は行く道を教えてくれるだろうか。エマは願わずにはいられなかった。
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