荒野の集落

 交易路とは名ばかりの、終わりの見えない荒れた灰色の大地を、黒いテロンにまたがった四つの影が砂埃を巻き上げて駆けてゆく。昼間の空はいつもと変わらず、のっぺりとした青い表情を晒している。


 太古に大空を飛ぶことをやめて、二足歩行に進化を遂げた大型の黒い鳥であるテロンは、性格が温厚で頭も良い上に飼い慣らしやすいため、遠出をする際の移動手段としてラトカルトの人々から重宝されていた。


「ラナク! ラナクッ!」


 先頭を走るラナクに己のテロンを寄せてきたガルが叫ぶ。


「テメェ、なんであの陰気な野郎を引き入れやがった⁉︎」


 ラナクは左隣でがなり立てるガルを一瞥いちべつすると、顔を正面へと戻して溜め息をき、「もういいだろ? さっきも町を出る前に説明したじゃないか」とうんざりした様子で言った。


「ふざけろッ! 説明したからなんだってんだ。俺はアイツの同行を認めちゃいねぇ」


 そう吐き捨てるように言ったガルは、左の肩越しに背後を振り返り、後方のだいぶ離れた位置を走るゾノフを憤怒ふんぬの形相で睨みつけた。


「ガルが認めなくても、司教様が認めたことじゃないか。それに、魔物が複数で現れたら一人じゃ手に負えないだろ?」


「あぁ? おいラナク、テメェ舐めてんのか? 俺が旅商人ごときに遅れを取るかよ。複数の相手と戦う訓練なんざ腐るほどしてる。だいたい、あんなぼうっとした木偶でくみたいな奴に、なにができるってんだ」


「俺に訊くなよ」


「クソッ! 魔物も現れねぇし、これじゃ憂さ晴らしもできねぇ!」


 ガルが悪態を吐いた直後、ラナクの右後方から追い上げてきたシャンティが「ねぇ、ラナク」と声を掛けてきた。生成きなりのブラウスは着ているが、普段のようなワンピースやスカートではなく、移動に適した亜麻色のゆったりとしたズボンを履いている。


「そろそろどこかで休まない? 出発してからずっと走っているし、きっとこの子たちも疲れてる」


 そう言ってシャンティは、羽が退化して黒い皮膚が剥き出しとなっているテロンの首筋をそっと撫でた。


 ラナクは「わかった」と答えると地平線の広がる前方へと目を凝らし、休憩のできそうな草木の繁った場所を探して右から左へと視線を走らせた。


 進行方向の遥か彼方かなたに、首都エレムネスを象徴する極めて巨大な塔、ダジレオが霞んで見えている。ニルベルの塔と比べて数倍の幅があるものの、その先端はやはり空へと吸い込まれるように消えており、果たしてどこまで続いているのか判然としない。


「ラナク、見て!」


 シャンティの声にラナクが右へと顔を向ける。わずか後方を走る彼女が「あのあたり、地平線すれすれに黒っぽい影が少し見えない?」と左手だけで手綱を握りつつ、右手で己の真横の地平を指差す。


 こんもりとした陰影が地面から顔を出しているのを確認したラナクは、「水場があるのかもしれない。行ってみよう」と言うと自分の左側を走るガルのほうを向き、「ガル、休憩にしよう」と声を掛け「ゾノフにも伝えてきてくれないか」と頼んだ。


 するとガルは「俺はおまえの召使いじゃねぇ。自分で行け」と感情の籠らない声で答えた。


 半ば予想していた通りの返事を受け、ラナクは再び大きく溜め息を吐くなり「じゃあ伝えてくるから、シャンティを追って先に行っててくれ」と言い、テロンの速度を落としてゾノフのいる左後方へと進路を変えた。


「ゾノフ! 少し休んで、え?」


 他の二人の行動を察知したのか、ラナクが声を掛けるよりも早く、ゾノフはすでに進路を変えて遠くの陰影へと向かってテロンを走らせているところだった。


 テロンを止めたラナクは、小さくなっていくゾノフの背中を見つめながら、「俺だってあいつのこと得意じゃないんだよ」と三度目の溜め息を吐き出して項垂うなだれると、すぐ顔を上げて空を仰ぐなり「あああぁッ!」と叫び声を上げ、少しすると手綱を握り直して皆の後を追いはじめた。




「ラナクルよ。おまえたちに渡せる刀剣を一振りだけだ。ニルベルの塔の力が不安定な今、いつ魔物が町の中へ侵攻してくるやもしれぬ。我々の持てる武器はわずか十本の刀剣のみ。あれらは有事に備え、町に残しておく必要があることを理解してくれ」


 顔を覆う黒い布の下から司祭が重々しい声で言うと、ガルが「それには及びません」と朗々とした声を謁見えっけんの間に響かせた。


「どういう意味だ、ガルバリオよ。武器がなくては魔物に遭遇した時、皆を守れないではないか」


「いえ、そうではありません」とガルは顔を上げ、「我がレイネル家では先祖である英雄ユーハリヌスから、とある業物わざものの刀剣を代々受け継いできているのです」と口元に笑みをたたえて言った。


「聖剣ダマスカスか。数年前、賊に入られて盗まれたのではなかったか?」


「あれは聖剣を狙って家に侵入しようとする賊が後を絶たず、そのあまりの多さに頭を抱えていた祖父が『盗まれたことにして人目から隠してしまおう』と考えた流言です」


「では、聖剣を持ってゆくのか?」


「なにも問題はありません。父亡き今、レイネル家の現当主であるわたくしは、聖剣の正統な継承者です」


 ガルの主張に対し司祭は返事をせず、もう用は済んだとばかりに元いた壁際へ戻ろうときびすを返した。


「あの、司教様、司祭様」とラナクが遠慮がちに声を上げた。


「ラナクルッ! 求められもせず、おまえから司教様に話し掛けるとは何事かッ! 無礼であるぞッ!」


 大声で叱責する司祭を「よい」とたしなめた司教は、「言ってみなさい、ラナクルよ」と先を促した。


「ありがとうございます、司教様。その、ですね。可能であれば、従者をもう一人連れて行きたいのですが」


「誰かね」


「ゾノフ……ゾノフという旅商人を」


 司教は黙したまま司祭の並ぶ壁際へと視線を投げた。


「数日前、イデルを見つけたと言って彼の遺体を引き摺って現れた、背の高い異国の男にございます」


 先ほどと同じ男と思われる、くぐもった声の司祭が補足した。


「なにゆえ、あの男を連れてゆく」


「はい。ゾノフは旅商人ということで各地への旅に慣れており、道中なにかと僕たちの助けになってくれるのではないかと思いまして」


 司教は再び司祭たちへと視線を投げ、誰からも異論がないのを確認すると「よろしい。その者の同行を許す」とゾノフがラナクたちの一行に加わることを許可した。




 遠くから見えた陰影は水場を備えた潅木の繁る広い草地で、テロンの手綱を樹木の枝に繋いだラナクたち四人は、それぞれが思い思いの場所へと散って身体を休めていた。


 水場で顔の砂埃を洗い落としたラナクは、ゴツゴツとした灰色の岩場に腰掛けるガルへと背後から近づき、「ニルベルの塔から離れたせいで、少し肌寒くなってきたな」と声を掛けた。


 ガルは彼方にそびえるダジレオを眺めながら、「俺にはよぉ、ずっと昔から腑に落ちねぇことがあってよぉ」と言い、「俺たちの住んでいるこの世界が、あそこに建っているような塔の中にあるって話は、一体どこの誰が考えた冗談なんだ?」とさぞ馬鹿げたことのように言った。


 ラナクはガルから少し離れた岩に腰を下ろすと、「『始まりの書』の冒頭にはこう書かれている」と言葉を切り、「古い世界が滅び、新しい世界は六つの塔の中に築かれた……知ってるだろ?」と訊ねた。


「誰が書いたかもわからねぇ、そんなカビ臭ぇもんを信じるほうがどうかしてるぜ」


「でも、人々が知る最初の真理だって言われているし、それをわざわざ疑う人間なんて」


「じゃあ訊くけどよぉ。これが塔の中だって言うなら、壁や天井はどこにあって外へはどうやって出るんだ? なぜこんなに明るい?」


「え?」


「えっ? じゃねぇよ。ニルベルの塔だって頂上が見えないほどの超巨大建築物だろうが。あれの中でさえ松明の火で一部を照らすのが限界だ。それなのに、見ろ。もしこれが塔の中だとして、それでどうやってこの広大な空間をこうも明るく保っていられるんだ? 松明を掛けておく壁だって見当たらねぇのによぉ」


「そんな……だって」と言い淀んだラナクは、「世界は六つの塔の中に築かれていて、それで、それが当たり前だから……」と次第に尻窄しりすぼみになり、ガルへ返すべき最適な解を見つけられずに狼狽した。


「空の色が変わるのだって意味がわからねぇ」


「それは、夜になると暗くなるのが」


「そうじゃねぇ。それはただの理屈だろうが。空の色が変わる仕組みを訊いてんだよ。なぜ時が経つと色が変わるんだ? なんの意味がある?」


 朝になれば明るい青色となり、夜になれば暗い黒色となるのが空である。そういうものなのだと思い込んでいたラナクは、ガルに指摘されたことによって、なにやら触れてはいけない秘密に触れたような奇妙な感覚に陥っていた。


「模倣だ」


 聴こえてきた低くて太い声にラナクだけが背後を振り向く。いつの間に現れたのか、フードを目深に被ったゾノフが、近くにある樹木に背中を凭せ掛けて立っていた。


 ガルは「模倣ぉ?」と鼻で笑い、左の肩越しに背後を振り返ると「俺たちは空の話をしてんだ。人じゃねぇ。それとも、空が誰かの真似でもしてるってのかよ」とゾノフへ視線を向けた。


「空のだ」


「あぁ⁉︎ わけわかんねぇことほざいてんじゃねぇぞッ!」


 そう言ってガルは怒りをあらわに立ち上がり、身体ごと向きを変えてゾノフを睨みつけた。釣られて立ち上がったラナクが「やめろ」と肩に手をかけたのを、すぐさまガルが「触るなッ!」と払いけた。


 ゾノフはガルには取り合わず、「いつまで休んでいるつもりだ。そろそろ行くぞ」とだけ言うと、身をひるがえしてテロンのいるほうへと歩き去った。




「冗談じゃない。なぜ俺が」


 人払いがされた謁見の間に呼び出され、ラトカルトの司教からラナクたちの護衛を兼ねたエレムネスまでの同行を頼まれたゾノフは、一考する素振そぶりすらも見せず即座に申し出を断わった。


「まぁ、待て。この町の者ではないそなたに対し、我々がなんの強制力も持っていないのは承知している」


「ならば、話は終わりだ」と踵を返そうとするゾノフを、司教が「そうくな。では、褒賞のついた依頼であればどうだ?」と引き止める。


 身体を反転させかけていたゾノフは正面の司教に向き直り、「こんなさびれた辺境の町などに、なにが出せる」と言い放った。


「これを持て」


 ゾノフは司教が懐から取り出した物体に目を細め、無遠慮に玉座へと近づいて直接それを受け取った。硬貨をふた回りほど大きくしたような円形の金属板の両面に、文字とも紋様とも取れる象形がそれぞれ描かれている。


 金属板の両面を確認したゾノフが「どこかの通貨か?」と訊ね、「金などいらん」と投げ捨てようとするのを、「塔の統治者に会いたいのだろう」と司教が口を挟んで阻止した。


「マナクワナのことか」


「他の塔のことはわからんのでな」


「エレムネスの誰にこいつを見せればいい?」


「デン教の総本山にいるリバテラという僧を訪ねよ」と言って司教は言葉を切り、「どうだ、頼まれてくれるか?」と再度ゾノフに訊ねた。


 ゾノフはフードで覆われた頭をわずかに上げ、突然「かなめ退紅たいこうの髪の女か」と脈絡のないことを口にした。


 司教は眼光鋭く「お互い余計な詮索は無しにしよう」と言い、「引き受けてくれるだろう?」と同意を求めた。


「行きだけだ。帰りはしらん」


でよいのだ」


 何事かを思案するように立ち尽くしていたゾノフは、しばらくして「あんたの名は?」と司教に訊ねた。


「デシグリ・ララカンワ」


 ゾノフは名前を耳にすると司教に背中を向け、「引き受けよう」とだけ言い残して謁見の間を去った。




 薄水色から茜色へと変わりつつある空の下を、ラナクたちの乗る四匹のテロンがダジレオを目指して走ってゆく姿がある。休憩前と違っているのは空と大地の色だけで、雑草一本生えていない乾いた土壌と、生物の存在を感じさせない茫漠たる景観にほとんど変化はない。


「空が暗くなってきたわね」


 ラナクと先頭を並走するシャンティがそう言い、「町なんて贅沢は言わないから、せめて集落でもないかしら」と不安そうに周囲を見渡した。


「どうかな。ラトカルトやエレムネスみたいに、動力供給源が塔のような高い建築物の集落なら見つけやすいけど、ここら一帯にはそういったものは見当たらないし」


「ねぇ、ゾノフに訊いてみない? 彼ならこの交易路を何度も通っているはずでしょ?」


 周りを見て何もないことを確認したラナクは、いくら旅商人といえども目安になるものがなければ道などわかるわけがないだろうと、喉元まで出掛かった言葉をどうにか飲み込んで「それは……どうかな?」と自信なさげに答えた。


「私、ちょっと訊いてくる」


「いや、でも、意味な」


 ラナクが言い終わるのを待たず、シャンティは手綱を引いてテロンを止めるなり、手際よく進行方向を変えてゾノフのほうへ向かって走っていった。


 どうして皆こうも纏まりがないのかと、溜め息を吐いて頭を左右に振ったラナクは、先ほどまでシャンティがいた辺りの地平の彼方に、火明かりのような橙色の点がいくつも浮かんでいることに気がついた。


 すでに空の大部分は群青から黒に近い色に染まっており、焼けるような茜色は四方の地平線付近におりのごとく残っているだけで、人々の活動を制限する暗闇がすぐそこまで迫っていることを知らせていた。


 合図を送りながら大声で皆に呼び掛けようと、ラナクは左手を上げて己の左後方を振り返ったが、三人の距離があまりにも離れているのを目にするや、叫んだところで聴こえないだろうと判断し、彼らにじかに伝えにゆくためテロンの向きを変えた。




 ラナクが遠目に見つけた明かりは、十軒ほどの簡易な木造の家屋が寄り添うように建つ集落のものだった。夜のとばりが下りてしまっているせいか外に人の姿はないものの、家々の窓からは空腹を刺激する夕餉ゆうげの香りと揺らめく炎の暖かい色が漏れている。


 一行はテロンを集落を囲む木柵に繫ぎ止めた後、食事と一晩の寝床を求め、目についた適当な家へと近づきその戸を叩いた。


「ごめんください。旅の者ですが、今夜一晩だけ泊めてもらえないでしょうか?」


 ラナクが声を掛けるとほどなくして板戸が内側へと開き、側頭部だけに白髪混じりの黒髪を残した小柄な老爺ろうやが顔を覗かせた。料理の匂いなのか、戸の隙間から熟した果物のような甘ったるい香りが漂い出している。


「こんばんは。あの、僕たち、エレムネスを目指して旅をしてまして、その、できたら今夜一晩、寝場所をお借りしたいのですが」


 老爺はラナクのぎこちない話し方を気に留めた様子もなく、「ええ、構いませんよ」と人の良さそうな顔で言い、「ささ、どうぞお入んなさい」と四人を家の中へと招じ入れた。


 一行が屋内に足を踏み入れるなり、「あら、あなた。お客さん?」と左奥のかまどの前に立つ初老の女性が振り向いた。老爺の伴侶にしては若く、ずいぶんと年の差があるように見える。


「ああ。こちらは旅の方たちで寝所ねどこに困っているそうだ」


 女性は「それならうちに」と言葉を切り、「いち、にぃ……さん」とラナクたちを数え「全員は無理ねぇ」と言い、「ジレヂェンさんとこにもお願いしてみましょうか?」と老爺に訊ねた。


「そうだな。それじゃあ私が後で」


「食事はなんだ?」とゾノフが唐突に口を開いた。その言葉に釣られたのか、ラナクたちの目が一斉に部屋の中央に置かれたテーブルへと注がれる。卓上には二人分の食器が用意されてはいるが、料理の類はまだ並んでいない。


「ちょ、ゾノフ」


 思わずテーブルを見てしまった己のいやしさを誤魔化すかのように、あたふたとラナクが声を上げたのに続き、ガルの「ハッ! 賤しい野郎だな」という揶揄が飛んだ。


「腹が空いておいでか」と笑顔を見せた老爺は、すぐに申し訳なさそうな表情になり「この辺りは土地が痩せていて作物どころか雑草すらも育ちませんので、たいしたものはご用意できませんが」と説明した。


「なんだと訊いている」


 ゾノフの威圧的とも取れる低い声が響き、人々の間に緊張を帯びた沈黙が落ちる。


「はぁ……メクネンの実を入れたピノノーの乳粥と、キュキュを挽いて作ったパンですが」


 老爺の言葉を聴くや否や、ゾノフは何も言わずに板戸の隙間から外へと出ていってしまった。


「え? ちょっと、ゾノフ!」とラナクが振り返った時にはすでに遅く、代わりにガルが「放っておけよ」となげやりな調子で返し、「ご老人。あの男のことならお構いなく」と場を取り繕った。


「いや、しかし」


「問題ありません。あれはただの旅商人。外で寝るのがしょうに合っているのでしょう。それより、ご厚意に甘えさせてもらって、食事をいただいてもいいですか? どうも昼に食べた分では足りなかったようで、腹が減り過ぎて今にも倒れそうなんです」


 困惑する老爺を押し切る形でそう言ったガルは、「そこ、いいですか?」とテーブルに二脚ある椅子の一つを指差し、我が物顔でずかずかと歩み寄ると返事も待たずにどっかと腰を下ろした。


「ところで、ご老人。かの大戦で武勲を立てた、英雄ユーハリヌス・レイネルはご存知か?」


「ユー、ユー……いえ、恥ずかしながら、私は無学なものでして」


「なにも恥ずべきことではありません。実は、なにを隠」と饒舌になりつつあったガルはふと戸口を振り返り、「おまえら、いつまで突っ立ってんだぁ?」とラナクとシャンティへ声を掛け、続いて反対側の部屋の奥へと顔を向けると「ご婦人、食事はまだですか?」と臆面もなく料理の催促をした。


 ガルの傲慢な態度にラナクとシャンティは顔を見合わせると、二人ともうんざりしたような表情でそれぞれに溜め息を吐き出した。




「……ク……ラナク」


 荷物を枕代わりに、土間のすみで身体を丸めて微睡まどろんでいたラナクは、女性の声で繰り返し名前を囁かれていることに気づいて薄目を開けた。


「ラナク。起きて、ラナク」


 明かりがないせいで姿が見えないものの、耳慣れた声から人物を特定したラナクは、まなここすりながら「シャンティ?」と言って半身を起こすと、「どうしてここに?」と別な家屋へ向かったはずの彼女に訊ねた。


「シッ! 静かに」


 言われてラナクは右手で口元を押さえ、「どうしてここに?」と今度は囁き声で同じ質問を繰り返した。


「そんなこと、どうだっていいじゃない」


 ラナクはシャンティの湿った吐息が口元を覆う手の甲にかかったように感じ、もしや己の目と鼻の先に彼女がいるのではないかと考え、何も見えない正面の暗闇を凝視して胸を高鳴らせた。


「ねぇ、ラナク。私たち、もう成人なのよ?」


 シャンティの手が左肩に触れた感触に、ラナクは全身を巡る血流が急激に加速したような、その反動で身体が内側から揺さぶられているような、かつてないほどの気分の高揚を感じていた。


「なん……成」とラナクは言葉に詰まって唾を飲み込み、「成人の儀を終えたんだから、そりゃあ、まぁ、成人……だよな」と歯切れ悪くズレた返事をした。


「そうじゃなくて」


 シャンティの声と衣擦きぬずれの音がし、ふわりとした軽い物が顔面をかすめていった感触を覚えたラナクは、今度は腰の辺りに柔らかな重みを感じて身をけ反らせた。


「ラナク……私と、夫婦めおとちぎりを」


 思いもよらぬ台詞せりふにラナクが目を見開き、もしや夢でも見ているのではないかと疑った刹那、急に周囲の壁や天井が紫色の炎に包まれてシャンティの姿が照らし出された。


 火事が起こっているのだと頭では理解しつつも、まずは何からするべきかと混乱していたラナクは、自分に跨がっている眼前のシャンティが、突如として周りと同じ紫色の炎を上げて燃えはじめたのを、悪い夢でも見ているかのような非現実的な気分で眺めていた。

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