第5話 幼馴染は選択肢を与えられる
「苦しかったわね。それでもあなたは模索し続けてる。えらいわ。この世界にはね、エマ。あまりに理不尽なことが多い。嘘みたいな出来事も、次から次へと現れる。なぜそんなことが起きるのか、なぜ自分なのか、あなたと同じように悩んでいる人が、傷ついている人がいる」
「先生もですか?」
あまりに立ち入ったことだと思ったけれど、聞かずにはいられなかった。
「ええ、そうよ。そして、それから逃げ出した。私はね、エマ。本当はとっても弱いの。ただただ逃げた。出せた答えがそれだけだったの。生まれ育った町に助けを求めて、安全な場所に隠れることしかできないって、そう思ったのよ」
「後悔、してるんですか?」
「後悔? そうね。そうかもしれない。でもその時はそれしかなかったの。選択肢なんて、他にはなかったのよ。だからやることはすべてやったって、そう自分に言い聞かせたわ」
「先生、私もです。問題にぶつかって、悩んで悩んで、できることはそれしかないってそう思ったんです。万策尽きたって」
「あら、ずいぶん古風な言葉を知ってるのね」
「受け売りです、親友が博学で。でも、それは違うって言われました。私なりにあれこれ頑張ったつもりだったんですけど、彼女に言わせれば、それはあまりにも偏った考えだったみたいで……だから尽きてないって、まだまだできるのにって」
「まあ」
トラヴィス先生は目を丸くして、それからぷっと吹き出した。そんな先生を初めて見たエマはびっくりだ。
「確かにね。鋭いわ。そうなのよね、自分ではもうこれ以上はないって思うほどに考えてるんだけど、冷静な人から見れば、まだまだなのよね。それに気がついて悔しい思いをしたりもするんだけど、啖呵を切って飛び出したりすると、もう後にはひけなかったりする」
「先生でもそんなことがあるんですか?」
「もちろん。そんなことだらけよ。エマには私がそんなに冷静に見えてた?」
「はい、だって先生は」
はっと口許を押さえるエマ。ふふっと笑って、先生は茶目っ気たっぷりにウインクをよこした。
「アイスドールみたいだって思ってた?」
慌てるエマに先生は「大丈夫、大丈夫、そう言ってはばからない人を知ってるから大丈夫よ」と続けながらおかしそうにまた笑った。
「エマ、私はね、多分あなたの何倍も天の邪鬼なの。天の邪鬼を続けすぎて、もうそれが本当の自分かと思ってしまうほどにね。この無表情だってそう。初めは自分を守る装備だと思っていたのに、気がついたら外せなくなってしまって。あなたも気をつけないとダメよ。まずは笑えなくなったら要注意」
「親友にもそう言われました。彼女と話すようになってようやく笑えたみたい」
「いい親友ね。あなたのことをとてもよくわかっているわ」
「はい、すごい子なんです。バルデュールの、セレンティア特別室室長です」
「バルデュール……」
「そうです、ご存知ですよね。公園の」
「ええ、ええ、よく知ってるわ。私の知り合いにもいるわ。情熱の塊みたいな人よ」
「あ、ミッシェルもです!」
「運命から逃げるなって彼女に言われた?」
「え?」
「未来なんてわからないんだから、自分の力で切り開かないとダメだって言われなかった?」
「ああ、はい、よく言われてます。でもなんで……先生も?」
「かつてね、言われたことがあるわ。でも私は素直に耳を傾けられなかった。後悔というならば、それもかしらね。変に意地を張って、与えられた選択肢を見ようともしなかったのよ。自分には無理だとそればっかりで、その可能性を切り捨てた。だからいまだにそれは私の中に存在しない、できないの。彼女に申し分けなさすぎて、今更受け入れられないのよ。もしかしたらそれが、解決への道だったかもしれないのにね。どうやら私は、道を一つなくしてしまったみたい。エマ、あなたはそうなってはダメよ。ミッシェルの言葉を信じてしっかり進みなさい」
そんなことがあってから、エマはレッスンの終わりにトラヴィス先生とよくお喋りするようになった。ミッシェルがデータ作りのための殺人的スケジュールに追われる春の終わりから夏まで、エマは一人ぼっちで過ごすはずだった時間をずいぶんと先生に助けられたのだ。
エマは先生に、テオのことをどうやっても忘れることはできないのだとも打ち明けた。ミッシェルにはもうずいぶん前に白状している。彼女は誰よりもエマのことをわかってくれる大切な親友だ。的確に状況を読み、エマを導くことに心を砕いてくれる。けれどミッシェルにはエマ以上に恋愛経験がなかった。彼女自身もそれを残念に思っていたらしく、エマが先生の話をした時には「私たちはすごい人を味方につけたわね!」と心底嬉しそうだった。だからエマは先生に、好きな人を想うことについて聞いてみようと思ったのだ。
テオのことを素直に想えるようになったのは大きな前進だけれど、それでも自分を許すことはできないのだと、エマは胸の内を暴露する。あの日のことを、テオに許されるなんて到底思えない。それでもテオを想わずにいられない。会いたい、声が聞きたい、あの温もりを感じたい、そう思ってしまうのだ。けれどエマの中では依然、自分はテオを傷つけるもの、テオに最も近づいてはいけないものだった。
「でもそれは、あなたがそう思っているだけかもしれないわよ」
「だけど、先生。それでテオがまたあんな風に傷ついたら、私……」
「エマ、あなたはあの日よりもずっと大人になったと思うわ。できることも増えたし、心も強くなっている。テオくんだって同じだと思わない? あなたよりもずっとずっと色んなことができる人なんでしょ。もしかしたら信じられないほど強くなってるかもしれないわよ」
「……」
「まあ、それもこれも仮定でしかないから、ここで私たちが勝手にどうこう言っても仕方がないわね。でもいつかちゃんと話し合わなくてはいけないわ。どんな未来に落ち着いたとしても、勝手に逃げ出したことは謝らなくてはいけない。それだけはしないと、心残りになるから。私みたいにね」
「先生……」
「機会を逃してはダメよ。欲しいときに与えられるなんて、そんな恵まれたこと、なかなか起きないんだから。欲しくても欲しくても、もう二度とこの手に帰ってこないこともたくさんあるのよ」
エマはまた先生の寂しそうな顔を見た。いつもの凛とした強さが揺らいで、儚く弱々しい。
(ああ、守ってあげたい、そばにいてあげたい。私だってそう思ってしまうのに、先生が想う人はどこにいるのよ。こんなに素敵な先生を、どうして手放したりしてしまったの?先生を飲み込んだ運命って何なんだろう……)
先生の心は今も、大切な場所から切り離されて漂っているのだとエマは思った。帰る場所を持たない心細さはどんなに大きいだろう。それなのに先生はエマを案じ、優しく拾い上げて包み込んでくれる。エマは感謝の気持ちが止められなかった。私もいつか先生に何かを返したい。応えたい。エマがそう思った時、先生の表情がふと変わった。
ゆっくりとその口角が上がって、先生はその顔に華やかな微笑みをたたえた。けれどそれで終わりではなかったのだ。口角はさらに引き上げられて、そこにはエマが見たこともないような挑発的な表情が現れた。自信家で負けず嫌いで、一分の隙もない、選ばれし戦士のような強さ。それでいて、いたずらっ子のようなきらめきをまとう微笑みからエマは目が離せなかった。そこにいるのは、運命を自分の力で切り開いた、世界に名を馳せる名ピアニスト、エレーヌ・トラヴィスだ。エマの胸がどきんと大きな音を立てた。
「エマ、私からも一つ選択肢をあげるわ」
先生の微笑みはますます深まり、その声はまるで神託のように鳴り響いた。凄まじいエネルギーがエマの体の中を駆け抜けていく。ためらいなどあっという間に蹴散らかされていくようだと思った。新しいことが始まる予感に、エマはたまらずその身を震わせた。
「来年の花祭りのソリスト。十年に一度の大イベント、セレンティアのコンサートよ。私の代わりに、弾いてみない?」
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