第29話 五人と古のセレンティア大花祭り 4
「さて、いよいよ最後の演目となります。お手元のプログラムをご覧ください。曲目は『我らが天使ー暁の約束』ですが、これは去年の夏、図書館の地下資料から見つかったオリジナルです。皆様よくご存知の、アレンジが数ある曲ですが、今日は最初の最初、作曲家の想いが詰め込まれたものを聴いていただくことになります。大花祭りにふさわしい一曲ではないでしょうか。実はこの楽譜には、作曲家からの手紙が付いていて、それはすべて古代フロシオン語でした」
おおっ、とざわめきが起きる。客席の視線が一斉にミッシェルに向けられた。しかし彼女はひるむことなく、さらに胸を張って誇らしげに続ける。
「高等科の古代フロシオン語クラスの生徒たちが中心となってそれを読み解きました。その結果、思いもかけないことがわかったのです。なんとこの楽譜は三部作でした。けれどここで問題が起きます。一部目と二部目は手紙と一緒にまとめられていたのですが、三部目はなかったのです。しかしそれには理由がありました」
今や誰もがこの小さなミステリーに固唾をのんで聞き入っていた。「公園中が静まり返っているような気がするよ」とセシルが小さな声で呟けば、クライブも真剣な顔をして頷いた。
「それを見つけるまでに長い時間がかかりました。それでも、彼らはやり遂げたのです。三部目とは、新たな楽譜ではありませんでした。実は、わが町と古くから交流のあるタフトには『我らが天使ールルセラスの伝説』という曲があります。不思議なことにタフトの曲の一部目はフロシオンのものとまったく同じです。けれど、二部目は完全に別のものでした。今回のソリストであるエマとパートナーのテオは、このタフトの曲を聴いて三部目の秘密に辿り着きました。二つの町の二部目が同時に奏でられた時、そこに三部目が現れるのです」
息をのむ気配、詰めていた息を吐き出す音、感嘆の声、様々な反応が客席を覆い尽くす。しかし誰もがその三部目を待っていることは明白だった。ミッシェルは大きく息を吸い込んだ。空を見上げれば、金色の花びらがいつになく降ってくるような気がした。
(いいわね、いいわね。エマ! どんどん降らしちゃっていいわよ!)
心の中で呟いたミッシェルはにっこりと観客に笑いかけた。
「『我らが天使ー暁の約束』」一部目と二部目をエマ・オルレリアン・ウェルズがピアノで、『我らが天使ールルセラスの伝説』の二部目をテオドール・ヴァーニー・モーガンがストリートオルガンで奏でます。最後にこの二つの楽器の合奏が三部目となります。どうぞ、感じてください。違うものが、けれど同じ想いを持って一つの方向を向いた時、そこには素晴らしい世界が広がることを」
大きな拍手の中、輝く雲が描かれたストリートオルガンを押してテオがグランドピアノの対面に進めば、その素晴らしさに客席のあちこちでため息がこぼれた。この日のためにバルデュールが用意した所蔵のアンティークピアノは木目も美しい特別品で、大花祭りのコンサートにふさわしいと誰もが思っていたけれど、ストリートオルガンの登場で、一気にステージ上の雰囲気が変わっていくのを誰もが感じずにはいられなかった。
さらに、花冠をかぶったセレンティアの精霊のようなエマがピアノに座れば、ステージ上はまるで神話の世界を描いた一枚の絵のような美しさを醸し出した。解き明かされた三部目とはどんなものだろうか。その瞬間を前に、観客席はいいようのない熱気に包まれていく。
エマたちと交代でステージ脇まで下がったミッシェルは感無量だった。気を緩めれば涙があふれてきそうで、セシルとクライブにはさまれて一生懸命笑顔を作った。
降り積もる花びらの音が聞こえるかと思うほど、古の森は静まり返った。誰もが息をのんで見守っている。金色の輝きがふと動きを止めた。古のセレンティアが風さえも止めて音と向き合おうとしているのだ。エマは甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで鍵盤に指をのせた。
想いが伝わるように、けれど出しゃばり過ぎず。物語の中に感じ取った人の世界の美しさを、それを類い稀なる音に仕上げた作者の熱意を、長い時間の中で物語を読み曲を聴き、そこに想いを託してきた多くの人たちの心を、エマは丁寧になぞるように音に変換していく。美しい想いはこの先も途切れることなく続いていくのだと、さらに多くの人の気持ちをつないでいくのだと旋律を重ねていく。まずは自分たちフロシオンの心を弾き上げたエマが、ポンと最後の一音を投げかければ、今度はテオがゆっくりとハンドルを回し始めた。
エマを見つめて微笑みながら、テオがストリートオルガンを奏でる。タフトの想いがあふれ出す。潮騒、波のきらめき、厳しい環境に負けない朗らかさ……海を知らないフロシオンの古の森に、海の香りを運ぶ甘く切ない音が流れていく。エマは、バレルが作りだす音を響きを、テオの呼吸をタイミングを、体の奥深くに刻みつけていった。なんて優しい音だろうとエマは思った。テオが言ったように、バレルはちゃんと、もう一度この世界に、大切な音を届けることを納得してくれたのだ。
エマはいつしか、自分がどこまでもテオのリズムと一つになっていくのを感じていた。テオの青い瞳は広がるタフトの海だ。その優しいきらめきに、繰り返される波音に、エマはこの森の瑞々しさを、セレンティアの輝きを重ねていくのだと誓う。
幻の三部目は、今ここで初めて合わされるけれど、エマにはもう不安などなかった。小さい頃と同じように、ただただテオを信じて、テオを感じて、寄り添う楽しさを喜びを感じるだけだと思うのだ。
合奏は見事な呼吸で始まった。そこに、信頼しあう絶対的な二人の関係を誰もが感じただろう。二つの音が混じりあって作り上げる世界は圧巻だった。ともに素朴で親しみやすいものなのに、それらが結びついた途端、あっという間にそれは、まるで芳しい香りを放つ果実のように熟成し始めたのだ。どこかに青さを秘めながらも官能的で、しかし味わい深く柔らかく、まさに人の生が作り上げる複雑な世界が音の中に立ち上がる。
ピアノだけでもストリートオルガンだけでもできないものだった。二つが合わさったからこそ現れた世界。それは人々の想像をはるかに超えたもの。すでに脳内で理解はしていたエマさえもその美しさに酔いしれた。
ああ、人の想いとはこんなにも美しいものなのか。人の住むこの世界とは、こんなにも美しいものなのか。旋律は絡みつき、もつれあい、けれど時にほぐれて追いかけて。気がつけば客席では誰もが、隣りの人と手をつなぎあっていた。互いに微笑みかけ、頷きあい、そこに共にあることを喜びあっていたのだ。
やがて、金糸の花びらに混じってセレンティアの花が現れた。それはまばゆい光をまとって、惜しげもなく観客席の上に降り注がれる。あまりの見事さに、誰もが声にならない歓声をあげた。美しいなどという言葉では言い表せられない、いや、どんな言葉も陳腐で、もしかしたらそれしかないのかもしれない、そんな光景だった。古のセレンティアが柔らかな風に、流れゆく旋律に、その身をそっと震わせば、甘い香りが一層強くなる。
エマはその時、金色の光の中に違う輝きが混じるのを見た。近づいてくるそれを捉えたエマの目が大きく見開かれる。テオが視線の先を追えば、そこには輝く赤紫のセレンティアがあった。ミッシェルにも、クライブにも、セシルにも、それは見えた。客席の先生たちは手を取り合って涙ぐんでいる。彼らにもまた見えているのだ。この日のために全力で関わってくれた誰もが、その瞬間、伝説の花色に包まれた。
やがて割れんばかりの拍手の中で、降り注ぐ花はすべて光となって弾け消えた。エマの瞳のような赤紫の輝きももちろん一緒に。ステージから戻ったエマは、ミッシェルが感謝の言葉を述べてコンサートの最後を締めくくるのを聴きながら、テオの温もりにもたれかかったままだった。すべての力を使い果たし、もう指一本動かせないような気がした。
「私、古の花を見たわ」
「ああ、俺もだ」
エマの言葉にテオが頷けば、クライブも興奮気味に答えた。
「僕らもちゃんと見たよ。感動した。嘘じゃないよねって何度も頬をつねっちゃったよ。古のセレンティアがご褒美をくれたのかもしれないね」
「同時に全員が幻覚を見るなんてありえないだろうから、正真正銘本物の伝説の花だよ」
「もお、まったく、色気がないわね! 幻覚ってなによ! セシルの言葉はどうしてそう明後日の方向に展開するのかしらね。レーデンブロイの名が泣くわ。ロロおじさんだってもっとましな修飾を考えられると思うわ!」
「ミッシェル、それはあんまりだよ……」
セシルがぼやいたけれど、ミッシェルはもう聞いていなかった。
「とにかく、すごかったね。ちょっと私、意識が飛んでたと思う。『天使の花』だよ! 憧れの、夢の赤紫……、ああ、こんなところで夢が叶うだなんて思いもしなかった。エマ、テオくん、ありがとう! 本当にありがとう!」
「これが『再生』と『開花』の力なのかな。二つの結びつきが、古のセレンティの中に眠る力を呼び起こしたんだよ。僕、自分がフロシオンでよかったって、なんか震えちゃった。可能性、だよね。『促進』にもまだまだ未知なる側面があるんじゃないかって感じるよ。僕らにできることは、これからもっともっと増えていくんだって思うよ」
クライブが感極まって言えば、セシルも微笑んで続ける。
「うん、想像をはるかに超える世界の幕開けだね。可愛い僕の従妹の願いは、もしかしたらもっと叶うかもしれないね。近いうちに、室長の歴史に、いやフロシオンの歴史に残るすごい記録が取れるんじゃない?」
「だけど……消えちゃったわ」
興奮して盛り上がる親友たちの脇で、エマがぽつりともらせばテオがすぐに応えた。
「今クライブが言っただろう、『再生』と『開花』の力かもって。あの花を咲かす可能性はもう0じゃないんだ。俺ら、希望をもらったってことなんだよ」
弾かれたように顔を上げたエマの額に口づけながらテオが続ける。
「この先なにが起きるのか、楽しみじゃないか? 未来はなに一つ決まってなんかいないんだよ。いや、決まってたっていいんだ。そこに辿り着く道のりは、俺たちのもの。俺たちが楽しんで作り上げていくものは、誰のものでもない、俺たちだけのものなんだよ」
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