第28話 五人と古のセレンティア大花祭り 3

 客席はほぼ満席になっている。トラヴィス先生やルカさんたちも急いで着席した。エマはゲスト席にあの紳士がいるのを見つけた。最後にフロシオン側の最前列に座った先生は気がついていなかったけれど、紳士の目はまっすぐに先生の姿を捉えていた。アイスブルーの瞳が大きく見開かれ、すぐにたとえようもないほどの喜びにあふれていくのを、エマはつぶさに見ていた。その顔に浮かんだ微笑みはあまりに綺麗で、エマは思わず見惚れてしまう。


(あんな素敵な人に、あんな表情をさせてしまうなんて、先生、すごいなあ……)


 エマがうっとりと二人を見ていると、ふと顔を上げた先生が、はっと息をのむのが感じられた。紳士を見つけたのだ。エマはドキドキしながら見守った。戸惑いを隠せない先生は落ち着きなく視線をさまよわせる。それは、いつものクールな先生からは想像もできないような可愛らしさだった。けれど最後には顔を上げ、先生は微笑みかけたのだ。

 それを見た瞬間、紳士が腰を浮かした。今すぐにでも先生に駆け寄りたいという気持ちが遠くからでも読み取れる。けれどコンサートはもう始まるのだ。彼は咳払いを一つすると、腰を下ろした。もちろん視線は先生から外さない。先生は苦笑しながら、ステージの方を向くように身振り手振りで紳士を促している。先生が逃げ出したりしないとわかったのだろう、彼は落ち着きを取り戻し、はにかんだような微笑みを見せた。


「わあ。顔面偏差値が高すぎて辛い……。先生、さすが!」

 

 コンサートのあとに何が始まるのかを考えると、エマの乙女心がひどくうずいた。


(あ〜ミッシェルにも教えたい!)


 エマが密かに悶絶していると、テオが心配そうに声をかけてきた。


「エマ? どうした? 大丈夫か?」


 素敵な二人を見て、エマの気持ちはすっかり高揚していた。自分が演奏する緊張感なんて吹き飛んでしまったかのようだ。フワフワと夢見心地になり、エマは思わずテオにすり寄った。テオは突然のことに驚きつつも、素直なエマが嬉しくてたまらない。満面の笑顔になる。二人は寄り添いながら、ミッシェルの絶妙な司会で進んでいくコンサートを楽しんだ。


 大切な先生を、あの人ならきっと幸せにしてくれるだろう。逃げ出した自分を後悔している先生も、きっと今回は素直になってくれるだろう。そう思うと、エマはたまらなく幸せな気分だった。また一つ、結びついていく想いがエマの胸の中に豊かな色を足していく。

 紳士から聞いたキュロスの伝説も「我らが天使」の中に重ねていこうとエマは思った。彼らはきっと、一緒に満月の花畑を行ったのだ。それはどんなに幻想的な風景だっただろうか。そんな美しい思い出を心の奥に持つ先生が、エマをこのステージへと導いてくれた。想いとは何か、ピアニストとはどうあるべきか、それを押しつけることなく教えてくれた。このタイミングで、曲の中に想い想われることの美しさをさらに加えられたことが、エマは心から嬉しかった。感謝の気持ちを先生に届けたい、そう思わずにはいられなかった。


「エマ、嬉しそうだな」

「うん、素敵なことで胸がいっぱいだよ。私にはテオがいてくれて良かった」


 珍しくテオが真っ赤になって空を仰いだ。エマもつられて見上げれば、金色の花びらが次から次へと舞い降りてくるのが見えた。十年で一番の深く鮮やかな金色。小さな花びらさえも光の粒のようにきらめいている。奏でられる綺麗な音たちが古の森に響き渡り、風が音に応えるようにその花びらを運んだ。ステージの前にたつ古のセレンティアもきっと、この音を楽しんでいるのだとエマは思った。


「私たちも運んできましたよ」


 エマがそっと呟けばテオが頷いてそれに続ける。


「ああ、そうだな。はるか遠い彼方からの、二つの町の想いを運んできた。綺麗なストリートオルガンも、フロシオンの花降る時間の中にまた連れてこられたしな。それもとびきりの金色の中だ」


 二人は互いの温もりを感じあいながら、金色の花びらに向かって両手を差し出した。初めてセレンティアの花を見た時の喜びが二人の中に蘇ってくる。エマが受けとめた両手をそっと閉じれば、テオがそれをそっと包みこむ。あの日、神聖な儀式のように感じたそれは、今日もまた、新たな始まりを二人に予感させた。


「エマさん、お願いします」


 コンサートスタッフの小さなかけ声に振り向いたエマは、テオと一緒に立ち上がる。数曲あとにはいよいよエマたちの演奏だ。ステージ裏にはセシルとクライブもきていた。少し遅れてミッシェルも走ってくる。テオはストリートオルガンを押してステージ脇のカーテンまで進んだ。


「みんなを感動させてあげなよ」


 セシルの言葉にクライブが肩をすくませた。


「なにそれ、その上から目線、相も変わらず王様チックだねえ。まあでもテオだからいいか。思う存分やればいいよ。らしいのが一番だからね」

「そうよ、通常運転が一番。自分が素直に感動すれば、きっと相手も感動するのよ。作り物じゃあ通用しないけど、エマにはそんな心配もないね。はい、これ」


 ミッシェルがセレンティアの花冠を差し出した。数年前にかぶったものよりもずっとグレードアップしているように見えてエマは驚いてしまう。細工が妙に凝っている、手が込んでいるというか……小さな縁レースが付いたリボンの色は鮮やかな青だった。


「これ……」

「お祝いよ。みんなで作ったの。さすがにテオくんが入ると出来が違うわよねえ。神業? ちなみにセシルは最後のリボンをクルクル回しただけよ。結んだのはテオくんだから。それでこっちはテオくんのね。最後のリボンはエマが結んであげて」


 ミッシェルが取り出した小さなコサージュには、綺麗な緑のリボンが巻かれていた。そこには赤紫の細いリボンが一緒に合わさっている。「天使の花」の色だ。エマが目を丸くすれば、ミッシェルが得意そうにウィンクを寄越した。


「ありがとう、みんな。でも花冠なんてちょっと派手過ぎない?」

「なに言ってるの。トリよトリ。『今年の花娘』みたいなものじゃない!」


 そんなイベントがあったっけ? と囁いたセシルの上にミッシェルの無言の拳が炸裂する。クライブがこれ以上悪化しないようにと二人の間に入れば、コホンと一つ咳払いをしてミッシェルが続けた。


「とにかく、演出はこれで完璧。誰の胸にも残る、思い出の曲になるといいわね」

「うん、そうだね。でも、今日が最後じゃなくて、ここが始まりなんだって僕は思うよ。僕らたくさん課題ももらったしね」

「うん、僕がレーデンブロイに戻っても、みんながすぐきてくれるような気もするしね」


 セシルのトンチンカンな励ましに首を振るミッシェルの肩をさすりながらクライブが笑う。


「僕たちここで待ってるから、まずは二人で素敵な幕開けを頼むよ」


 テオが両手でクライブとセシルの肩を抱き、エマはミッシェルの熱い抱擁を受けとめる。エマがリボンを結び終えたコサージュをテオのジャケットに止めつければ、テオはそっと花冠をエマの頭上にのせた。


「私の紹介が終わったら入ってきてね」


 ミッシェルが二人に言い残してステージへと一足先に走っていく。エマはテオと手をつないでステージに向き直った。

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