第28話 幼馴染は光の中で微笑む
午後の図書館で、静かにページをめくるテオ。傍らにはクライブがいて、今日も二人は古代フロシオン語の解読に精を出していた。何かに没頭しなければ、あふれ出る思いに蓋などできるはずがない。テオは山積みになった資料に感謝の気持ちさえ感じていた。
カタンと小さな音を立てて、椅子が引かれる。テオがその音に顔を上げれば、そこにはミッシェルがいた。あの夏の日以来、ミッシェルは時々図書館に顔を出すようになった。長くはいられないけれど、エマの様子をテオに聞かせたり、テオたちにとって貴重な資料を持ってきたり。エマにも説明した、古い文献に残る不思議な能力の話をテオにもしたミッシェルは、年末にはその本を携えてやってきたのだ。そこには多くの古代フロシオン語も併記されていて、テオもクライブも大いに驚かされた。
ミッシェルが、自分たちのことを気にしてくれていることはテオにもよくわかっていた。エマとの間を少しでも取り持ってくれようと努力していることも。それでもテオはミッシェルに、こうして自分たちが会っていることを内緒にしてくれと頼んだ。ミッシェルは最初、納得のいかないような表情を見せたけれど、それでも最後には頷いた。今はまだ時間が欲しいというテオの気持ちが理解できたからだ。
早春の日射しは傾き始めていた。西向きの窓には黄金の光が集まってくる。テーブルの上に広げられた古代フロシオン語の本の上にもちらちらと光は跳ねて幻想的だった。それを横目に見やりながら、ミッシェルが静かに口を開いた。
「久しぶり。元気だった?」
「まあね。色々とやることがあって助かってるよ。ミッシェルの持ってきてくれたあの歴史の本、かなり役に立ってるよ。なあクライブ」
「ああ、さすがバルデュールだね。図書館にないものがまだまだあるんだろう? いつか招待してよ」
「ええ、いつでも。声をかけて。まあ、そうはいっても植物のことが大半だから、そんなに面白いものではないかもしれないよ?」
「いや、古代フロシオン語で書かれたものもあるんでしょ? だとしたらそれはもう僕らにとっては未曾有のお宝だよ。テオ、ちょっと休憩しよう。ミッシェル、コーヒーでいい? 僕買ってくるから、しばらく二人で話したら? それできたんでしょ?」
ウインクを一つ残してクライブは席を立つ。十五分でいいわ、私も急いでいるからとミッシェルが答えた。巨大な書架の向こうにクライブの姿が消えるのを見送ってテオが振り返る。
「エマは……元気? ピアノもちゃんと弾けてる?」
「ええ。あれもこれもお願いしてるからね。忙しすぎる! って文句を言われてるわ。今度の花祭りで、子どもたちのバレエ演目用にピアノを弾いてもらうの。テオくんたちの席も用意するから来てよ」
「いいよ、俺は。エマだってもう……俺に会いたくないと思ってるだろうし」
テオがいつになく踏み込んだことを言うのをミッシェルは聞き逃さなかった。すかさず切り返す。
「そんなことないよ。もう半年以上過ぎたんだよ。どうしてそんなに意地を張ってるの? テオくん! エマがあんなことくらいであなたのことを嫌いになるだなんて、そんなこと本気で思ってるの?」
「違うよ、そうじゃない、俺の気持ちだよ。大事な人の大事なものを絶対に傷つけない、クロエの話を聞いたときに俺はそう決めたんだ。もう二度と同じ間違いは犯さないんだって。なのに……」
俯いてしまったテオから絞り出される声はあまりに弱々しかった。
「青い月の日の双子だろうが、暴走する能力だろうが、そんなことは関係ない。要するに大事な人を守れるかどうかってことだ。それなのに俺はエマの手を、ピアノを弾く彼女の手を傷つけた……」
「そんなのとっくに治ってるわよ! 何の問題もない。ただのかすり傷だったのよ。大げさなこと言わないで! なにそれ、そんなことで、なんでそんなに負い目を感じるのよ!」
飛び出したミッシェルの声は凄まじく、項垂れていたテオも驚かされた。落ち着いてミッシェル、ここ一番奥で人気はないけど一応図書館なんだから、そうなだめればミッシェルも浮きかけた腰を下ろす。興奮した相手を前にすれば、さすがにテオも冷静になってくる。ミッシェルにはきちんと説明しなければと思った。
「とにかく、自分の中での疑問が解決しない限り、俺はエマとは会わないよ。エマのこと守りたい気持ちは変わらない。だからこそなんだ、わかってミッシェル。あの日と変わらないままでエマと会って、また同じことが起きたらどうする? かすり傷ですんだから良かったけど、もしエマにそれ以上のことがあったらと思ったらゾッとするよ。俺の能力が何か、ちゃんとわかれば先に進めるかもしれない」
「分からなかったら?」
「その時は仕方がないさ。そんな見えない未来にエマは巻き込めない。いくらあいつが頼んでも断固お断りだ。まあ、この間のことで俺にはきっと失望してるだろうけどな。怖かっただろうな。血だらけの男が泣きながら追いすがって……怖い夢見ないといいんだけど」
エマはそんなに弱虫じゃない! とミッシェルは叫びたかった。エマは今だってテオくんのこと大事に大事に思ってるんだから! と。だけどそれはミッシェルが言っていい言葉ではないのだ。お互いが向き合って告げてこそ意味のある言葉。第三者が押し付けていいものなんかではない。
わかってはいるけれど、ミッシェルには二人の一途な想いが、その頑張りがもうまどろっこしくて仕方がなかった。なにをしているんだと叱り飛ばしたい。グズグズするなとお尻を叩きたい。常に時間と戦っているミッシェルには、あれもこれもが遅すぎて、がっくりと膝をついてしまいたくなるほどだったのだ。
けれどそれも二人の時間。ミッシェルが考えたこともなかったような時間との向き合い方。ミッシェルは自分から見ればまったくの逆方向に、覚悟を決めて歩き出そうとしているテオをもう一度見た。その上に、弱々しくて儚げなのに、どこまでも頑固で強情な親友の姿を重ね合わせれば、ゆるゆると不思議な感慨がミッシェルの中に湧き上がってきた。人というものがいかに時間に翻弄されるのか、いかに時間を必要とするのか、そんなことを教えられているような気がした。
「テオくん、一つだけ聞かせて?」
ん? と首をかしげるテオは差し込む夕日にその金髪を煌めかせていて、今日も恐ろしいほどに美しかった。夏の日の悲劇が二人をあの日よりもぐっと大人にしたことに、多分本人たちは気がついていないだろう。エマの憂いは奏でる音楽の中になんともいえない深みを与えていたし、テオの悲しみはその綺麗な顔にさらなる色気を漂わせることになった。エマにも見せたかったとミッシェルは思った。深く息を吸い込むと彼女は静かに尋ねた。
「ねえ、今もエマのことが一番大事?」
その言葉に、テオがそれはそれは綺麗な微笑みを見せた。ああ、セレンティアの天使だとミッシェルは思った。木を植えた天使と木から生まれた精霊、それは決して切り離してはいけないものなのだ。運命があるとしたら、大いなる神の力があるとしたら、この二人を引き裂くなんて、そんなこと絶対するわけがない、そう感じたのだ。
ミッシェルはなんだか泣きたくなった。あふれそうな涙を必死になってこらえた。そんなミッシェルに、金色の輝きの中でテオが答える。それは優しい優しい声だった。
「ああ、エマが大事だよ。いつだって大事だ。世界で一番、大事なんだ」
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