第26話 幼馴染の夏の始まり

 翌朝、エマは自分のベッドで目覚めた。髪も体も乾いていて、いつものパジャマを着ている。なんだかひどく嫌な夢を見ていたようだと思ったとき、ズキっと痛みが走った。そっと視線を向ければ、包帯が巻かれているのが見えた。

 手首下までの手袋をはめたような両手。強く痛んだのは左手首だ。両方の手の甲にもかすかな痛みを感じたけれど、指先は自由に動いた。丁寧に巻かれた包帯は、ちょっと大げさなような気もしたけれど、大事を取ってやってくれたのだろうとエマは思った。


(って、誰が? お母さんが? ん? ミッシェルが?)


 そこで鮮烈に記憶が蘇ってきた。


「テオ!」


 思わず大きな声が出て、エマはベッドの上に跳ね起きた。その音にすぐドアが開き、母エミリーが顔を出す。


「お母さん、テオが、テオが……」


 もう言葉にならなかった。エマは小さな子どもみたいに泣きじゃくった。エミリーは力強くエマを抱き寄せて背中をさすった。


「大丈夫よ、大丈夫。落ち着いて。ミッシェルちゃんがね、連れてきてくれたの。見たことをみんな教えてくれたわ。能力の暴走はね、力のある者には時々起こることなの。心配ないわ。テオくんは今まで何もなかったから、余計ひどかったんでしょうね。とにかく今はしっかり休むことよ。考えるのはそれからでいいわ。夏休みは始まったばかりなんだから」


 泣きつかれたエマが一眠りして目覚めたあとすぐ、ミッシェルがやってきた。データ取りのための作業は終わり、あとはこれからの日々の記録。「忙しいのは忙しいけど、エマと遊ぶ時間は十分あるわ」と笑った。

 何が起こったのか、もう一度自分の中で整理するためにも、エマにはミッシェルの力が必要だった。昨日の午後、自分が見たものについて、エマは覚えている限りの詳細をミッシェルに伝えた。目をつぶって、しばらくじっとなにかを考えていたミッシェルは、顔を上げるといつになく真剣な表情を見せた。


「私は専門家じゃないからこの考えが正しいかどうかはわからないけど……私なりに思うことを言うわね。まず、古い文献の中でいくつか同じような記述を見たわ。テオくんはフロシオンとタフトの二つの血を引いているから、完全に当てはまるとは言えないけど……限りなく近いものじゃないかと思うの。とすると、彼の能力は隠されたものよ。なんて言う名称だったかしら。ちょっと今すぐには思い出せないんだけど、とにかく半端なく強いもの。それこそ、根こそぎ何かを変えちゃうようなね。強いていえば……生と死みたいな。すべてを覆してスタートさせる力よ」

「そんなの、聞いたことがないわ」

「ないわよね。だってこれ、隠された力っていうか、すごすぎちゃって公表できないっていうか。言ってみれば最終兵器みたいな?」

「なにそれ。人間ができること?」

「まあ、そうね、誰だってそう思うわよね。でも、かつてそれは存在した。今この世界にないとは言えないわ。とにかくコントロールも難しいし暴走しがちな力よ」

「青い月の日の双子みたい……」


 ミッシェルが静かに頷いた。


「私も同じこと思った」

「ひどすぎる。そんなもの二つも抱えて、テオは大丈夫なの?」

「わからないわ。でも、同じようなものを背負っている、もしかしたらそれは二つじゃなくて、同じものなのかもしれないよ?」

「!」

「そして心配なのは……その発動源と言うかスイッチがエマだってことだよ。いい意味でも悪い意味でもエマはテオくんのキーなのよ。それで、言いたくはないけど……今のところ圧倒的に悪い方に傾いてるよね」


 エマは可哀想なほどにうなだれた。ミッシェルは申し訳なさで一杯になる。けれどこれだけは言っておかなければいけないと口を開いた。


「ごめんね。だけど私としては、これ以上親友を傷つけられるわけにはいかないのよ。テオくんが何らかの方法を見つけない限り問題は解決しないわ。今回は運よく校門くらいですんだけど、場所と時間に寄ったらこれ、大変なことよ。そうなってからじゃ遅いのよ。エマ。しょげてる場合じゃない。私たちも手立てを考えなくっちゃ」


 エマは弾かれたように顔を上げた。じゃあどうすればいいの? まるで迷子になった子犬のような瞳にミッシェルは心苦しさを覚えずにはいられなかったけれど、心を鬼にして言い切る。


「一番確実なのは……会わないこと。どんなことがあってもテオをくんを守るんだって、エマが心から思えない限り、絶対ダメ。自信がないうちに会うことはお勧めできないわ。中途半端なやり方で通用するものじゃないのよ。そんなの傷を増やすだけ。エマはどうなの? 今テオくんに会える? なにか言ってあげられる?」


 エマは力なく首を振った。今の自分ではなにもしてあげられない。自分のことさえわからないままなのだ。クロエにはなれない、片割れにもなれたのかどうかわからない。何よりも傷ついたテオを思い浮かべるだけで、エマは全身が震える思いだった。血を流して幽鬼のように向かってくるテオをエマはどうしていいのかわからなかった。まるで知らない人のように見えたのだ。

 でもきっと、あれがテオの本当の姿なのだろうとエマは思った。弱々しくて、傷つきやすくて、剥き出しの心は純粋すぎて。自分が知っていたテオは何だったのだろうか。エマは、自分たちの過ごしてきた時間が嘘の積み重ねではなかったことを祈らずにはいられなかった。

 

 あの時、「行かないで、離れたくない」とテオは言い残したけれど、あれは誰に対する言葉だったのだろうかと、ミッシェルが帰って一人なった部屋でエマは考え続けた。自分であってほしいと思う。けれど一方で、もしそれがエマだったとしても、きっとあの瞬間、テオはそれを後悔したかもしれないとも思うのだ。なぜならエマは、そんなテオになに一つ応えることができなかったからだ。それは大きな悲しみだった。エマは自分の無力さを恥じた。胸の辺りに重い鉛のような何かが投げ込まれかのようだった。

 窓の外では強くなっていく日射しの中、伸びる影もまた深く濃くなっていく。それはまるで二人の間に横たわるもの、超えられない亀裂のように見えた。その影が自分の中にも急速に広がっていくのを、エマは感じずにはいられなかった。

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