第25話 幼馴染と氷河を溶かす春の光
「エマ、花祭りには絶対間に合わすよ。バレルを再生して、そこから楽譜を起こそう。きちんと連弾にしなくちゃな。トラヴィス先生、やる気満々なんだろう?」
テオの顔をじっと見つめていたエマは静かに答えた。
「テオがいい」
「え?」
「そうよ、それがいいわ。ストリートオルガンを回せばいいのよ。テオくん、あなたが奏でればいいじゃない」
テオはあっけに取られていた。そんな展開、想像もしていなかったのだ。エマはいたずらが成功した子どものように得意そうな笑みを見せ、アリソンはおかしそうに笑いをこらえていた。
「俺が? 俺が回すんですか?」
「そうよ、できるでしょ。ほら、こうやってクルクル回すだけで」
「だけど……これタイミングとか、実はものすごく難しいでしょ。一人で回すならどうにかなるかもしれないけど、ピアノと合わすとか俺、自信ないですよ」
「大丈夫よ。だって相手はエマちゃんなのよ。エマちゃんのこと、誰よりもわかってるのは誰? あなたでしょ、テオくん。何の心配もいらないわ」
「そうよ、心配なのはテオがそれをちゃんと蘇らせてくれるかどうかだわ」
とうとうアリソンさんが吹き出した。エマも笑っている。参ったなあと頭をかいたテオも最後には笑い出した。大花祭りまであと三ヶ月ちょっと。果たして自分たちに何ができるか。それはその日までわからないけれど、できることを最後までやり抜くだけだとテオもエマも気持ちを新たにした。アリソンさんは二人の手を取った。
「蘇らせましょう。音と言葉が結びついて、この世界の美しさは、人々の想いは、きっと何倍にも何十倍にもなって届けられるわ」
「なんて素敵なの……」
トラヴィス先生は目をつぶったまま、吐息を洩らした。エマから紙芝居テントでの話を聞き終わってすぐのことだ。「先生すいません!」と潔く頭を下げ、きっぱりとテオとの合奏を申し出たエマに、先生はウィンクしてみせた。楽譜に起こすことができたなら、いつだって自分とは弾けるのだ。けれど大花祭りのステージは一度きり。アリソンさんのストリートオルガンとともに、金の花降る中で、天使の流れ星の想いも込めて、エマが一緒に旋律を重ねる相手は、テオ以外には考えられないと先生は言ってくれた。もしエマが自分との連弾を打診してきたら、「なぜテオくんとしないのか!」とはっきり言い渡すつもりだったとトラヴィス先生は笑った。
「エマとテオくんが奏でる音が楽しみね。大花祭りにふさわしいわ。本当は今すぐにでもタフトの広報課に駆け込んで、このことを話したいけれど、まずはテオくんがバレルを蘇らせてだからね、我慢、我慢。彼に変なプレッシャーはかけたくないもの」
「はい、私もテオならやってくれると信じていますけど、焦らせたくはないです。ようやく自分の能力と向き合うことができたばかりで、戸惑いも多いと思うから」
「そうね、その通りだわ。今はエマが頑張って、曲を仕上げていくべきね。たとえ一人で弾くことになっても、あなたの頭の中にタフトの音が流れていれば、まちがないくそれは連弾になるわ。さあ、エマ、弾いてみて、私に感じさせて」
それはトラヴィス先生だからできることだとエマは思った。聞こえないもう一つの音を、けれど先生はちゃんと受け取ってくれたのだと思う。弾き終わったエマは、いつになく楽しげな先生の顔を見たとき、ほっとした。自分のやるべきことは間違っていないのだと確信できたのだ。
「ありがとう、エマ。こんな素敵な気分になれたのはいつぶりかしら。留学していた時かなあ」
「先生の留学先ってどこだったんですか?」
「あら、言ってなかった? レーデンブロイよ。険しい渓谷に守られた白い花畑が香る北の国よ」
「!」
「ん? どうしたの?」
「先生、キュロスのお茶、好きですか?」
「え? ええ、好きだけど……。でも、キュロスって……」
エマは素早く立ち上がるとソファーに置いてあったバッグを開いた。そこから先生へのお土産を取り出す。「先生、これ」と言って差し出せば、その包装を見てトラヴィス先生の目が大きくなった。
「国際交流展にお店が出ていたんです。ちょうどその前にミッシェルが淹れてくれて、すごく感動して……先生にも飲んで欲しかったから買ってきたんです。そうか、お好きだったんですね、よかったあ」
「エマ……。ありがとう。実は、もうしばらく飲んでいないんだけどね」
「え、ダメでしたか? 体に合わなくなったとか?」
「ううん、違うの、勇気が出なくて。飲んでこの香りを胸いっぱいに吸い込んだら、なんだか泣いてしまいそうで……。でも、飲んでみるわ。エマたちの奮闘ぶりを聞いていたら、私もやっと踏ん切りがついたから。今なら飲めると思うの。ありがとう。綺麗な色のリボンも嬉しいわ」
先生がなくした時間、先生の想い人。こんなに素敵な先生が泣くなんて……。エマは嬉しそうにパッケージを開く先生の横顔をじっと見ていた。
「天の邪鬼なんだね。恥ずかしがりやで胸の奥に色々なものをしまっているんだね」
ふと、あの紳士の言葉が蘇ってきた。何かがエマを突き動かすような気がした。考えるよりも先に唇が言葉を紡いだ。
「それは、レーデンブロイのお店で出会った人の瞳の色なんです。お茶のことを教えてくれたんですよ。満月の夜の花のことも。恋人たちのことも。この茶葉には三杯花を足せば一番いい香りがするんだって。首筋に、ものすごく綺麗な鱗がありました」
エマの言葉が重ねられるたび、先生の目が少しずつ大きくなっていくのをエマはじっと見つめていた。自分の中のもしかしては多分間違っていない。エマは余計なことだと思いつつも言葉を止めることができなかった。
「このお茶を飲んだら天の邪鬼さんも、もう無表情はやめるって言い出すんじゃないかなって言ってました」
先生の綺麗な瞳から涙がこぼれ落ちた。次から次へと滑り落ちていく。それでも、先生は泣きながらも微笑んだ。まるで氷河が溶けて春が来たようだとエマは思った。
「先生。お茶、飲んでください。熱くて舌が焼けそうなのがいいんですよね」
エマが渡したお茶を胸に抱きしめながら、頼りなげな少女のように、トラヴィス先生は何度も何度も頷いた。
どんなに時間がかかっても、想いを捨てない限りそれは届くのだとエマは感じた。より深くより優しくなり、もしかしたら引き離された時よりももっとずっと強くなって、新しい何かを形作るのかもしれない。先生はきっと、あの氷河のように美しい人の上に、もう一度、暖かな光を投げかけられるに違いない。紳士の想いを伝えることができたことに、エマは深く安堵した。
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