第25話 幼馴染は暴走する

 最終日のイベントはミニコンサート。それには出席しようと準備していたミッシェルだったけれど、その朝ちょっとしたトラブルがあって足止めをくっていた。今日こそはエマの話を聞かなくては焦るのに、問題は思った以上にこじれていて一向に解決しない。

 ミッシェルはこんな時こそ冷静にならなければと自分に言い聞かす。なんだろう、説明のつかない不安が押し寄せてくるのだ。それはこのトラブルのせいなんかではない。何か、もっと大きくとんでもないものが向かってきているような……。研究室のセレンティアたちもみな、落ち着きなく揺れているような気がしてならなかった。


 その頃、エマは大きなため息を重ねていた。本当はピアノ演奏どころではなかった。身も心も疲れ切ってひどい顔色だ。けれどエマの演奏を楽しみにしていてくれる人がいる。このコンサートのためにもうずいぶん前から準備をしてくれていた人たちも。だからエマは力を振り絞って登校したのだ。笑顔を貼り付けて、できるだけ楽しそうに。けれど心の中は迷いでいっぱいだった。


(嘘の笑顔なんて、嘘の喜びなんて……聴いてくれる人たちに失礼だよね。それに……こんな精神状態で、ちゃんと弾ききれるかなあ……)


 本番前、一人の音楽室で、エマは今日何度目になるのかわからないため息をこぼした。それでも気がつけば鍵盤に向かっていた。指慣らしをすれば、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。私にできることは何? そう自分に問いかける。重ねられる音たちが、揺れて散り散りになりかけていたエマの心を、そっと手繰り寄せる。

 やれるとエマは感じた。届け手としての自分を全うするのだ。この瞬間だけは、音に託された喜びに集中する。音を信じて、音と一緒に。そう決めたとき、彼女の笑顔は偽物ではなくなっていた。 

 

 楽譜を胸にホールに向かい、拍手で迎えてくれる人たちに一礼して鍵盤に指をのせれば、あとは音が導いてくれた。想像した以上に、音がエマを助けてくれたのだ。外に向けて喜びを届けたいと思っていたけれど、それは同じように内にも作用し、エマ自身の胸の奥にも届いた。心苛まされる時間から切り離され、エマはしばし自由になったのだ。


 コンサートは無事終わり、エマは安堵の吐息を漏らした。その時になって、ミッシェルがコンサートに来ていないことに気づく。残念だが仕方がない。あれだけ忙しい人だし、室長という責任だって背負っている。今が一番大変な時期だからとエマは自分を慰めた。もらったプレゼントや楽譜をまとめ、まだ後片付けをしているコンサートスタッフに挨拶をして、エマは一人ホールを出た。

 満たされたようなそうでないような、なんとも複雑な気分を感じながら歩いていたエマは、校舎の角ではっと足を止めた。テオが立っている。今にも降り出しそうな空の下、テオが校門に寄りかかっていたのだ。

 エマはうろたえた。テオに会いたくない。けれど戻るわけにもいかない。脇を抜けていくしかないと覚悟を決める。顔を背け急ぎ足で校門を出ようとした時、急に腕を掴み取られてエマは小さく息をのんだ。見上げれば、そこには苦しげに歪められたテオの顔があった。


「どうして……」

「エマ、聞い」

「いや! もうやめて!」


 弱々しく絞り出されたテオの声をエマの鋭い一言が凪ぎ払う。テオが驚いて目を見開いた。ここまで明白な態度を取られたことはなかったのだ。掴んでいた力が弱まった隙に、エマはさっと身を引いて学園側へと距離をとった。


「違うんだ」

「ええ、そうね。違うのよね。私はクロエなんかじゃないんでしょ」

「エマ!」


 その一言に、テオはようやく気がついた。何がエマを追いつめていたのか。どれだけエマが苦しんでいたのか。

 エマは、クロエと自分をずっと比べてきたのだ。代わりでしかないなんて、苦しくて仕方がなかっただろう。それでもそれをテオが求めているのならとエマは頑張ったのだ。いつだってテオのことを考えていた。

 テオは自分がエマの気持ちを踏みにじったことに気がついた。クロエなんて必要ないと言うべきだったのだ。エマだから大切なんだと。しかしすべてが遅すぎた。間違って噛み合った歯車はありえない方向へと走り出したのだ。気持ちを爆発させてしまったエマはもはや聞く耳を持たなかった。


「必要ないんだよね、エマなんか。クロエになれないエマなんかいらないんでしょ。クロエにもなれないエマなんか片割れでもなんでもないんでしょ!」


 エマが泣いている。それなのに歪な花一つ降ることがない。それはもう、エマの心が自分にはないからなのだと思った瞬間、テオは手の平が燃えるように熱くなるのを感じた。その手を握りしめながら、テオは心の内で己を罵った。


(俺は最低だ、俺は自分勝手だ、言い訳ばかりで大事な人を守ることもできないくせに!)


 吹き出すような負の感情が入り乱れ、テオは自分の手の平から発せられる力にのけぞった。まるで皮膚を突き破るかのような勢いで双葉が出現したのだ。しかもそれはいつものではなかった。それは禍々しいなにかだった。

 呆然と見つめるテオの目の前で、双葉は急激に成長し始めた。信じられないほどの痛みがテオを襲う。手首を握りしめ、テオは唸った。それでも変化は止まらない。毒々しい葉が広がり、固い蔓がどんどん伸びる。

 放心したように座り込んでいたエマは、そんなテオの変化に気づいていなかった。あまりに激しく心が揺さぶられて疲れ果ててしまったのだ。もうしばらくろくに寝ていない。悲しみが限界を超えて、意識が朦朧と仕掛けていた。その時、エマの耳が聞いたこともないような音を拾った。鞭のようなものがなにかを打ちつけている。


 のろのろと顔を上げたエマは、目の前の光景を見て悲鳴を上げた。テオの手の平から、びっしりと棘が付いた蔓が何本も出現しているのだ。テオがそれを制御できていないのは一目瞭然だった。

 蔓がテオを打っている。棘は薄い夏服に容赦なく襲いかかり、あちこちに血を滲ませる傷が、赤いミミズ腫れが浮かび上がる。エマの大好きな綺麗な顔にも、なんでも器用にこなす長い指先にも。それでもテオはされるがままだった。テオは痛みの中で思っていたのだ。


(そうだよ、痛めつけられて当然なんだ。エマの心を苦しめた俺なんて。俺こそがいらないもの。この世界で一番卑怯で醜いものなんだ)


 だけど同時にテオは伝えたかった。


(違うんだエマ。行かないで、そばにいて!)


 心の声に弾かれるように、テオがうなだれていた首をあげれば、エマが顔色を変えて泣いていた。ブルブルと震え怖がっている。その涙は忌まわしい自分への嫌悪だ。もう近づいてほしくないのだとテオは解釈した。


(わかってる、わかってるよ。その通りだ……)


 それでもテオの心はエマを求め続けた。気がつけば一歩、また一歩とテオはエマへと向けて足を踏み出していたのだ。


「エマ、エマ……」


 テオが動くたび蔓はテオをひどく打ちつけた。また新しい傷が作られ、血が流れる。エマは泣きながらそんなテオを見ていた。あまりに恐ろしくて腰が抜けてしまっていた。血を流すテオを止めなくてはと思うのに、どうしていいのかわからない。自分が泣けば泣くほどテオの様子がおかしくなっていく。何が起こっているのか、もうエマにはわからなかった。この場から自分がいなくなればいいのでは。それしか思いつかなかった。エマは残った力を振り絞って後ずさった。

 その姿にテオは、心に途方もなく大きな穴が開くのを感じた。その暗闇に飲み込まれていくような気分だった。大事な大事なエマに、自分は今、完全なる拒絶を申し渡されたのだ。


「ダメだ! エマ、行かないで!」


 そう叫んだとき、棘を持った蔓はさらに四方八方へと伸びた。


(嫌だ、嫌だ、なくしたくない、一人になりたくない、離れたくない!)


 テオの想いが渦巻いて大きくなれば、それに合わせて蔓がより一層暴れ始めた。一番太い蔓が何度も校門を打ち付け、雷鳴が轟渡ったその時、校門の角がついに壊れて吹き飛んだ。

 砕け散るレンガ。とっさにそれを避けたテオはその破片が思った以上に飛び散ってエマに向かうのを見た。まるでスローモーションのようだった。


(エマ逃げろ!)


 一瞬我に返り、テオは声限りに叫んだ。けれどそれは言葉にならなかった。テオは自由になる右手で喉を掻きむしった。喉に何かが張り付いて声を出すことができない。

 エマが両手で自分を覆うように小さくなるのが見えた。その白い手に破片は容赦なく襲いかかる。

 エマの大切な手。ピアノを弾く指。それが傷ついて真っ赤な血を流す様子を見た瞬間、テオの心は完全に燃え尽きた。

 大切な人の大切なものを傷つけた自分。それは絶対に許せないものだった。大きく目を見開いたテオは気を失った。同時に、あれほど荒れ狂っていた蔓がみるみるうちにテオの手の平へと戻っていく。傷だらけのテオだけがそこに残された。

 再び大地を揺るがすような雷鳴。ついに雨が降り出した。急速に強まる雨足は、倒れたテオの姿をかき消さんばかりだ。


「テオ! テオ! お願い、目を覚まして、テオ!」


 血を流しながらエマはテオの名を叫び続けた。それしかできなかった。あまりの衝撃と痛みに動くことができなかったのだ。

 その時、校門前に黒い車が横付けされた。出てきたのはミッシェルだ。もはや横殴り状態の雨の中、彼女は目の前の異変に気がついた。


「エマ!」


 泣き叫ぶエマを視界の隅に捕らえたミッシェルは、破壊された門を信じられない思いで見やった。倒れているテオと泣いているエマはどちらもが血を流している。明らかに尋常ではない状況だ。けれどミッシェルは恐ろしいほどの早さで冷静さを取り戻し、この場を乗りきらなければと判断した。

 ミッシェルはまず、錯乱状態のエマをなだめながら車に押し込んだ。すぐに運転手もおりてきて、二人掛かりで意識のないテオを運び込めば、半狂乱になってエマがすがりつく。けれどテオが目を覚ます気配はなかった。エマは壊れた人形のようにテオの名を呼び続けた。


「エマ、しっかりして。泣いてる場合じゃないわよ。テオくんを守るんでしょ!」


 その言葉にエマが顔を上げた。コクコクと頷く彼女にミッシェルが言い聞かせる。


「あなたたち二人を運ぶわ。あとは校門ね」


 そう言った瞬間、激しい落雷が近くに落ちた。校門脇の大きな街路樹が一つ、軋んだ音を立てる。


「あなたが助けてくれるのね。ありがとう。バルデュールは約束するわ。この道の街路樹をさらに増やすことを」

「ミッシェル?」


 いつか見たように、ミッシェルの髪が意思を持っているかのようにうねっているとエマは思った。疲れ切って今にも意識が飛びそうな中で「大丈夫よエマ、私があなたたちを助けてあげる」という優しい声を聞く。濡れた髪をそっと撫でられるのを感じたのが最後だった。エマの意識はぷつりと途切れた。


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