(3)厄介なフェロモン体質坂下さん

 本格的な梅雨入りをする前の、晴れの日は貴重である。

 菜園には夏野菜を植えている。トマト、ナス、パプリカ、グリーンカーテンになる予定のゴーヤなど。収穫後は調理部に持っていって、一緒に料理を作るのが毎年のイベントだ。顧問以外の先生達も顔を出し、和気あいあいと食事をする。

 そのためにも沢山収穫出来るように、うどんこ病やモザイク病などの病気にかかっていないか、虫に喰われていないかチェックし、摘芯や脇芽摘みもしっかりやる必要がある。感染リスクがあるので、雨の日に脇芽を摘んだりするのはご法度である。


 図書委員の当番業務を終えてからは部活の時間だ。紺色Tシャツとジャージのズボンに着替え、麦わら帽子と園芸用ブーツを装着して庭へ向かう。北虎先輩はすでにいるようで、大きな体を屈めて作業をしている。一つ上の北虎先輩は男である。身長は百九十に近く、体つきもしっかりしており、優しい顔のガテン系男子だ。私が自然体で話せる希少な男子で、昔からの知り合いというか母方のハトコである。入部したのも北虎先輩もとい剛志兄ちゃん、略してツー君にお願いされたからもある。


「ごめんツー君、遅くなった。何が残ってる?」

「今日は結構終わったかな~。ナスのチェックお願いできる?」


 オッケー、と軍手をはめる。ナスの葉は触るとかぶれることがある。ツー君は少しでも触れると赤くかぶれるタイプで、私より症状が酷い。それでもナスを育てたいので、こうして三本仕立てにして丹精込めているのだ。支柱の誘因具合を確認し、麻紐でゆるく結ぶ。葉っぱを一枚一枚確認し、カビらしき微妙なものはとりあえず取り除いておく。


「終わったよ」

「じゃあ今日はおしまいかな。そーだ! 今日、クッキー持ってきたんだよ。昨日おかんが作り過ぎちゃって、一緒に食べようかなって。天気もいいし外で食べよう。日陰のベンチで待ってて」

「やったー! おばさんのお菓子おいしいもんなぁ」


 ツー君は足早に部室棟に戻って行った。菜園のある付近から少し離れたところに、屋根付き渡り廊下があり、ちょうど日陰になる部分にベンチがある。そこに座ると花壇と菜園を見渡せる。夏に近づくにつれ植物は成長し、もっと緑が増えていくだろう。想像すると頬がゆるむ。楽しみである。


「坂下さん、また会ったね! なに、部活? 農家の人みたいなカッコしてるー」


 ぬるっとした声に、針が刺さったような痛みをもって全身がびくっと反応した。振り返ると渡り廊下にまさかの細川君である。まだ帰ってなかったんかい。こういうときに限ってツー君がいない。

 ……ツー君がいなくなったから、頃合いを見計らって現れた?

 そう考え、ぞっとした。


「何だよビックリしちゃってさー。部活終わり? ならちょっと寄り道してこーよ」


 この、ちょっとした付きまといに対して過剰な反応だと思われるかもしれない。私自身ビビり過ぎている気もするし、もっとうまくやれないのかと思う。

 それでも怖い。へばりつくヘドロみたいなものが背後から絡めとってくるような気持ち悪さがある。きっと、本能的に警鐘を鳴らしているのだ。


「ええと、まだ部活終わってない……あ、そういえば、手を洗わなくちゃ。じゃあね」


 ベンチから腰をあげ、渡り廊下から反対側へ歩く。細川君は上履きだから、こちらには行けない――と思っていたら、上履きのまま追ってくるではないか。


「もー、待ってよ。坂下さんって、たまに俺の話聞いてなくない?」

 会話を終わらせているから、聞きたくないからである。分かれ。

「ねぇねぇ」

 無視して早歩きする。こんなに優しくしていないのに、どうして執着してくるのか不思議で震える。

 人の多いところに行こう。そうだ、グラウンドの水場にしよう。野球部やソフト部、サッカー部などは練習中のはず。


 校舎と体育館の間を抜け、グラウンドに出る。近くの外水道にはいくつも蛇口が並んでいるが、時間帯が悪いのか誰も使っていない。ツイてないけれど、絶賛部活中で人目はある。

 蛇口をひねり、手を洗う。ついてきた細川君がすぐ真横に立って私を見下ろしている。距離が近い。パーソナルスペースという言葉を知らないのかこの人は。


「やっべ、上履きのまんまここまで来ちゃったよ」

「本当だ。戻りなよ、細川君」

「坂下さんがそろそろ連絡先教えてくれたらね~?」


 細川君が身を屈めて覗き込んでくる。おかしいな、こういうことは付き合っている者同士がやることだ。じり、と一歩離れると、向こうも一歩近づいてくる。じり、じり、と繰り返して水場の縁を移動し、反対側の蛇口のところまで来ている。遊んでいるように見えるかもしれないが、私は真剣である。


「逃げてんの? おっもしろいなぁ」

 全くもって面白くない。向こうがキレたりしないように、冷静に努めて拒絶しているのに。この奇妙なしつこさには、どうすればいいのか分からない。

「っ、ほんとに、もう」


「ねぇ、坂下さんに何してるの?」


 すっ……と私と細川君の間に第三者の腕が入り込んだ。ラグビーとかサッカーの審判みたいに。落ち着きのある声音で、重量感がある。

 張りつめていた肩の力が緩んだ。


「日向かよ。別に、話してただけ。なぁ坂下さん」

 サッカー部はグラウンドの奥側で練習している。服の汚れや汗を見るに、日向君もさっきまであそこにいたはずだ。

「坂下さん、困ってるように見えたけど?」

 細川君が顔をしかめる。思い通りになると思っている人間の、想定が外れたときの苛立った表情だ。「そんなことな――」


「ね?」


 細川君が言おうとした言葉を、日向君は一言でふさいだ。こんなに怖い“ね?”を初めて聞いた。日向君がようやく私を見て、促す。私はしっかり頷いた。流されるべきである。サッカー部は誰も休憩に入っていない。多分、私に助け船を出すために抜けて来てくれたのだ。


「ほら。僕の彼女、怖がらせないでよ」

「……は?」


 思わず私も言いそうになって舌の上まで出ていた言葉をごっくんと飲み下す。日向君はさらりと爆弾を落としながら、爽やかに笑う。とん、と細川君の肩を叩いた。


「秘密にしてたんだけど……ね」

 首を横に傾けながら念を押している。日向君は顔がいいのでそういう仕草をしても似合うのだ。

「……あっそ」

 細川君はそれだけ言って、帰って行った。一瞬、ちらりと見られた気もしたが、それだけだ。あっけない終わりに、ぽかんとする。

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