一章(5)

 エリクに手を引かれるがままアデライドは静かに進んでいく。広場を出ても人混みは相変わらずで、周囲は喧騒に満ち溢れていた。やがてつい先ほどエリクとぶつかってしまった場所も通り過ぎ、大通りを道なりに下っていく。


 この通りはどうやら港にまで繋がっているようで、じっくりと目を凝らせば正面に海が見えた。きらきらと輝く海面、そこに映り込む青空、ゆっくりと移動している漁船。


「港に行きたいのか?」


 アデライドの視線に気づいたのだろう、エリクがこちらを振り返って尋ねてきた。

 エリクの質問にアデライドは首を振る。


「いえ、行かなくてわ。ここに来るまでずーっと海の上だったもの。さすがに飽きるわ」


 当時のことを思い出し、アデライドは顔を顰める。

 海の青に空の青。船の上にいる間の景色のほとんどがそれで、正直発狂するかと思った。……いや、時折補給に訪れる島がなければ本当に発狂していた気がする。一週間もほとんど変わらない景色を見続けていればそうなる気がした。


「そっか」


 すると、なにが面白いのかエリクはくすくすと笑う。なんとなくバカにされているように感じてムッとすれば、彼は軽い調子で「ごめんごめん」と謝罪してきた。


「じゃあなんで笑うのよ?」


 モヤモヤしながら尋ねれば、彼はぷいっとそっぽを向く。


「……言わない」


 どこか気まずそうに、照れたかのようにそう口にする彼。その赤茶色から覗く耳は、真っ赤に染まっていて。

 いったいどうしたのだろう? と疑問を抱きながらも、知りたいという欲求は抑えられず、アデライドはさらに尋ねる。


「どうして? わたしに言えないこと?」

「いや、だって……」

「だって?」


 追求すると、エリクはためらいがちに口を開く。


「……可愛いなあって思ったから」


 可愛い。

 その言葉に、まるで火がついたかのように全身が熱くなった。夏も近いとはいえまだまだ涼しい季節のはずなのに、ものすごく暑い。


 思わずきゅっと手を握りしめると、アデライドはそっとうつむいた。正直胸がいっぱいで思考がまとまらない。けれどここで黙り込んでしまえば会話が途切れてしまうから、なにか言わないと。

 混乱する頭でそんなことを思い、とりあえず口を開いた。


「……ありがと」

「……どういたしまして」


 周囲の喧騒に掻き消えてしまいそうなほどか細い声。けれどそれはどうやらきちんと彼に届いたらしく、返事が戻ってきた。

 しかしどう返せばいいのかわからず、会話が途切れる。沈黙が二人の間に横たわった。


(ど、どうしよ……)


 無言のままエリクに先導されながら、アデライドは冷や汗を垂らす。なんとなく気まずい。というかものすごく気まずい。どうにかしてごまかすためにも、会話を続けたいのだが――


(……あれ? ごまかす?)


 一瞬湧き上がった自分の思考につい首を傾げる。いったいなにをごまかすというのだろう? 彼に黙っていることなんてないはずなのに。

 自分の感情が理解できずに戸惑っていると、エリクが急停止した。「わっ」と思わず声を上げれば、彼がこちらを振り返って「ごめん」と謝罪する。


「いえ、大丈夫よ。急に止まって驚いただけだから。――それでどうしたの?」

「いや、ここ、美味しい店だからどうかなって思ったんだけど」


 そう言って、彼はすぐ近くにある店を指し示す。

 それは可愛らしい見た目のパティスリーだった。大きな入口と窓が並んで存在しており、その隙間を埋めるチョコレート色の壁には金色の文字で店名が書かれている。入り口のすぐそばには観葉植物が置かれていて、アデライドの身長よりも大きい窓からは店内の様子が見えるようになっていた。

 思わず小さな歓声を上げる。


「わあっ、可愛らしいお店ね」

「入るか?」

「ええ、もちろん!」


 たかぶる感情を隠すことなくそう答えれば、エリクはクスリと笑って手を差し出してきた。おそらくエスコートしてくれるのだろう。そのことが嬉しくて頬を緩めつつ、アデライドはその手を取って店内へ足を踏み入れる。

 店内も外観とたがわず可愛らしい雰囲気だった。外よりも少しだけ色味の違うチョコレート色の壁に、ちらほらと置かれた観葉植物。そして――


「すごいわね、エリク! すごく美味しそう!」


 カウンターや棚にずらりと並んだ洋菓子の数々。宝石のように輝いて見えるそれらにうっとりしつつ、アデライドはじりじりとそちらににじり寄った。

 するとエリクが笑う。


「気に入ったのならよかったよ。――それで、食べたいものとかはあるか? あっちに食べられる場所あるから、そこで食べよう」


 エリクの示した先を見れば、確かにテーブルと椅子がいくつも並んだスペースがあった。そこでは市民風ドレスを纏った女性たちが、上品な笑顔を浮かべて優雅に洋菓子を口にしている。おそらくここで買ったものなのだろう。

 それなら、と思ってアデライドは洋菓子を眺める。だがいかんせん種類が多い。あれもこれも全部食べてみたくて、一つになんて選べる気がしない。


「うー……」


 選ぶためにじっくりと舐め回すように見ていると、「ふっ」と笑いをこらえるような声がした。そちらを見れば、エリクが口元を押さえて肩を震わせていて。

 ムッと顔を顰める。


「なによ? なにかおかしい?」

「いや、目がものすごく真剣だったから……」


 ぷるぷると身を震わせるエリクに、アデライドはぷいっとそっぽを向いた。


「だってどれも美味しそうなんだもの、仕方ないじゃない!」


 笑われるのが恥ずかしくてそう言い、アデライドは数多の洋菓子に視線を戻した。背後でエリクがなにやら言っているが、無視をしてどれにしようかと決めていく。

 しかし結局目移りしてしまい悩んでいると、


「あー、アデラ……笑ってごめん。お詫びにおごるからさ、きげ――」

「本当!? 奢ってくれるの!?」


 バッと勢いよくアデライドは振り返る。その雰囲気に押されたのか、エリクは若干引き気味に「あ、ああ、うん……」と答えた。

 となると問題が解消する。アデライドは満面の笑みを浮かべ、言った。


「じゃあこの店の商品全部食べたいわ!」

「それはさすがに無理だろ!」


 即座に言葉が返ってきた。さすがにこの店の全商品を買えるだけの資金力がなくて諦めていたのだが、彼が払ってくれるのならば……と上向きかけた気分が急降下した。

 ムスッと頬を膨らませる。


「えー、でも……」

「お腹はちきれるぞ! いいのか!?」

「それは無理ね……」


 そんなことになってしまっては大変だ、と納得すれば、エリクは安心したように息をついた。冗談半分なのだからそんなふうにしないでいただきたい。

 ……残り半分は本気だったのだけれど。


 それにしても、とため息をつく。全部食べるという手段が使えないのならば、どうにかしてこの中から一つ、もしくは数種類を選ばなければならない。それはアデライドにとってかなり難しいことだった。

 はあ、とため息をついてもう一度洋菓子に向き合うと、ぼそりとエリクが言う。


「別に、これから通っていずれ全制覇すれば――」

「それだわ! そうよ、これから三週間かけて全部食べればいいのね! エリク、あなたやっぱりすごいわ!」


 勢いよく彼のほうを振り返り、手を取ってそう告げる。エリクは「あ、ああ」とどこか戸惑った様子で気になったが、とりあえずは注文することにする。

 結局左から数えて五つのケーキを注文した。エリクが大金を払ってくれて「ありがとう」と言うと、アデライドはすぐさま飲食スペースへと向かう。


 席に着席すると、エリクがやって来るのを待って食べ始めた。

 まずはいちごジャムのついた小さなケーキだ。ほろりと口の中でほどけるスポンジ、いちご特有の甘酸っぱさ、滑らかなクリーム。あまりの美味しさに頬を緩めていると、エリクが口を開く。


「アデラって美味しそうに食べるなあ」

「そうかしら? でも美味しいんだもの。仕方ないわよね?」

「んー、まあそうだな」


 苦笑をこぼしながらエリクはそう言う。その視線がちらちらとケーキに向いていることに気づき、アデライドは身をよじる。


「あげないわよ?」

「わかってる。俺もあんまり甘いのは好きじゃないし」

「そうなの?」

「ああ。ただアデラがあまりにも美味しそうに食べるもんだから、食べてみたくなっただけ」


 ひらひらと手を振りながらそう言うエリクの言葉に、少しだけ考える。迷って、あまり甘くなさそうなチョコレートのケーキを一部切り取って口にする。

 ほんのりと口の中に広がる苦味に、これならエリクも食べられるのかもしれないと気づく。

 アデライドはチョコレートのケーキを指差した。


「食べてもいいわよ。元々あなたのお金だし」

「……いいのか?」

「ええ、もちろん。どうぞ?」

「ありがと」


 そう言うと、エリクはテーブルに置かれていたカトラリーを取り、そのケーキを口に含んだ。静かに咀嚼する。


「どう?」


 アデライドが尋ねると、彼はへにゃりと頬を緩めた。


「なんとかいける。――それにしても美味しいな」

「でしょう?」

「なんでアデラが自慢げなんだよ。連れてきたのは俺だぞ?」


 エリクはそう言ってカラリと笑った。

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