第4話
◇
実際、どれだけの人が終焉を信じているのだろう。世界の終わりを考えた人は多かれども、人々にとってどこまで真実味があったのだろう。知ることもない終わりに怯えて暮らす僕は、臆病者なのだろうか。
日が昇って、毎日が同じように流れて、それでも少しずつ変わっていくような、そうでもないような。季節が廻っただけで、どこか進んでいたような気になっていた。錯覚だと知っていても、軋む体が否応なく時間を訴えてくる。瞳が光を映すのはいつまでだろうかと、毎日考えては眠る。
三年が経って高校生になったとて、僕も世界も変わらない。はじまりの能力者の噂話は時々耳に挟みつつ、メディア以上の情報を持つこともなく、つつがなく。
いつしか、世の中では終焉のカウントダウンが始まっていた。はじまりの能力者が、一年以内の終焉を告げたのだという。世の中の反応は、目新しい話題に食いついているようにしか見えなくて、嘘くさい。きっと心のどこかでは信じてなどいないのだ。
笑い話で済む。ただ笑えないのは、はじまりとおわりの力を持った者だけだ。
それは確かに終焉なのだから。
僕たちは、それを知っている。
おわりの能力者を見つけなければ、この世界は終わる。はじまりは、おわりがなくては成り立たない。世界は始まっている、あくまでも終わったとき、始めなければならない。彼女は、それをよく知っている。
このままでは、終わるのではなく“消える”。始められない。二度と還らない、痕跡一つ残さない、魂の一欠片も存在が許されない。
僕らは、塵にすらなり得ない。今は意味あるものであっても、すべてが無意味になるのだ。なんて――平等な世界だろう。すべてを堕とした在り方は、ひどく完璧に見えて、誘惑だと思った。
「おわりの能力者、出てきてくれねぇかなぁ」
友人が口にしたのは、流行の話題。何の気ない会話だろう。
「死にたくないですか?」
「死にたくねぇよ。なんか……怖いじゃん」
死への恐怖は本能的なものだ、避けられようがない。僕らはいつだって生き残っていたい生き物なのだ。時に本能を左右するほどの意思を持っていてなお、僕らは生き続けた大いなる意思には敵わない。
恐れるのは当然の事、考えることもまた、当然の事。
「そうですか、そうですね。どうなってしまうのかと考えると、恐ろしくなる日もあります」
彼は机にへばりついて、眠そうな顔を貼りつけている。昼食後の穏やかな時間、待ちかねた食事を平らげ、満足げな体は休息を得たがっている。温まる体が倦怠感を訴え始めた。
太陽は真上にある。黄色い光が瞼の内側から直接跳ね返るように目に焼き付いて、黒い影が視界に入り込んだ。
目障りな、不自由な世界。たかだか肉片に振り回されて。
「なんだよ、それ。曖昧だな。怖くない日もあるってこと?」
「そういう日もありますね」
「らしすぎるぜ。お前は確かに、そんな感じがする」
笑う彼に、僕は自然に微笑み返せていただろうか。彼に意図はないはずなのに、意味もなく勘繰ってしまう自分が嫌だった。きみは何をもって、僕を僕とするのだろうか、と。
大あくびをして、彼は同じ言葉を繰り返した。
「あーあ、おわりの能力者、出てきてくれねぇかなあ! 俺を殺さないでくれよー」
きみを殺すのは僕じゃないのに、神さまなのに。
死んだら全部僕のせいにして、助かったらそれは神さまのお陰で。そういうところが嫌い、そういうところが憎い。
だから、僕は神さまなんて信じない。
神さまが作った世界なんていらない。生きていたくない。
「いざ、おわりの能力者が出てきたとして、終焉は行いません、自然に消えていくのを待ちましょうと言ったらどうしましょうか」
「えー! そんな酷い事言うかなあ」
「あるかもしれないじゃあないですか。非道な人間だったり、死にたがりだったりするかもしれません」
興味本位で出てきた言葉を真剣に考え込んで、彼は旋毛をかき回した。
「それは困るよなぁ。終焉って何が起こるのか分からないけど、隕石が来るとか宇宙人が来るとかだったら嫌だし、いつの間にか死んでましたっていうのも、なんか……なんかなぁ。納得いかないっていうか」
「そうですか? 恐ろしかったり、苦しかったりはしないのでは」
「そういう問題じゃねぇじゃん? 心の準備はしておきたいっていうかさ。やり残しはしたくないっていうか」
けれど、彼の事だから、いざその瞬間を予告されたとて、きっと思い付くこともなく過ごしそうだ。ああ、これも僕が嫌った感情の一つである。僕は何をもって、彼を決定しているのだろうか。思い込み、決めつけ、枠組み。僕も結局、外側しか見られない。
目に見えるものすら、正しく見つめられない肉片だった。
「やり残しですか。例えば?」
机から顎を離さないまま、彼は「うーん」と唸った。
「片思いのあの子に告白……とか」
「片思いの相手がいたのですね。良い最後じゃあありませんか」
思いの丈を伝えて、そのまま終わる。叫ぶような心の終わり方だ。誰が自己満足だと蔑もうが、僕はそんな終わり方も美しかろうと思いたい。思っていたかった。
そんなふうに、燃えるように終われたら、良かった。
「馬鹿にしてるだろ」
「そんなことはありません」
不服そうにする彼を横目に、休憩時間は過ぎてゆく。気が付けば次のカリキュラムへと進んで、あれよあれよと日が沈んでいく。
別れて、一人ぽっちになって、誰もいない家に帰って。帰ってこない挨拶をして、写真と食事をして。
終わるというのなら、すべて平等に終わればいい。
あの日の僕らのように。
燃え続ける太陽が再び目に入ると、同じ日が始まるのだと思った。闇を打ち破り、戦いを終えた太陽が輝くにはもったいない世界だ。
設けられた休日に予定はない。生きていくのに必要な準備だけをしたら、僕にはたくさんの時間だけが残される。空気ばかり見つめていても何にもならない。忘れていく記憶を何度も何度も上塗りするために、僕は外に出た。
僕が一人で暮らしていることには、誰も疑問はない。“そういう風にしたから”だ。何度不都合が出てきても全部終わらせた。誰にも気付かれないことをいいことにした能力の無駄遣いだ。知っていても、僕はそうする以外に地面に足をつける方法がなかったのだ。
立派な一軒家は、親の遺産の一つだ。だだっ広い家屋に一人で過ごして、そんな毎日にも慣れている。住んでしまった場所が都になる。
外の空気はぬるくて、過ごしにくい湿気が充満している。夏が目の前にあるのだ。良く晴れた空は濃い青色をしていて、明るい光に星も月も消え去った。
半刻ほど歩く。急ぐこともなく、住宅街、商店街、工業地帯と色を変えていく街並みを流して、ときどき足を止めながら。
不自然な場所がある。ほんの十五センチほどの狭い隙間だ。少しだけ赤い煉瓦が積まれている。一本だけ木が生えていて、誰が手入れするでもなく伸び伸びと枝葉を伸ばす。細い煉瓦の奥には芝生が生えていて、まるで庭の一角を切り取ったみたいだった。
ここにあったのは、僕の家。
あの悪夢みたいな日に、世界から切り取られてしまった。
いなくなった。大切な人も、思い出も、全部、ぜんぶ。
「きっとおわりの世界は、こうなるのでしょうね」
消えてしまった。この場所に家があったことも、僕の家族が生きていたことも、暮らしていたことも、生きていたことも。最初からなかったみたいに、誰しもが消してしまった。
この不自然な隙間だけが取り残された世界だ。それでも、この場所を知っているのは僕だけだ。
この場所の記憶はもう、僕にしかない。
死と呼ぶにはあまりにも無残だ。
誰もがこうなるのなら、それが一番好ましい結論だ。
子供っぽいと言われようが、僕は考える。僕だけがこんな無残な死を遂げなければならないのは何故なのか? 世界のすべてがそうなるのなら、神の名のもとに、そうなってしまえばいいのだ。
空しかろう、悲しかろう。世界の全部が僕に押し付けて忘れ去ったことが、跳ね返ってくるのが恐ろしかろう。
もしも神さまがいるのなら、そのおわりが望み通りであろうとも、僕は言うだろう。
――そのざまを見ろ、と。
終焉まで時間はない。世の人間の大半は、世界の終わりなんておとぎ話だと思っているのだから、きっと緩やかに終わっていくのだろう。僕の目の前に広げられた終焉のように、ある時突然、無の世界へ放り出されるのだ。
ああ、神さま。世界の終焉はあなたの思い通りなのか、それとも、あなたに意志などないのか。
僕の心なんて、あなたにとっては塵芥ほどの価値もないのでしょうね。悲しもうと喜ぼうと、関わりなどないのでしょうね。
結構なことだ。だから、あなたのことを嫌いになれます。
「さようなら」
心の拠り所は一枚の写真だけ。墓もない、骨もない。記憶もない、記録もない。消えた魂に、どんな祈りも届くまい。
それでももっと、伝えたいことがあったのだ。だから足繁く通うのだ。
たったこれだけの隙間に、僕の世界が全部あるのだから。
見つめても煉瓦が崩れるわけでもなく、ただポツリと立ち尽くしている。届かない声を出し続けていても仕方がない。声さえかけられれば、それでひとまず安心できる。
帰路につくため踵を返すと、ふと目の前に影が落ちていた。
「見つけたわ。この場所で祈っているなんて、決まりね」
黒いセーラー服を身にまとって、彼女は立っていた。
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