旅する人々

 紫の炎に包まれ、両腕を振り上げては苦しそうに身悶えるシャンティを、起こした上半身に熱を感じつつも呆然と眺めていたラナクは、外から突然上がった獣のような甲高い咆哮を聴いて身体を大きく震わせた。


 するとシャンティがはずみで土間の上へと転がり、奇声を上げながら出鱈目でたらめに手足をバタつかせ出した。


 ラナクは燃える家屋の壁を視界の端に捉え、逃げろと命じる己の本能に全身を揺さぶられながらも、シャンティを見殺しにはできないという理性との葛藤に身動きできずにいた。


「ラナーック!」


 屋外からと思われる、眼前で燃えているはずのシャンティの呼び声にラナクが目を見開く。


「ラナーック! 逃げてぇッ!」


 事態が飲み込めないながらも、再び聴こえたシャンティの声で咄嗟に頭上を仰いだラナクは、天井の板が崩れかかっているのを目にするや枕代わりにしていた荷物を引っ掴み、戸口へと向かって突進して板戸へ体当たりを食らわせた。


 見た目よりも造りが頑丈なのか、板戸に跳ね返されたラナクは地面へと転がり「ってぇッ!」と悪態をいた。


「逆だッ! どいてろッ!」というガルの怒鳴り声が響き、一呼吸置いて勢いよく板戸が内側へと開かれ、「さっさと出ろッ!」という声が戸口の外から飛んできた。


 ラナクが起き上がろうとしたところへ崩れた天井の一部が落下し、そばにあった彼の荷物を丸ごと押し潰して炎を上げはじめた。


 混乱する頭で潰れた荷物を眺めながら、何か大事な物は入っていなかったかと思案するラナクの耳に、「ぼうっとしてんじゃねぇッ! 死にてぇのかッ!」というガルの怒声が突き刺さる。


 ハッと我に返ったラナクは慌てて立ち上がり、背後を振り返って燃え続けるシャンティを名残惜しそうに見つめた後、迷いを断ち切るように下唇を噛み締めて戸口へと向かって駆け出した。




 外へと転がり出て地面に手足をついたラナクは、「大丈夫⁉︎」というシャンティの心配そうな声を耳にして四つん這いのまま顔を上げるや、紫色の炎に照らされて薄紅色に染まる彼女の姿を見て目を見開いた。


「なん、なにが……どういう?」


 ラナクは意味のないことをしどろもどろに口にすると、屋内で煙を吸ったのか下を向いて盛大に咳き込んだ。


 炎を上げて燃えているのは一軒だけでなく、集落すべての家々に火の手が回っており、照らし出された辺り一帯が気味の悪い濃い紫色に染まっている。近くにゾノフの姿も確認できるが、彼を含めてもラナクたち四人以外に人の姿は見当たらない。


「相変わらず鈍臭どんくせぇ野郎だな。この前も言っただろうが。自分の身ぐらい自分で守れってよぉ」


 ラナクへ向けられた台詞せりふに、近くに立つゾノフが「フッ」と鼻で笑い、それを耳聡みみざとく聞きつけたガルが「なにがおかしい」と食って掛かった。


「そもそも、テメェはどこでなにしてやがったんだ、あぁ⁉︎」


 噛みつくガルを引き離すように、ラナクが立ち上がりつつ「ちょ、一体なにがどうなってるんだ?」と二人のあいだに割って入ると、ゾノフが「幻術を使う妖魔だ」とだけボソッと言った。


「幻術……って、これがまぼろし? だって、扉にぶつかったし、それにシャ」とラナクは言葉を呑み、「食事だって味が」と言い掛けたのをゾノフが「ピノノーの乳粥」と遮った。


 今度は「それがなんだって言うんだよ、ああ⁉︎」とガルが声を上げたのを、ゾノフが「どこにピノノーがいる」と指摘した。


「あぁ? んなもん、その辺の牧草地にいるに決ま」


「雑草すらも育たない土地でか?」


 眉間に縦皺を刻んだガルが、「そりゃどういう意味だ?」とゾノフに詰め寄る。


「爺さんの話を聴いてなかったのか。こんな痩せた土地で家畜など飼えない」


「近隣の集落から手に入れたものかもしれねぇだろうが」


「それに匂いだ」


「あぁ⁉︎」


「あの甘い匂いは妖魔が幻術を使う際に発するものだ」


「だから、それがなんだって」とさらに声を荒げるガルを、「もう一つ」とゾノフが再び遮った。


「近くで無数の人間の白骨も見つけた。行商の連中が餌食えじきになったんだろう」


 話は終わったとばかりに、身をひるがえしてテロンのほうへと歩いてゆくゾノフの背中へ、ガルが「おい、ちょっと待てよ! 幻だってぇなら食感や質感はどう説するんだッ!」とえた。


 ゾノフは足を止めると、フードを被った頭をわずかに傾けて「実際にあるものを別なものに見立てたに過ぎない」と言い、「よくある下級の幻術だ」と無感情に続けた。


「テメェ、それを知っててなぜ言わねぇ⁉︎」


 先ほどと同様、嘲笑あざわらうかのように鼻から息を吐き出したゾノフは、「自分の身ぐらい自分で守れ」と吐き捨てるように言ってその場から歩き去った。


 肩を震わせているガルの背中へ、ラナクが「ガル、おまえはなんでそうイチイチ」と声を掛けたのに対し、ガルの口からは「うるせぇッ!」といきどおりに満ちた言葉が吐き出された。


 これ以上のガルへの刺激は控えておこうと判断したラナクが、シャンティへと向き直って「大丈夫か?」と今さらながらに声を掛けると、彼女が「私は大丈……」まで言って突然プッと噴き出した。


「は? え、なに?」


「顔ッ!」とラナクの顔面を指差したシャンティは、「すすだらけで真っ黒」と言うなり声を上げて笑いはじめた。




 夜間の移動を避け、集落のいつまでも消えない紫の炎を背に、テロンのそばで各々の時間を過ごしたラナクたち一行は、空の色が群青から徐々に薄まって水色へと変わりはじめた頃に出発した。


 どういう風の吹きまわしか急に音頭を取りはじめたゾノフが先頭を走り、追随ついずいしてラナクとシャンティが並走し、殿しんがりを不服そうな表情のガルがついてゆく陣形で、四匹の黒いテロンが荒野を駆けてゆく。


「昨夜、ゾノフから聞いたんだけど」


 話し掛けてきたシャンティを気まずい思いで見ることができず、ラナクは正面を向いたまま「え? ああ、ゾノフがなに?」とうわの空で答えた。


 昨夜、自分に迫ってきたシャンティが幻だったのだと判明した今でさえ、どうしてあんなものが現れたのかとラナクは理解できずにいた。


「妖魔の使う幻術って、かけられる人の潜在意識や欲望が幻となって反映されるんだって」


「はぁッ⁉︎」


「ちょ、なに? そんなに驚くこと?」


「えあ、いやッ!」と取り乱したラナクが、「まるで本物みたいだったから、その、凄……恐ろしい能力だなって」と無理やり取り繕ったのを、シャンティが「ふぅん」と鼻を鳴らし「裸の女の子に迫られる幻でも見てたんじゃないの?」と揶揄からかった。


「なッ⁉︎ は、裸じゃなかったしッ!」


 必死に否定するラナクを見て、シャンティは「なに焦ってるの? キッモ」と言うと、さも楽しそうにころころと笑い声を上げた。


「キモくねぇしッ! てか、キモイって言うなッ!」


 一頻ひとしきり笑ったシャンティは、「ところでさ」と仕切り直すように言い、「その幻術を使った妖魔なんだけど、ゾノフが一人でやっつけたって」と秘密でもない秘密を打ち明けるようにわざとらしく言った。


「一人でって、でも幻術を使うような妖魔って強力な奴なんじゃ」


「そこよッ!」とシャンティは、こんなに面白いことはないと言わんばかりに勢い込んで指摘した。


「こう言っちゃなんだけど、旅商人って戦うことに特化した職業じゃないのに、そんな強力な妖魔をやっつけちゃうなんて不思議じゃない?」


 ラナクはうなずきかけて考え直し、「でも、俺たちゾノフのことをほとんど知らないじゃないか」と言い、「正直、俺は旅商人ってことしか知らないっていうか……」と言葉尻を濁した。


「そうね。それに、訊いたところで必ず答えてくれるわけでもないし」とシャンティが言葉を切り、「ねぇ、どうして……じゃなくて、彼をこの旅に引き入れた本当の目的はなに?」とラナクの思惑を見透かしたように言った。


 目を細めてしばらく正面を睨んでいたラナクは、やがて観念したように溜め息を吐くと「この旅の助けになってくれるだろうってのも本音だけど」とボソボソ言い、長い間を置いてから「訊きたいことがあるんだ。たくさん」と白状した。


「本命はスノーのことでしょ」


 即答したシャンティの声に振り向いたラナクは、彼女の顔を驚いたように見つめ返した。


「なんて顔してんのよ。幼馴染みで十年以上もの付き合いになるんだから、あんたがなにを考えてるのかの見当くらい大体つくわよ」


「見当つくのッ⁉︎ あッ、いやぁ、その……見当、つくのかよ」


「なんなのさっきから?」とシャンティは困ったような顔で笑うと、すぐに真剣な表情を作って「それに」と言い、「私も、スノーはまだ死んでないって信じてるから」と力を込めて続けた。




 妖魔の幻術におとしいれられはしたが、それ以降は魔物や凶暴な動物との遭遇もなく、休息の回数も減らして一日を通して走り続けたラナクたち一行は、初日よりも距離を稼いで二度目の夜を迎えようとしていた。


「今夜は野宿になりそうだな」


 前日と変わらぬ不毛な景色を眺めながらラナクがそう独りちたのを、彼の左後方から追い上げてきたガルが聴いており、「今夜、だろうが」と苛立たしげに訂正した。


「ガル、もういい加減にしろよな」


「あぁ?」


とぼけんなよ。どうしてそうゾノフを目のかたきにするんだ」


「してねぇよ」


「じゃあ、なにが気に入らないんだっての」


「あの野郎の態度だッ!」


 ラナクの訊き方が良かったのか悪かったのか、ガルは普段から見せているものよりも、より一層の激しさを纏った感情を噴出させた。


「最初に会った時に嫌な野郎だと肌で感じた。わかるか? 好き嫌いなんて生易しいもんじゃねぇ。禍々まがまがしさだ。あの他人を見透かし、見下したような言動ッ! なにかを隠しているようなところも気に食わねぇッ!」


「なら、関わらなきゃいいだろ」


「視界に入ってくる時点で虫唾むしずが走るんだよッ! そもそもテメェが」


「またそれかよ」とラナクはうんざりしたように言って溜め息を吐き、少しでもガルの気をゾノフかららせようとして、「そういや、ガルはどんな幻を見せられたんだ?」と脈絡なく話題を変えた。


 するとガルは急に黙り込み、しばらくしてから「おまえには関係ねぇだろ」と、風の音に消し飛ばされそうな弱々しい声で答えた。


 薄闇が降りておぼろげになりはじめた正面の地平線を、まずいことを訊いてしまったかと居たたまれない気持ちで眺めていたラナクは、「そんなことよりよぉ」と普段の粗野な口調に戻ったガルの声で己の左隣を振り返った。


「忘れてねぇだろうな」


「なにを?」


「三本勝負に決まってんだろ」


 ラナクは正面へと向き直り、すぐに慌てて再びガルへと顔を向けると、「あれは流れたんじゃないのか?」と驚いたように訊ねた。


「そんなこと誰が言った? 流れたのは儀式だけで勝負は続行だ。当然、シャンティとの約束も生きている」


「そうは言っても……一体なにをやるつもりなんだ? また剣を使うようなヤツはなしだぞ」


「あぁ? なんでだよ」


「当たり前だろッ! おまえに有利過ぎる。俺は剣なんて、ほとんど持ったことすらもないんだ」


「それはおまえが」


「だいたい卑怯だろ」とラナクがガルの言葉を遮ってピシャリと言い、「自分の得意分野で弱者を負かすのがそんなにほまれ高いことか? 英雄の末裔が聞いて呆れるよ」と挑発するような口調で続けて正面を向いた。


 やけに静かだなとラナクが思っているところへ、ガルが「訂正しろ」という震えを帯びた声を上げ、「誰であれ、レイネル家の血統を侮辱することは許さねぇ」とはち切れんばかりの憤りを内包したような声で続けた。


 ガルの気迫に気圧けおされたラナクは、「わ、悪かったよ。謝る」ときまり悪そうに言い、「ともかく、剣術は卑……公平じゃない、と思う」と歯切れ悪くも己の主張を繰り返し伝えた。


 いつまで経ってもガルからの返答がなく、会話は終わったのかとラナクが思いはじめたあたりで、「わかった。剣以外で勝負してやる」と静かでありながらも凄みを感じさせる声がした。


 その声にラナクが左へ顔を向けると、すでにガルは後方のだいぶ離れたところへと走り去った後だった。




 空が完全な漆黒へと染まる前に、小規模ではあるものの草木の生えた土地を運よく見つけたラナクたち一行は、そこで野宿をするための準備に取り掛かっていた。


「クソッ! めしはまたこの岩みてぇに硬ぇパンだけかよ」


 ラナクが火をおこそうと奮闘し、シャンティが広げた布を木々の間に吊るして簡易的な寝所を作ろうとするなか、樹木の根元に腰を下ろしてくつろいでいたガルは、ラトカルトを出る時に持ったケレノワ入りのパンを片手に、忌々しそうに悪態を吐くや雑草の上にゴロンと横になった。


「おい、ガル! おまえもなにか手伝えよ」


 なかなか火のつかない小枝に苛立ったラナクが指摘しても、ガルは目を閉じたまま「あのデカブツにでも言え」と興味なさそうに答えただけで、誰かを手伝おうとする素振そぶりすら見せなかった。


 言われたラナクが立ち上がり、ゾノフの姿を探して周囲を見回す。


「ガル。ちょっとゾノフ探してくるから、代わりに火ぃつけといてくれよ」


 そう言って草地から出ていこうとするラナクの背中に、身を起こしたガルが「はぁ⁉︎ それじゃ意味が、オイッ!」と声を張り上げた。


 ガルを無視して草地を出たラナクは、背の高い薄い岩が何枚も無作為に立ち並んでいる場所に差し掛かり、それらの一つを通り過ぎようとして「どこへ行く」と背後から声を掛けられて足を止めた。


 ラナクが振り返るとゾノフが岩の一枚に寄り掛かっている姿があった。辺りが暗くなりはじめているだけでなく、もともと濃褐色の襤褸ぼろ布を纏っているため、その低く太い声がしなければ彼がいると判じるのは難しい。


「うろうろするな」


「ゾノフ。ちょっといいか」と声を掛けたラナクは、「訊きたいことがあるんだ」と言って相手の反応を待ち、無言が肯定なのか否定なのか判然としないまま「その」

と続け、「スノ」と発声したのを踏みとどまり「せか……世界を憂ううた、っていうのを聞いたことは?」と本来しようとしていた質問をはぐらかした。


「それがなんだ」


 ラナクは無視されなかったことに安堵しつつ、「それが、世界について歌われているらしいんだけど、出てくる単語が妙なものばかりで」と言葉を続け、ゾノフの反応を窺いながら「定かじゃないけど……ウラ、ウラーバラーとか、ボシンボシーとか」と自信なさげに呟いた。


「知ってどうする」


「どうするって……ただの好奇心だから、別に」


「時を無駄にするな」


「なッ、無駄は言い過ぎだろ。気になったことを調べてなにが悪いんだよ」


「今」とゾノフは喝を入れるように言い、「生きている今この時を無駄にするな」と最前と同じことを繰り返して言った。


 その言葉で心を見透かされた気がしたラナクは、ほんのわずかな時間だけ逡巡した後、やがて意を決したように「人を、消えた親友の手掛かりを探しているんだ」と口にした。


「四年前、ニルベルの塔が襲撃に遭った日、俺はゲヘンの広場にいた。そこでそいつとはぐれて、青いほの」とラナクは言葉を吞み、「そうしたら、そいつが、スノーが宙に浮いてて」と言い直し、「それから、飛んできた青い光がスノーを包んで……それで、それで、その光が爆発して……」と尻窄しりすぼまりになりながらも説明を続けた。


「でも俺、見たんだ! 爆発の直前、光の中から何かが飛び去るのを……だから、きっとスノーはどこかで生きていて」


「なぜ探す」


 相槌一つ打たずに黙りこくっていたゾノフが口を開いた。


「親友だって言っただろ。探すのは当たり前じゃないか!」


「当たり前? 他人を探すことに己の人生を消費することがか? 本当に生きていると思っているのか? では、なぜそいつは戻ってこない?」


 ラナクは言い返そうと息を吸い込んだものの、頭の中に何の言葉も用意されていないことに気がつき、ただ鼻の穴と肺を膨らませただけに終わった。


「戻って休め」


 会話の終わりを匂わせる言い方に、ラナクは「ちょ、待ってくれよ!」と慌てて追いすがり、すっかり闇が落ちて輪郭が曖昧となったゾノフらしき影に向かって、「あの青い炎や光は一体なんなんだ⁉︎」と抱えていた感情ごと質問をぶつけた。


「この前シャンガが吐き出したのだってそうだ! もしかして、四年前のあれはシャンガが」


「魔法だ」


 鸚鵡おうむ返しに答えそうになるのをグッとこらえたラナクは、「だって、そんな……魔法や魔術のたぐいはとっくの昔に滅んで」と言い掛け、古代魔法の影響が各地に残存しているという噂を思い出して目を見開いた。


「じゃあ、噂は本当どころか、魔法はまだ生きている技術ってことじゃないか!」


「だが、呪われた技術だ」


 ラナクは思わず「呪われた?」とゾノフの言葉を繰り返し、「ともかく、魔法についてもっと詳しく教えてくれないか?」と訊ねた。


 するとゾノフが「俺は商人だ。魔法のことは魔法屋にでも訊け」と撥ねつけるように言い、「もう休め。明日の昼にはエレムネスに着く」と砂を踏み締める音を立てて身をひるがえした。


「なんだよ、魔法屋って。俺は真剣に」


「魔導士の知り合いがいるだろう。気づいていないのか」とゾノフはラナクの言葉を遮ると、「なぜ魔物に遭遇しないのか考えてみろ」と言い残して草地とは違った方向へと歩き去った。




 夜明けとともに出発したラナクたち一行は、首都エレムネスへと近づくにつれ、そこにそびえ建つ動力供給塔であるダジレオの、常軌を遥かにいっした巨大な姿に圧倒されつつあった。


 未だ首都の入り口すらも確認できない距離だというのに、ダジレオの幅はラナクたちの視界にはすでに収まり切らないほどの長大さを誇示していた。


「ラナク。まさかおまえ、このクソデカイ塔を見ても、まだ『俺たちの世界は塔の中にある』なんてかすんじゃねぇだろうな?」


 ラナクは己の左隣にテロンを寄せてきたガルに訊ねられ、頂上どころかほんの一部しか視界に入らない前方の塔を見上げ「いや、さすがにこれはちょっと」と呟き、「でも、『始まりの書』に迷信が記されているなんてことは……」と独りちた。


「オイッ! 言っただろうがッ! そんないつ誰が書いたかもわからねぇカビ臭ぇ紙なんかよりもよぉ、もっとテメェの目ん玉ぁ信じたらどうだってよぉッ!」


「そう簡単に自分の信じているものがくつがえってたまるかッ! それに、もっとデカイ塔があるかどうかなんて、まだわからないだろ!」


「はぁ? もっとマシな負け惜しみを言ったらどうだ、ラナク」


 ガルはそう言うと高らかに笑い声を上げながら後方へと下がっていった。


 やがて、荒れた大地が赤茶けた色へと変わってくると、首都を囲む異常な高さの灰色の壁が地平に見え出した。壁面の数ヶ所からは透明な管状の構造物が地を這うように延びており、その内部では細々こまごまとした物体がうごめいているのが遠目からも確認できる。


 テロンの尻を叩き、先頭を走るゾノフの左隣まで上がったラナクは、「ゾノフ! あの透明なものはなんなんだ? 中でなにかがたくさん動いてる」と管の一つを指差して訊ねた。


「他塔への交易路だ」


「あれが? じゃあ、まさかあの動いてるもの全部が人ってことか⁉︎」


「人じゃない。見えているのは動力車だ」


「ドウリョクシャ? それはなん」


「自分で調べろ」


 ゾノフはそう言い捨てるとテロンの速度を上げてラナクのもとから去っていった。


「ねぇ」と呼び掛けられたラナクが右後方を振り返ると、長い薄紅色の髪を吹き流しのようになびかせたシャンティの、溢れる好奇心を貼りつけたような悪戯いたずらっぽい笑顔がすぐそこまで迫っていた。


「エレムネスに着いたらさ、ダジレオの司祭様たちに会いに行く前に、ちょっと付き合ってくれない?」


 シャンティの嬉しそうな表情に見惚れていたラナクは、「ねぇ、今の聴こえた?」という彼女の声で我に返り、「あッ、あぁ! 聴こえた、聴こえた!」と何度も激しく頷きながらあたふたと答えた。


「どうせ数日は滞在することになるんだし、一日くらい自由に使ったって構わないわよね?」


 ささやかな悪事への同意を求めるかのようにシャンティが言い、続けて「それから」と言葉を切ると、「ラナクに伝えたいこともあるし」と意味深長なことを口にし、「じゃあ、またあとで」と唖然とした表情のラナクを残して後方へと下がっていった。

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