二章(3)
その後もいくつかの店を回り、屋台で軽く食事もしたあと、アデライドはエリクに連れられてある店の前に来ていた。こじんまりとした店だが、それに似合わず敷地はかなり広い。
どこからか嗅いだことのない、強烈な匂いが漂ってくる。どういうものなのか、と問われたら答えられないけれど、とにかく強烈な匂いだ。少しだけ眉根を寄せる。
「……ここは?」
「宿屋だよ。……ちょっと待ってて」
そう言って、エリクは一人店の中に入っていった。どうして宿屋なんかに、と思いつつ、アデライドは大人しくその言葉に従って彼を待つ。
海のほうから潮風が吹きつけてきた。慌ててドレスのスカート部分を押さえつつ、アデライドはキラキラと輝く海面を見る。
この国に来てもう三週間が経った。滞在できるのは残り一週間。せっかくエリクと親しくなれたのに、もうすぐ別れなければいけないのだと思うと、胸がきゅっと切なくなる。この国にずっといたいと思ってしまう。
そんなことはできないのだろうけれど。
はあ、とため息をついた。一週間後にはまた淑女らしくすることを強要される、ひどく窮屈な生活に逆戻りしなければならないことが憂鬱だった。
そのとき、「アデラ、お待たせ」とエリクの声。そちらを振り返れば――
「わっ、馬!?」
エリクは大きな馬を連れて戻って来た。
驚きのあまり目を見張っていると、彼はくすりと笑う。
「そう。今日行きたいとこは街の外だからさ、馬のほうがいいかと思って。あ、馬に乗ったことはある?」
「いいえ、ないわ。こんなに近くで見たのも初めて!」
うわあ……! と心の中で歓声を上げながら馬を眺めていれば、「アデラ、興奮しすぎ」とエリクが笑う。
その言葉に、アデライドはムッと頬を膨らませた。
「だって初めてなんだもの。仕方ないじゃない。エリクだって初めて馬を見たときはそうなったでしょ?」
「うーん……ものすごい昔だから覚えてないな」
「へえ。そんなに昔から馬に乗ってたの?」
「ああ、うん、まあ……家の教育方針でな」
少しだけごまかすようにエリクは言う。
そのことに触れることなく、アデライドは満面の笑みを浮かべて「早く行きましょ!」と声をかけた。
エリクは安心したようにふっと笑う。
「はいはい、わかったよ。とりあえず街の門までは歩きで行って、馬に乗る予定だけど……って、そういえば大丈夫か?」
「あら、なにが?」
「高いところ。苦手だったら馬に乗れないかもしれないし」
今気づいたのか、気まずそうにそう尋ねてくるエリク。
その質問にアデライドはよりいっそう笑みを深め、胸に手を当てた。
「大丈夫よ。これでも十歳のころまでは木登りをしていたもの」
「木登りって……アデラらしいな」
苦笑混じりの言葉に、アデライドはムッと顔を顰める。
「ちょっとバカにしてない? これでもお兄さまより上手かったんだから! わたしの木登りの腕前を見たらきっと驚くわよ!」
「はいはい、じゃあ行くぞ」
「ちょっとエリク!」
軽く流すエリクに文句を言いつつ、アデライドは彼について歩いて行く。この街の外に行くなんて今までなかったから、興奮するとともに少しだけ緊張していた。
(どんなところなのかしら? シルスター王国みたいに、草原が広がってたり?)
そんなことを思いつつ、今まで通ったことのない道を進んでいく。初めて行く地区であるためちょっと新鮮で、しきりにあたりを見回す。
食べ物系の店は少なくなり、『占い屋』などの娯楽系の店が多いようだった。ふうん、と思いながらそれらの店の前を通り過ぎていく。甘いものよりはさほど心惹かれなかった。
そうして進んでいるとやがて門の前に着いた。この街は海に面する場所以外城壁に囲まれていて、こうした門でしか出入りができないらしい。来る途中エリクが説明していた。
(シルスター王国では、どうだったかしら?)
首都は同じように城壁に囲まれていた気がするけれど……よく覚えていない。なにせ移動は常に馬車で、いつ城壁の外に出たのかすらよく把握していないのだ。
戻ったらそういうところも見てみよう、と決意しつつ、アデライドはエリクとともに城壁の外に出た。
そして目に飛び込んできた光景は――
「あら……?」
アデライドはしきりに
城壁の外には堀があり、その向こうには意外なことに街が広がっていた。と言っても城壁の中とは少しだけ違ってどこかごちゃごちゃとしているし、布作りで三角の、家っぽくない家ばかりだ。
どういうことなのだろう? と首を傾げていれば、「アデラ」とエリクに呼ばれる。彼は馬の鞍をぽんぽんと叩いていた。
「ほら、乗せてやるから」
「わかったわ」
とりあえず今は周囲のことを忘れることにして、彼のすぐそばへと向かう。
「そこに足を引っ掛けて」
彼の言う通りに体を動かし、支えてもらって馬の上に横座りする。急に高くなった視界に「わあ……!」と思わず声を漏らした。地面が遠くて、吹いてくる風が少しだけ強いような気がする。
そんなことを思っていると、馬の背から若干の衝撃を感じた。バランスを崩してしまいそうになると、ぐいっと腹部に手が回される。視界の端でごつごつとした手が手綱を取った。
エリクが後ろに乗ったのだ。
「大丈夫か?」
「え、ええ、大丈夫」
「よし、じゃあ行くか」
その声が降ってきたかと思うと、馬がゆっくりと歩き始めた。不安定な体勢であるため、一歩進むたびに鞍から落ちてしまわないかヒヤッとする。
「アデラ、俺の服掴んで。そしたらまだ不安じゃないだろ?」
「そ、そうね。ありがとう」
「どういたしまして」
エリクに言われた通りきゅっと彼のシャツを握る。不安定な体勢であることには変わりないが、安心感が全然違った。
きっと彼なら、落ちそうになっても助けてくれるだろう。そんな確信に近いものがあった。
ほっと息をつくと、少しだけ周囲を見る余裕が出てくる。視線を巡らせればいつの間にか街は途切れており、あたりは草原になっていた。
「……ねえ、エリク」
「舌噛むぞ」
注意されたので、アデライドは慎重に口を開く。
「城壁の外にまで街があったけど、あれっていたっ!」
「噛むって言ったのに……」
呆れたような声が耳に届いた。注意されたのに口を開いたのはアデライドだ。なにも反論できずに静かにうめいていると、かすかな吐息が耳をくすぐる。
「あの街のことだよな?」
「……ええ、そう」
今度こそ噛まないよう、慎重に、短く答える。
「えーっと……城壁の中の広さは限られてるだろ? けど田舎から首都へ、出稼ぎをするためにやって来る人だっているらしい。だからどんどん人口が増えていく。それであぶれた人が城壁の外で暮らすようになって、いつの間にか街になった……って聞いたことがある」
「へえ……。あの人たちは、あんな暮らしでも大丈夫なのかしら?」
「……たぶんだけど、農村の暮らしよりはマシなんじゃないか? 俺もよく知らないけど……」
珍しく歯切れが悪い。エリクでもこのことはよく知らないようだ。
ふうん、と声を漏らしながら街のほうを振り返る。
「これってずっと昔からなのかしら?」
「ああ。確か革命が起こる少し前からでき始めたらしいって。ほら、革命前は財政が悪化しただろ? それが原因で出稼ぎに来る人が増えたはずだ」
エリクからの情報を整理する。となると、革命前からの財政難は未だに解決していないっていうことではないだろうか?
そのことをエリクに尋ねれば、「……そうかもしれないな」と言う。その声はどこか苦しげで。
重苦しい沈黙が二人の間に漂った。気まずくて、アデライドは少しだけ彼のシャツを掴む力を緩める。
(尋ねなければよかったかしら……?)
そんなことを思っていると、「お、見えてきた」とエリクの声。彼の視線の先を追えば――
「わあっ!」
広範囲に広がる浜辺があった。白い砂浜には何人かの人々がおり、海を眺めている。
その海の先ではちょうど夕日が水平線に沈みかけており、海はほんのり赤色に染まっていた。
思わず感嘆の息をつくと、頭上からくすりと笑い声。
「綺麗だろ? ……だからちょっと落ち着け」
「落ち着いてるわ!」
「落ち着いてないだろ! ほら、危ないからあんま動くなって」
「ううー……」
ムッと顔を顰めながら、とりあえず言われた通り動かないようにする。でも早く駆け出したくてどうしてもソワソワするのだ。我慢できない。
するとエリクが呆れたようにため息をつき、「ちょっと早めるから落ちるなよ」と言う。
「え? ……ってひゃあ!?」
馬の速度が急に上がり、アデライドはエリクに抱きついた。若干の浮遊感が定期的に襲ってきて、ぎゅっと彼のシャツを掴む。
それを感じ取ったのだろう、エリクも腹部に回した手にぐっと力を入れてきた。
落ちないようじっと
やがて完全に止まった。アデライドはほっと胸をなで下ろしてエリクから離れる。
すると彼は軽々とした動きで馬から飛び降りた。そのまま近くの柵に手綱をくくりつける。
「はい。降りれるか?」
その言葉とともに手を差し伸べられる。
「え、ええ、たぶん……」
頷き、アデライドは一人で馬から降りてみた。しかしエリクのように軽々とではなく、ずり落ちるような形だった。
するとエリクがぷっと笑う。
「ちょっとエリク!」
「ごめんごめん。ほら、行くぞ」
軽い謝罪を口にする彼に手を引かれ、アデライドは人生で初めて砂浜の上に立った。
「わっ! ……結構歩きづらいのね」
ヒールがずぶずぶと砂の中にめり込む。おかげでバランスを崩してしまい、慌ててエリクの腕を掴んだ。
彼はくすりと笑う。
「あ〜、確かにその靴だとそうかもな。あんまり行っても特に変わらないし、ここらへんにするか?」
「……そうする」
本当はもっと向こうまで行きたかったけれど我慢し、アデライドは渋々頷いた。
ざざん、ざざん、と穏やかな波の音が耳に届く。
アデライドはそっと口を開いた。
「わたし、波打ち際? を見たの、初めてだわ」
「そっか。来てよかった?」
「ええ」
「ならよかった」
エリクはにっと笑った。
その笑みに。
――どくりと心臓が高鳴る。彼のことが好きだ、という気持ちが溢れてくる。
初めてだけれど、おそらくこれは恋というものだろう。わたしは、目の前の彼に恋をしている。
アデライドはふっと笑って海に視線をやった。夕日は眩しいため、反射する海面を見つめる。
どうしようもないほど、胸が痛かった。苦しかった。この気持ちを伝えられたらいいのに、と思う。
(でも……そんなの無理なのよね)
――彼は、エリクは、おそらくこの国でもかなり上位に位置する家の者にだと思われる。所作は綺麗だし、ほかの人に比べて着ているものも上等で他国の貴族と遜色ない。
この国でそれくらい上位であるということは、革命期に活躍した家柄であるということ。
そんな家の者が、アデライドを――ブランダン王国の王家の血を引く者を受け入れるとは、到底思えなかった。
王族であるということを隠して告白するなんて、その先がつらくなるだけだから絶対にできない。
だから。
生まれたばかりの恋心は心の奥底に追いやって、見ないふりをすることしかできなかった。
「アデラ?」
黙りこくったのを訝しんだのだろう、エリクが声をかけてきた。「なんでもないわ」と言って、アデライドは再度夕日に視線をやる。
――この国にいられるのは残り一週間。
せめてその間だけ、なにも見ないふりをして、だいすきな彼の隣にいたかった。
「今日はありがとう、エリク。楽しかったわ」
その後時間があまりないため慌てて首都へと戻った。そしていつものパティスリーまでやって来ると、アデライドはそう口にする。
エリクは笑顔で言葉を紡ぐ。
「それならよかったよ。……じゃあ、また明日」
「ええ、また明日」
笑みを浮かべ、アデライドはくるりと踵を返し、馬車の待つ通りへと向かう。
もっと彼と一緒にいたい、と叫ぶ恋心は、ヒールで静かに踏み潰した。
馬車に乗って屋敷に戻ると、ちょうどフィリップとファルシェーヌ卿が屋敷から出てくるところだった。
「お兄さま?」
「ああ、アデラ。ごめん、今日は一人で夕食を摂ってくれる? 僕もファルシェーヌ卿も、用事があってね」
そう言うフィリップも、ファルシェーヌ卿も、確かに外出用のきらびやかな衣装をまとっていた。
「ええ、わかったわ。気をつけてね」
「もちろん。アデラもちゃんと夕食を摂るんだよ?」
「それくらいわかってるわ。もう子どもじゃないんだから!」
「僕にとってはまだまだ子どもだよ」
「お兄さま!」
ムッと頬を膨らませるとフィリップは笑ってごまかす。「じゃあね」と言ってアデライドの頭をひと撫でしたかと思うと、すぐさま用意されていた馬車に乗り込む。彼に続いてファルシェーヌ卿も乗り込み、しばらくして馬車は動き出した。
徐々に遠ざかっていくそれを、アデライドはじっと見つめる。
今まで続いてきた、幸福な日常。その終わりの足音が聞こえた気がした。
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