三章(5)
「決めたんだ」
「ええ」
エリクの言葉に、アデライドは静かに頷く。
この選択が完全に正しいものだと言い切ることは、正直できない。
間違っているかも、この選択をしたことを将来後悔するかもしれない。そんな不安はやっぱり心の片隅にある。
でも。
今はこれが正しいと思うから。
きゅっと手を握りしめてエリクの双眸をじっと見つめていれば、彼はゆるりと破顔した。
「そっか」
その笑みは嬉しそうな――けれどどこか寂しそうでもあるもので。
「エリク?」と彼の名を呼ぶ。彼は数瞬ののち、そっと首を横に振った。
「なんでもない。――アデラ、今日はこれからどうする? まだちょっと時間あるけど」
確かにほんの十分ほど前に三時の鐘が鳴ったため、いつも別れる時間まではそれなりにある。
「そうね……。……もうちょっと、ここにいてもいい?」
「もちろん」
エリクの返事に、ほっと息をついた。
――やることは決めた。反革命派として活動しているであろうフィリップを止める、と。
そうなると自分がブランダン王国の王族だと、いろいろな人に知られてしまう可能性が高くなる。つまり、エリクに正体が知られてしまうかもしれないということで。
そうなったら今までのように親しくできないかもしれない。
それが嫌で、でもその未来はきっと変えられなくて、だからせめて今だけでも彼の隣にいたいと思ったのだ。
さあっと風が吹く。潮の香りを含んだ爽やかな海風。
アデライドは静かに目を閉じた。人々のざわめき、肉の焼ける美味しそうな匂い、そしてすぐそばから感じられるエリクの気配。それらがすべて心地よくて。
このままでいられたら、どれだけ幸せだろう。
(そんなの無理だけれど……)
彼と出会えたことはまさに奇跡なのだ。エリクは革命推進派の家に生まれ、アデライドはその革命推進派の嫌うブランダン王国の王家の血筋。
もし革命が起こらなければ。もしアデライドがこの国に来なければ。もしあの日ぶつからなければ、きっと一切関わることがなかっただろう。
だから彼との道が交わったとしても、それは一瞬のこと。
すぐに道を
アデライドはそっと目を開けた。黒一色だった視界が一気に鮮やかになり、くらりとする。
「――ねえ、エリク」
「ん? なに?」
呼びかけると、すぐに返事が降ってきた。そのことにじんわりと胸が温かくなる。
ゆるりと口元をほころばせた。
「んー、なんでもない。呼んでみただけ」
「なんだよそれ」
エリクは文句を言うけれど、その声色は優しく、口元も微かに笑みを浮かべていて。
穏やかな空気が二人の間に流れる。
しあわせだと、思った。
これ以上ないくらい、しあわせだと。
そんなふうに過ごしていると、どんどん離れたくないという気持ちが大きくなってくる。このまま幸せでいたいと願ってしまう。
でも、それは嫌だから。してはいけないと理性が叫ぶから。
「――エリク」
「……なに? 今度こそちゃんと理由があるんだろうな?」
「ええ、もちろんよ。……わたし、もうそろそろ行くわ」
どこへ、とは告げなかった。知られたくなかったから。
それをエリクも理解してくれているのだろう、問い詰めるようなことはしてこず、ただ静かに「そうか」と言う。
そのことがありがたくて、でも同時に寂しくて。
(なんでそんなこと思うのかしら?)
疑問に思いながらも、今はそんなこと関係ないと気持ちを振り払って立ち上がる。同時にエリクも腰を上げ、人の多い革命広場で、二人して見つめ合う。
先に口を開いたのはアデライドだった。
「改めて、今までありがとう、エリク。あなたと出会えて、本当によかったわ」
「っ、……それならよかったよ」
アデライドの言葉にエリクは一瞬傷ついた表情を浮かべたけれど、すぐにそれを消してぎこちなく笑う。
今日、アデライドは行動を起こす。その結果によってはもう二度と会えないから――今のうちに伝えておこうと思ったのだ。それを、彼も感じ取ったのだろう。
気まずい沈黙がおりる。けれどそれが続いたのはたった数秒のことだった。
エリクが口を開いたから。
「――なあ、アデラ」
「なあに?」
「これだけは言わせてもらうけど、」
そうしてエリクは息を吸い――
「俺は、君が何者であろうとも、君の選択を尊重する。それだけは覚えていて」
その言葉に。
もしかして彼はアデライドのことを知っているのでは、と思った。そうでなければ、「君が何者であろうとも」だなんて言わない気がする。
気づいていても今まで指摘してきたり、問い詰めてこなかったのは、彼もまた同じように思ってくれているからだろうか?
なるべく長い間一緒にいたい、と、願ってくれているのだろうか?
そのことに胸がぽかぽかとしてくる。アデライドはそっと目を細め、笑みを深めた。
「ありがとう、エリク」
そんなあなたが好き。その言葉は、呑み込んだ。
エリクと別れ、アデライドは馬車に乗り込みファルシェーヌ卿の屋敷へと向かう。
ガタゴトと揺れる馬車の中、きゅっと手を握りしめた。
……正直、かなり不安だった。フィリップを止めると決めたけれど、そうしたらどうなるのかわからない。フィリップや彼の父と敵対するということは、今まで自分を育ててくれた彼らを裏切るという行為だし、向かうのはファルシェーヌ卿の屋敷。きっと彼も反革命派だから敵地のど真ん中へ向かうようなものなのだ。これからどうなるのかなんてまったく想像がつかない。
それに。
アデライドはそっと視線を落とした。
――固く握りしめられて真っ白になっており、かすかに震える自らの拳に。
(逃げ出したい……)
今までずっと、フィリップや彼の父に逆らったことなどなかった。
親代わりとして育ててくれた人だから。
そんな人たちが間違っているだなんてこれぽっちも考えたことなくて、基本的に逆らうことなく粛々と従ってきた。フィリップにはたまに反抗したけれど、それもじゃれ合うようなもので、ずっと盲目的に信じてきた。
だからこうして反抗するなんて、初めてで。
怖いと思う。自分の意思で抗うことが、怖い。
(でも、もう決めたことだもの。やるしかないわ)
そう新たに決意したそのとき、ファルシェーヌ卿の屋敷にたどり着いた。深呼吸をしてバクバクとやかましい心臓をなだめつつ、アデライドは馬車を降りる。
エントランスにフィリップはいなかった。近くにいた使用人にフィリップがどこにいるのか尋ねたところ、どうやら今日は与えられた客間にいるらしい。
「ありがとう」とお礼を言ってフィリップの部屋へと向かう。ともすれば震えてしまいそうになる手にぐっと力を入れ、アデライドは静かに扉を叩いた。
「――誰?」
「アデライドよ、お兄さま」
緊張からか、カラカラに乾いてしまった喉。なんとか声を絞りだせば、しばらくして扉が開いた。
そこにはいつもと何ら変わりないフィリップがいて。
「アデラ、どうかしたのかい?」
「ちょっと話があるのだけれど、今いいかしら?」
「もちろん」
フィリップは
――扉が締まり、密室となる。
もう、引き返せない。
(……頑張るのよ、わたし)
「それでアデラ、どうかしたの?」
フィリップの言葉に。
アデライドはぎゅっと目を閉じると、覚悟を決め、フィリップを見つめた。
そっと唇を震わせる。
「お兄さまは、反革命派なの?」
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