第9話


     ◇


 それにしてもあっけない。僕は満腹になったくらいで、洗濯物も、お風呂の掃除も、着替えもしていない。僕にだけ訪れる暗闇であったならば幸いだったのに、不幸なことにそのような気配は感じていない。

 僕の中の“おわりの能力者”は、根深く鼓動し、伝えてくる。

 立ち上がる。地面はしっかりとしていたものの、いささか冷たい。薄い靴下のまま冬の土の上に立っているよう。朧気なのに確かな足元が不思議で、真っ暗なのに僕だけは理解する。

 その場を動くことを怖がって、僕は周囲を見渡していた。暗闇は、目が慣れてくればある程度の物や形くらいを認識することは出来ただろう。だがそれも、わずかながらに光があれば、という話である。どうやら何もない。僕の目では捉えられない。

 前か後か、右か左か。地に足が付いていることだけが幸いだ。進む勇気がなかった。見えないことが恐怖だった。目の前には奈落があるやもしれない、高い壁に阻まれ思い切りぶつかるかもしれない。

 僕は臆病者だ。

「ああ、結局神さまはいなかったのか」

 出会えるとも思ってはいなかったものの、ただ一人残ってしまった僕にすら無関心。僕はこれからずっと、この孤独とどうしたらよいのだろう?

 それともこれは、否応なく彼女を傷付けた罰だとでもいうのか。

「罰ならば受け入れられようものの、審判もなにもありませんね」

 進むしかないのならば、進まざるを得まい。僕は小さく覚悟を決めて、まっすぐ、右足を前へ出した。何かにぶつかる気配はない、一つ分進んで足を下ろしても、そこが抜けているということもない。

 どうやら、地面は続いているらしい。

 次いで左を、右を、そしてまた左を。僕は一歩ずつ進んでいく。やがて歩くのにも慣れてきて、奈落という不安が薄れていく。今の頃合いが、落とすには丁度良いタイミングであったろう。けれどそんな意地悪はなく、足元は安定していた。

 時折立ち止まって辺りの様子を見る。変わりは見つからない。どこまでも暗闇、目に入るものはなかった。

 もう一歩進もうと、足を出す。

 ――すると。

「どこへ行く」

 声がかけられた。なんとも言い難い気味の悪い声だ。恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは鏡。――いや、自分の姿だった。

 ああ、道理で気味が悪いわけだ。鏡はきっと、僕と同じ声を発したのだ。僕自身は僕の声を他人のように聞くことはない。故に似て非なる声、肉声と違うけれど自身と認識できてしまう微妙な判断基準の上に、鏡の声があったのだ。

 見慣れたしかめっ面。鏡は呆と立ち尽くす自分の姿。

「僕のドッペルゲンガーですか?」

「違う」

 ちょっとした冗談のつもりが、間もなく否定される。この状況に、僕も混乱していたのかもしれない。

「では、僕が貴方のドッペルゲンガーなのでしょうか?」

「そんなわけがないだろう」

 ああ、一安心だ。少なくとも鏡は僕の命を奪うものではなく、僕も鏡の命を奪うものではなかった。互いの命を背負わずに済む。

 だとするならば、鏡は……何だ?

 考え込む僕の姿を目に、鏡は告げる。

「意図する結末とは多少異なった。だから、今こうしている」

 その言葉を聞いて、一つだけ、鏡の正体について思い当たる。

「貴方は神さま、ですか?」

 結末、すなわち終焉を意図するとしたら、僕には神さま以外に考えられない。僕らに力と役割を与え、世界に信じられる神話と歴史を根付かせて、僕らを放った。そうして今がある。

 今この時が時間なのかも分からないままこの場所に投げ出された僕は、鏡の意図によってあるらしい。

「そのように呼び名が付くこともある」

 曖昧な表現で返されて困ってしまう。いや、冷静になって考えてみれば、神さま自体が曖昧な話であった。返答があやふやになるのも致し方がないのかもしれない。

 人間によって召し上げられた存在なのだ、人間が勝手に名付けていたとて疑問もない。

「実体化する神など一面に過ぎない。有を無限に有することは、無であるということも含まれる。そうであれば、今ここには無かったろう」

 僕の口から出てくる神さまのお話。聞くに堪えない。

「ああ、失礼ながら、貴方のお言葉にさほど興味はないのです」

 暗闇の中、僕と鏡だけが対峙している。音もなく、不可思議にも鏡の息遣いがよく聞こえてくる。異様な空間であるのに、僕はどうにも動揺も出来ない。

 まるで夢の中のよう。ふとすれば目が覚めて、眩しい朝日が窓の向こうから差してきそうなのだ。

「顕現されたからには、相応のお話があることでしょう」

 もしこの時間に意味がないのなら、きっと夢だと信じられよう。けれど僕が嫌った神さまは、当然ながらそのような神さまではなかった。

「なに、勝手なことをされたものでな。理由が知りたかった」

「神さまといえども、すべてを図り知ることは出来ないのですね」

 よく聞く全知全能とは少し異なるようだ。あるいは“一面”という言葉に表れているのかもしれない。鏡は神さまの一部?

 だが考察も無意味だ。神さまは僕の思考の外側にいる。僕がどう考えようとそれらを盗み聞きこそできずとも、鏡は僕をどうともできると考え得る。僕にとって、抵抗は得策ではない。

 ならば望むままに返答するのみ。

「勝手というと、彼女のことでありましょうか」

「位置づけたのは“はじまり”であった」

 人間のことなどどうでも良いのか。無慈悲にも感じられるその姿は、僕の嫌った神さまそのもののようで、一理望んだ姿でもあったのだろうに、腑に落ちない。

 本当に僕らなど、塵芥であったとでも。

「左様で。貴方の意図がどのようであったとて、僕はただ、彼女のことを考えていた。それだけのことです」

 暗闇の中、一人彼女を歩かせるわけにはいかなかった。さりとて僕は、自身がこの結末以外を受け入れられたとも思わない。正しかったと思いたかったのは他ならない僕だけで、誰にとっても良い結果であることなど出来るわけがない。

 鏡にとっても、僕の行動は勝手であった。ならばやはり、僕は世界においての巨悪に他ならない。

 世界を背負うのは僕だけ。ああ、彼女がここにいなくて、本当に良かった。

「断言できまい。手放したのちの事は、一つの意図によって現在へ収束している」

「今があるのは、僕の意図だけと言いたいのでしょうか。そもそも貴方が手放さなければ、意図したように収束したのでしょうに」

「最初の話はどうでもいい」

 勝手なのは鏡だ。

「結論、現在に“彼女”などというものは存在しない」

 僕の行動の中には、彼女そのものがいなかったということであろうか。僕の望んだ終焉の中には、誰も存在しなかったのだろうか。

 僕はそんなに孤独であったろうか?

「……ええ、言葉を変えましょうか。どのみち貴方にとっては納得のいかない話であることに違いはありませんけれど、多少は僕の意図が何であったかを知ることが出来るでしょう」

 認めたくなかったのは、鏡でも誰でもない、何より僕自身がこの事実を言葉にするのを嫌悪したからである。

 言葉を変えたからといって、明確な名が付いたからといって、僕がしたことは何も変わらない。僕が思っていたことも変わらない。そのために何が起こってしまったのかも、鏡がいることも、何も、何一つ、変わることなどない。

 だけど、それでも。

 正体が明かされてしまったからには、名付けねばならない。

 その感情は、きっと――。

「それは、恋、と呼んでみたら、途端に意図を破壊してしまいそうじゃあありませんか」

 それだけのことだった。

 彼女が存在しないのは当然だ、僕の感情は彼女の元にはない。見知らぬ彼女にただ横恋慕していただけのこと、彼女が知ることなど万が一にもあり得ない。

 僕が恋していたのは、彼女だったのか、それとも“はじまり”だったのか。それすら怪しいというのに、彼女の存在が関与する余地などなかったということだ。

 彼女の言葉が耳の奥に焼き付いている。

 ――なんて酷い人……!

 確かに僕は、非道なのだろう。挙句に彼女も“はじまり”も、無に帰してしまって満足しているのだから。

 僕は手に届かないものを、手に届かないもののせいにしていただけにすぎない。あるいは神さまとて、その手段の一つであったのかもしれない。憎悪の陰に隠れて芽吹いていた感情の言い訳に最適だった。

 なんて弱くて、狡くて、臆病者か。

「貴方のお望みではない、これ以上とない理由でありましょう」

 恋焦がれた彼女は、暗闇の中に輝く光のよう。僕が思い続けていられるのも、彼女を救えたかもしれないという一縷の望みが繋ぎ止めている小さな希望。

 途切れてしまうことはない。そこに彼女がいないなら、僕が信じる限り、僕が裏切らない限り、途絶えることはないのだ。

 ただ一人で培った希望は、僕を無敵にしてくれる。

「結末において、感情は想定外だ」

「左様で。有難い言葉です」

 人を扱う神さまが、感情を蚊帳の外に考えていたとは。恋慕も憎悪も無駄ではなかったのだ。

 鏡にとって、それは一矢でもなんでもないだろう。終始自己満足のために歩んでいた僕にとっては、最高の結末であるようにも思った。

 僕の感情が、貴方の意図に多少だけ介入したのだ。終焉を図り、僕からことごとく奪った貴方の綺麗な世界に、僕は黒一点を穿った。甘く見ていた人間に、美しい無の世界が穢されたのだ。

 ざまを見ろ。

「位置づけたのが“おわり”であったことが、破綻の一つであろう」

 鏡は表に感情を見せない。この神さまの一面は、持ち得ていないのかもしれない。認知できる神さまなど、か弱いものである。

 他ならない、認知する僕がこんなにも弱虫なのだから。

「けれど皮肉なことに、何も“おわり”にはならない」

 僕は自身を“おわり”にすることが出来なかった。たくさん試した、苦しみの中で終われることだけを願って、たくさんたくさん、僕は自分を“おわり”にしようと試行した。

 どれも無駄であったことは、一つ一つ語ることでもない。結果僕はここにいる。暗闇の中に立っている。

 だから、少しの期待を打ち砕かれた思いはあっても、さほど衝撃的な話ではない。

 僕は“はじまり”を“おわり”にできても、“おわり”には無力なのだ。

「僕は“おわり”にはならないのですね」

「此度の“始終”といえども、実験の一つ。また一つ、創ってみようか」


「――恋とやらに苛む“おわり”を使ってみるのも面白い」


 鏡が笑った。

 僕は散り散りになった。


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