特殊職/被復讐屋ep2「菜々崎という女の話」

「どうして?」


 女の声がする。


「ねえぇ、どうして……どうしてよ」


 上擦った、半ば狂気じみた女の声だ。


「……こんなに……なのに」


 涙ぐんだ、悲しげな女の声だ。


「こんなに好きなのに……どうしてあなたはわかってくれないの」


 俺を傷付ける、怒りに満ちた女の声だ。


「あなたをのに、どうしてわかってくれないのよぉ……」


 恋焦がれた、哀しい女の声だった。


 どうしてって、そりゃこっちが聞きたい。

 意味がわからないもん。他者を傷つけ痛め付けるという行動は、憎悪をぶつけるためのものじゃないのか。


 愛おしげな怒りを込めた視線をぼんやりと眺めながら、どうしてこんな目に遭っているのだろう、と思いを馳せる。

 そもそもことの発端は……


 /


「なんだアンタ真っ昼間からナイフなんて持って……」


 顔を上げると、其処には黒っぽい髪の男の子がいた。片目に眼帯をしている。爛々と輝く金の瞳は、どこか猫のよう。私は思わず手に持っていたペティナイフを握り込む。

 ここは人気のない路地裏だ。人が通らないからわざわざこんな汚いところを通っていたのに、誰かに見られるなんて。


「は?うるさいわね。あんたこそ何よ。何か用でもあるの」

「あるといえばあるし無いと言えば無いな……ここまで露骨な依頼者クライアント候補、そう滅多にお目にかかれないから声をかけたんだが」


 思わず声を上げると、かれはごまかすようにはははと笑ってそう続けた。クライアント?自分で言うのもなんだけど、ナイフを持って徘徊してる危ない女が?

 こいつ、どんな仕事をしているっていうの。


「なに?私、別に誰かを殺して欲しいとかそういうことは思ってないからね。自分の手でやることに意味があるんだから」

「ああ、それだそれ。そういうタイプを求めてたんだよ。カネさえ払えば違法性一切なしに傷付けたい相手を痛めつけ放題、アンタが望むなら殺すことだってできる。……気分だけかもしれないけどな。そういう商売をしてる」

「……は?」

「俺は『被復讐屋』ってのをやってんだ。『殴られ屋』とも呼ばれてる」


 ……。

 違法性なしに、殺したい相手を、殺せる?


「……ちょっと、話、詳しく聞かせてよ」


 私はもう無意識にこの言葉に惹かれていた。

 よくよく考えて欲しいのだけど、だって、犯罪を犯しに行こうというところで違法性なく──要は警察に捕まったりすることなく──犯行に及ぶことができるというのだから、それに従わない理由はないじゃない。


 握り直したナイフをそっと鞄にしまった。剥き出しのままだから中に入ってるポーチとか傷がついた気がするけど、そんなこと気にするもんか。

 理屈はどうあれ、私はこれがどいういう不利益を自分にもたらそうとも、その泥舟に乗ってやろうじゃないか。金さえ払えばという言葉、後悔させてやる。


「勿論。ここだと困るだろ。とりあえず、部外者の来ない場所に行こうぜ」


 そう考える私を横に、かれは狙いの魚がかかった釣り人のようににやりと笑ったのだった。


「改めて、俺は一野讐夜。『被復讐屋』だ。アンタは?」

「……菜々崎ななさきゆかり

「ふうん。悪い名前じゃないじゃん」


 /


「お金さえ払えばあんたのことはどう扱ってもいい、ただし性的な暴力は禁止、一度の利用での上限はあんたの『殺害』まで。利用後はある程度あんたの治療をする。基本先払い、追加料金のある場合は後払い……ってことで合ってる?」

「そういうことだ。理解が早くて助かる」

「でも結局、あんたを傷つけるってことに変わりはないのよね?」

「まあ、……いや、直接見た方が早いな。アンタ誰を殺そうとしてたんだ?そいつの写真とか持ってるか?」

「持ってるけど……これでいい?」

「いい写真だな」

「うわっ!?」

「こういうことだ。わかった?」

「わかったけど、亮太くんの喋り方ってもうちょっと優しいし聞いててうっとりする話し方をするんだけど。声は完璧だけどさぁ……」

「そうは言っても流石に喋り方は聞かないと再現できねーよ」

「はい」

「録音してんのかよ……」


 多少割愛。


 とにかく、かれの『仕事』は、ざっくり言えば私の要望に沿うものだった。私は別に彼を殺して自分のものにしようだとか、彼の一部を持ち帰ってずっと一緒にいようだとか、そんな馬鹿げたことは考えていない。

 ようは、彼の姿をしたものが、彼の言葉を喋りながら私のこのどうしようもない感情を受け止めてくれればそれで良いのだから……。


「あ、あ、あー。どしたの、ユカリちゃん」

「……縁」

「…………縁ちゃん。あ、もしかして石川教授の講義の件?俺、代わりにノート取っといたけど……っと!」


 私が衝動的にナイフを振りかざすと、彼は避けてしまった。どうして避けるの?私の気持ち、受け止めてくれるんじゃないの?


「待て待て待て!ストップ!」

「何!水を差さないでよ!」

「先払い!」


 すうっと頭が冷えて冷静になった。そうだった。私が申し訳ないな、と思っているとかれの姿が元に戻った。これはこれで端正な顔をしているけど、私の好みではないな。

 私はもっと爽やかで精悍な顔立ちの人が好きだ。


「……いくら?」

「最初だから安くしとく。あー……1、2、3……5回刺して1万でどうだ」

「それ安いの?」

「アンタ自分だったら5回ナイフで刺されて1万で済ますか?」

「無理」

「安いだろ」

「確かに……」


 納得している場合ではない。


「……普通どのぐらい?」

「だいたい5回じゃ済まない、……普通死ぬとこまで行くかな」

「死んだらいくら」

「死んだらそれでおわり、上限額の50万」


 50万で命を切り売りしている、という事実に少し私の意気地なしなところが震えた。いいや、いいんだ。これが商売なんだから。私は利用者で、かれはお金を受け取る側。そういう関係だ。かれはサービスを提供する側で、私はそれを受ける側。気にする必要なんて何一つない。


「あ、でも死んじゃったらお金どうすれば……」

「どうせすぐ生き返るから生き返ってから受け取……いやその顔やめろ。原理は聞くなよ。俺にもわかんねーから」

「そ、そう……」


 捲し立てるように言われて私は思わず疑問を飲み込み、それから……少し考えて、


「3万」

「オーケー」


 かれは頷いて立ち上がった。不敵な笑みを浮かべていた金色の目が、優しげな黒い瞳に変わる。彼の、亮太くんの顔だ。


「縁ちゃん?」


 ……このとぼけた顔が、腹立たいとおしい。尋ねるような声が苛立たこいしい。


「亮太くん……ごめんね」


 私は初めて生きた肉にその小さなペティナイフを振り下ろした。


 そしてこの日初めて知った。

 人間の筋肉というのは案外固くて、思っていたより丈夫だ。


「いッ……!?」


 痛みを帯びた、声になりもしないような声をあげて亮太くんが呻く。

 振り下ろす。上げる。血しぶきが飛んで、彼が私の目を恐怖を孕んだ顔で見つめてくる。

 心地いい。


 今、私は亮太くんのカタチをしたものを支配している。


 振り下ろす。上げる。

 振り下ろす。上げる。

 振り下ろす。上げる。

 振り下ろす。上げる。


 安くないか、と私の中の理性が言うが、私はもうこの衝動を抑え切れない。


 いくら一回一回は命に別条はないとはいえ、これだけ刺されたら普通の人間は死ぬ気がする。でも彼は縮こまり痛みに悲鳴をあげ、ぼんやりとした焦点の合わない目から涙を流すばかり。

 死ぬ気配は一切ない、抵抗する様子も一切ない。致命傷になりそうなところさえ避ければ平気だろう。


「ねえ亮太くん、人間って意外と、」


 丈夫なんだね。


 /


「追加料金まいどあり」


 結局気がついたら30回ぐらい彼に傷をつけていたらしい。

 かれの言っていた「5回じゃ済まない」っていう言葉の意味を理解した。でも殺してないし、平気だし。


「……」


 お金ならそれなりに持ってるから、うっかり殺しちゃっても平気だけど。それはちょっと、倫理的にというか、なんというか……。

 感覚的にいうなら、彼の商売を一度でも利用したものとしては、かれを殺すことで人を手にかけることに慣れてしまって、いつか本当に、本物の亮太くんを殺してしまうんじゃないか、ということが怖い。


「えっと……その、寝っ転がられてると消毒しにくいんだけど」

「腹と腕の両方切ると起き上がれなくなるって知ってるかアンタ」

「え?なんで?」

「こう、いう、こと」

「うわっ」


 彼のお腹から血が吹き出た。今更ながらやらかしたことに対してちょっとした後悔が募る。そっか……お腹か腕に力を入れないと起き上がれないから、どっちも傷つけちゃうと起き上がれないんだ。

 初めて知った。


「景気の良い利用をしてくれる客は好きだけどな」


 そりゃそうだろう、この短時間で彼はもう6万稼いでいる。うっかり命を落とした日には2時間ぐらいで50万ぐらい稼げるんだ。そりゃあ大きな傷をつけてくれればつけてくれるほどいいだろう。


「ねえ、その……」

「ん?」

「亮太くんの顔と声でその喋り方やめてくんない」

「おっとこいつは失敬」


 被復讐屋はハハハ、と笑って元の姿に戻った。文句をつけておいてなんだけど、戻っちゃうのはちょっとだけもったいない気がした。

 どういう仕組みかわからないけど、かれの顔は本当に亮太くんの顔そっくりになっていたし、その顔があんな風に笑うのは初めて見たし。次の時はもう少し見ていよう。


「……ねえ、また呼んでもいい?」

「あー、そうだな。リピーターにはこれ渡してんだ」

「何これ」

「俺の電話番号」


 私は思わず吹き出してしまった。電話番号だって。


「なんだよその反応……」

「魔法みたいに姿が変わって、殺されても死なないような妖怪みたいな男の子がいきなり『電話番号』とか文明的なことを言ってきたら誰だって笑うわよ」

「妖怪とか失礼なヤツだな」

「じゃあ何だっていうのよ」


 聞くとかれは黙りこくって考え始めてしまった。何にも言わないので仕方なくガーゼを当てて包帯を巻き始める。それにしてもこれ、たとえばかれが死んじゃったりしても意味がある行動になるのだろうか。

 そもそも死なないなら傷の手当ての必要もないのでは?なんて考えていると、かれが唐突に口を開いた。


「妖怪でいいや」

「いいんじゃんか!」


 思わず大きな声をあげると、かれはまたあの特徴的な笑い声でハハハハと笑った。


「その笑い声しゃくに触るとか言われたことない?」

「これのせいで追加料金もらったことならあるな」

「うわぁ……」


 ちょっと気に触る人もいそうな笑い声だったからなんとなく聞いてみたら実際にあった出来事でドン引きしてしまった。そんなことある?

 だって普通かれの仕事を利用したら、どういう使い方にしろ大なり小なりストレスを発散してスッとするはずなのに追加料金とか。どんだけカッとしやすい人が利用してるのよ。


「アンタ人のこと言えたタチかよ」

「どうでもいいでしょそんなの……それで手当てってこんなものでいいの?」

「こんなもんでっつーか止血ぐらいで良かったんだけどな。ずいぶん丁寧に手当てすんだな?」

「慣れてるからね」

「そんなもんかね」


 私の巻いた包帯の継ぎ目をつついたり、ガーゼを貼った腹の傷を撫でたりしてしきりに感心しているかれは、どうにも、あんまり人に手当てされるってことに慣れていないようだ。


「じゃ、ご利用いただきありがとうゴザイマス。また呼んでくれよ」


 かれはそれだけ言い残すと、乱れた服装を整えてこの部屋をあとにした。私はぼんやりと少なくなった救急箱の中身と、あれだけ刺したのに脂も肉も血すら残っていないぴかぴかのペティナイフを眺めて頬をつねった。


 頬をつねるという行為は、思いの外痛かった。


 /


 それからというもの、私は何度かかれに電話をかけた。そのたびかれは快く返事をして私の部屋にやってきた。一度なんだかデリヘルみたいだね、と冗談めかして言ってみたらかれはちょっと嫌そうな顔をして「性的なサービスはどうあれ絶対に受け付けないからな」と言っていた。最初に聞いてたから知ってるよ。

 まあ、そんなふうに朗らかに話しながら、ながら、かれを傷つけるのは、なんだかいびつに思えて、ちょっとだけ自分が気持ち悪くなったりした。

 でも仕方ない。そもそも誘ってきたのはかれの方なんだし、私は別に悪くない。


「……なんていうか。倒錯的よね。言われない?」

「は?何が?」

「だって、こんなふうに何度もその、あんたの内臓までみてるわけなんだけど、いやこれお腹の中に戻したらこぼれてこなくなるのどういう原理?」

「どうでもいいだろって言いたいけどそれ以上話聞くの気持ち悪ぃ気がするから内臓の話してていいか?」

「ごめんダメ。いやだからお腹の中まで見せてくれるけど性的暴力禁止ってどういう理由なのかなって聞きたかったんだよ」

「やっぱりな……いや、理由いるか?」

「いるいらないっていうか、気になる。いや喋りたくないならいいよ」

「あー……」


 沈黙。包帯の衣擦れのような音だけが響く。




 かれは、しばらく天井をぼんやりと眺め、それから唐突に口を開いた。


「俺未成年だからじゃ理由には不十分か?」

「え。」

「いや、どうみても未成年だろ」

「それは……まぁ……そうだとは思ってたけど……幾つなの」

「幾つだったかな……たしか……この仕事を始めて……それからクリスマスが9回過ぎたから……今年で19になるんだったか」

「見た目の割に意外と歳いってるね。20になったら解禁とかしちゃう気なの?」

「意外とは余計じゃないのか今の。……いや、しない。したくないからな」


 体を文字通り切り売りしておきながら、そっちに手を出す気はないのか。顔も端正だし、体つきだって売れないというわけじゃないだろうに。

 まぁ、「したくない」というのは理由としてわかる。私だって嫌だ。体を切り裂かれる苦痛と天秤にかけた時どうするかと聞かれると微妙だけど。


「じゃ、なんでこんな商売を?」

「そんな突っ込んだこと聞く必要あるかね……金だよ金。生きるには金がいる、そうだろ」

「お金が欲しい妖怪ねぇ」

「だから妖怪って……いや、いいんだった。そうじゃない。俺は死んでも死なないけどな、飢えはするし凍えもする。死んでも蘇るなら、その苦痛は永遠なんだよ」


 なんて生きにくい命だろう、と思った。死んでも死なないのに死ぬほどの苦痛は味わうなんて、きっと私は耐えられない。

 かれは平気そうに私からの傷を受けて、もちろん私の知らないところでも誰かからの痛みを受けているのだろう。誰かに本来与えられるはずだった痛みを、かれが一身に受けている。

 そして、私もかれに痛みを与えている。


「生きにくそうだね」

「そんなことぁねえよ」


 こともなげにかれは笑っていた。


「ねえ、じゃあ気になってたんだけど、なんで毎回手当てしなくちゃいけないの?」

「嫌なら治療費だけ払ってくれてもいいけど」

「別に嫌ってわけじゃないよ。理由が聞きたいの」

「……治療したって意味があるわけじゃないんだ、早く治るわけでもない。というか再生速度には影響が出ない。まぁ膿んだりするのは防げるかもしれないけど、その程度」

「ふーん」

「だから、大事なのは治そうっていう気持ちだよ、アンタのさ」

「そんなもん?」

「そんなもんだよ、俺たちはさ」


 俺たち?もしかして『被復讐屋』は複数いるんだろうか。

 少し引っ掛かったけれど、もう止血も包帯を巻くのも終わってしまう。また次の時に覚えていたら聞いてみよう。


「……はい、こんなもんでいい?」

「うん、十分十分」

「じゃ、これ超過料金分。ごめんね、毎回毎回。またきてくれる?」

「またくるよ、商売だからな」


 なんかやらしい。ひらひらと手を振って立ち去る彼の背中を見送りながら、ちょっとそう思った。


 /


 彼の身の上、と言うか彼の身の話を聞いてから、幾度とない時間が過ぎた。


 一瞬だったようにも思えたし、それがあまりに長い時間のように思えた。

 六ヶ月、半年というのは長い気もすれば短い気もする。


 私のお財布は以前よりだいぶ軽くなって、きっと彼の懐はさぞ温まっただろう。

 それでもペティナイフは相変わらず清潔なままで、傷ひとつないままだった。どうしてそうなのかは、結局わかってない。


 次にかれを呼んだら、もう最後にしよう。そう決めて、私は重い受話器を上げた。


「もしもし、……『被復讐屋』さん。あのね、」


 私、失恋したの。だからお願い、彼の代わりに傷ついてくれる?


 /


(そうだった……)


 いつものことではあるが、厄介なのばっかり引き寄せる仕事だ。こんなことになるぐらいなら、いっそのこと死ねたほうが楽だったのではないか?


「私のために死んでよ」


 これで45回。ちなみにリピーターは5回で2万だ。細かな裁量は自分で決めているため、毎回同じってわけじゃないが、だいたい5回刺すのとイコールの痛みで2万ぐらいという基準はある。


(殺したいならもっと致命傷になるところを突けばいいのに、そうすればそのほうが俺だって楽なのに)


 仕事で「そのほうが楽」だとか「楽じゃない」だとかを考えたのはこれが初めてだった。なにしろ痛いとか痛くないとか以前に、この呪詛を聞き続けるのは正直言って精神衛生上良くはない。

 それに、こういうのを聞いていると、知らないはずの嫌な記憶が蘇るような気持ちが湧き上がってきて気持ち悪いのだ。


「私以外の女に触んないでよ……」


 あ。

 マズイ。


「待っ……」


 骨と刃物の擦れる音。

 弱い、脆いはずの果物ナイフの刃がぐりぐりと骨に押し付けられ、骨が削れる。もちろんあんな果物ナイフ程度で人間の骨は切れない。こいつは人の傷付け方というのを心得てないから尚更だ。痛みと嫌な感触だけがにぶい神経越しに伝わってくる。


「ぐ、あ、……ガッ……縁ちゃ……やめっ……!」

「……あ」


 思わず漏らした言葉に、依頼者菜々崎はとっさにナイフから手を離したがもう手遅れだ。手首からは川の流れるように血があふれ、ナイフは骨に食い込んで離れない。


「うそ、やだ、亮太くん、死……!」


 うそじゃねえやだじゃねえ。一体何がアンタをそうさせるんだ。

 怒りも悲しみも狂気もわかるが、愛ゆえにというのは本当にわからない。そもそも俺でいいならほんとうは愛なんてないんじゃないのか。


「う、う……」


 何かを言おうとしても呻き声しか出ない。当然だ。手首を切断せんとしてナイフを押し込まれたのに痛みに悶える以外の行為ができてたまるか。

 妙にクリアになる思考と視界だけが鮮明に残る。失血死するほどはまだ出ていないが、依頼者菜々崎が呆然としている以上、もう死んでしまうのは時間の問題だろうな。

 せっかく死ぬならもっと楽に死にたいが、それはもう仕方ない。口を開こうとしてあぁだとかはぁだとかそういう痛みを堪えようとする声が出続けるのすら、もう苦痛だ。


「……!……!」


 菜々崎が何か言っているが、もうほとんど聞こえない。


 ナイフの引き抜かれた感覚だけがぼんやりと脳裏に残って反響して、それきりだった。



 /


 私はこの怒りをどこかにぶつけたいだけなのだ。こんなにも愛しているのに、こんなにも尽くしているのに私に振り返ってくれない彼に対する、この怒りを。

 だというのに、この結果は何なのだ。

 どうにも私は頭が悪いからどこに行ったって落ちこぼれで、人間関係だって落第寸前で、それは別に全然構わないけど、それを関係ない誰かの命を奪う言い訳にしていいのか?


 そんなわけないじゃない!


「讐夜くん……!」


 殺したいわけじゃなかった。最初に利用した時も考えていたけど、誰かの命を軽率に奪ってそれに慣れるなんてことおぞましくて絶対にしたくない。

 だからこれは別に私がかれのことを思って治療しているわけじゃなくって、私自身のエゴでしかない。

 中身を封を切ったばかりの新品に入れ替えた救急箱を開いた。前に讐夜くんが言ってたことを思い出す。


『治療したって意味があるわけじゃないんだ、早く治るわけでもない。というか再生速度に影響は出ない。まぁ膿んだりするのは防げるかもしれないけど、その程度』

『だから、大事なのは治そうって気持ちだよ、アンタのさ』


 ガーゼを何重にも当てた上から包帯をグルグル巻きにして、私は祈る。

 せっかくかれが、どうせしたくもないだろう演技を保ったまま私に声をかけて引き戻してくれたのに、それなのに殺すなんてしたくない。


 私は祈る。私のために死なないで。


 私のために、生きていて。


 /


 結局のところ死んでいたか生きていたかなんてのは主観か客観かの問題でしかなく、客観的に生きていたと言われたならばそれに従うしかないし死んでいたと言われたならばそれはそうである以上俺は平然と追加料金を要求するだけなのだが、今回はちょっと、想定外だった。


「たぶん生きてたと思うけど、実際殺したようなものだし、お金は払わせて」

「なんだそれは」

「脈測ってたわけじゃないけど心臓止まってなかったし、でもふつう出血多量で死ぬぐらいの量出てたから?」

「難しいこと言ってんな……」


 くれるというのなら遠慮なく貰うが。


「もしかして罪悪感につけ込もうとしてるか?」

「そんなことするわけないでしょ。そもそも、これで彼の代わりにするのは最後のつもりだし……」

「そういえばなんか言ってたな。失恋したとかって」


 切断されんばかりに切り裂かれていた手首を眺める。念入りな止血の跡がある。丁寧に巻かれたガチガチの包帯からは執念に近いものすら感じた。それだけ後悔したのだろうが、これはもしかして野放しにしたら『亮太くん』とやらを殺してしまうのではないか?


「……新聞に載るようなことはすんなよ」

「しないしない、だって私ももう大人だしね」

「大人ねえ」


 本当か?


「うっかり感情に流されて人を殺すような奴が大人とは思えねえなぁ」

「案外よくあることだよそういうの」

「さっきの『しない』はどこ行ったよアンタ」

「私はしないって意味!」

「ハハハなんだそりゃ」


 笑っていると、菜々崎は茶封筒に入った満額の報酬をよこしてきた。枚数を数える。わかりやすく5枚おきに向きの変えられた札束は、縁の意外とマメな性格をありありと表していた。


「ま、人は見かけによらないって言うし、言動にもよらないんだろうな。たしかに50万受け取ったよ。まいどあり。二度と俺みたいなの使う人間になるなよ」

「……でも、また呼んだら来てくれるでしょ?」


「またくるよ、商売だからな」


 /


 讐夜くんは、『こう言って欲しかったんだろ?』と言わんばかりの皮肉めいた笑顔を見せて、以前と同じように手をひらひら振って立ち去った。


 彼の骨を傷つけたペティナイフは、やっぱりちょっとも傷がついていなかったけれど……

 からっぽになった私の救急箱と、50万が下ろされた通帳は、私がかれを傷つけたことを物語っていた。

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