一章(2)

 久しぶりに屋敷の外に出たアデライドは、んーっと大きく体を伸ばす。柔らかく顔に当たる潮風に燦々さんさんと照る太陽、遠くから聞こえる街の喧騒けんそう。すべてが心地よくて、やっと外に出られたのだと実感する。


 この屋敷に着いてから一週間、本当にフィリップの言った通り部屋に軟禁されることとなった。せめて体を動かそうと立ち上がろうとしただけでも止められ、安静にするよう強く言われる日々は、正直かなり苦痛だった。今でも思い出したくないほど。

 そんな生活からやっと解放されるのだ。嬉しくて嬉しくて、もう飛んで駆け回って遊びまくりたい!


 ……そんなことをしたらフィリップに大目玉をくらい、再度部屋に軟禁されるかもしれないので絶対にしないが。


 とそんなことを思っていると、見送りに来てくれたフィリップが「じゃ、行ってらっしゃい」と言ってきた。アデライドはくるりと体を反転させて彼のほうを見ると、「行ってきます」と言って門へ向かって歩き出した。


 この一週間フィリップがなにをしているのか正直よくわかっていないが、どうやらアデライドに負けず劣らず屋敷にこもりきりの生活だったらしい。軟禁されていたのでよくはわからないが、使用人たちの話を盗み聞きしたところそうだとのこと。時折屋敷を訪れる人々となにか話をしているようだったが、さすがにその内容まではわからなかった。


(まあ、お兄さまもきちんとやりたいことをできていそうでよかったわ)


 一人安堵の息をつく。

 アデライドがこの国に来たのは、元々この国に来る予定だったフィリップについて来たから。つまり彼は観光ではなく、なにか別の目的を持ってこの国を訪れている。あまり振り回してしまうのはよくないことくらいは理解できていた。


 そんなことを思いながら門を出て、とりあえず賑やかそうな海の方向へ向かって歩いていく。しかし大きな家ばかりが集まる地区なのか、進んでも進んでも賑やかなところにたどり着かない。


「……馬車、頼めばよかったかもしれないわね」


 はあ、とため息をつく。今更後悔してももう遅い。かなりの距離を歩いたため戻るのも一苦労なのだ。


「せめていつもの靴にしたかったわ……」


 そう思いながらアデライドは自身の体を見下ろす。

 今日のドレスは今まで着ていたものとは違い、この国で流行っているものらしい。シルスター王国では少し前によく着られていたもので、スカート部分にボリュームがありながらも、後ろでたくし上げられているため歩きやすい、華やかさと可動性を備えたタイプだ。それはいい。


 けれど今までのドレスはヒールのないフラットな靴を合わせるのが普通だったのだが、このドレスはヒールのあるしっかりとした靴を合わせなければならないのだ。

 ヒールは苦手だ。窮屈で痛いし、どうしてわざわざこんなものを履かなければいけないのかと思う。だからせめて、今まで通りの靴を履きたかったのだ。似合わなくてもいいからとにかく楽をしたい。


 はあ、と盛大なため息をついてとぼとぼと足を進める。街に着く前から憂鬱だ。せっかく異国に来たのだから楽しまなきゃとは思うものの、どうしても気分は盛り上がらなくて。

 そんなふうに歩いていると、少しずつ街の喧騒が近くなってきた。気分は落ち込んだままだったが、とりあえずそちらを目指して進み――


「うわあ……! すごい!!」


 広場のような場所が見えてきた途端、アデライドは思わず歓声を上げる。


 そこには数え切れないくらいの人が密集していて、かなりの数の屋台も出ていた。こんな数の人なんて見たことないし、肉の焼けるような美味しい匂いが漂ってきて、つい先ほど昼食を食べたばかりなのに小さくお腹が鳴る。

 落ち込んでいた気分が急上昇し、アデライドは駆け足に広場へと向かった。


 人でごった返していたそこはかなり動きづらく、なかなか進まなかったものの、しばらくして人の流れに逆らわなければいいのだと気づく。そうすれば人と人の隙間を苦労して進む必要もないのだ。


 なるほど、と思いながら人の流れに沿ってきょろきょろとあたりを見回す。これから仕事場へ向かうのだろうか、きっちりとした身なりの人もいれば、主婦だと思われる人もいる。時折十歳ほどの子供が楽しそうに騒いでいて、見ているだけでも楽しい。


 広場を抜け、来た方向とは反対側の道にも屋台が連なっていたが、それ以外にもレストランや服屋などの店も軒を連ねていてより賑やかだ。ショーウィンドウなどを眺めたり屋台の品物を眺めたりしながら、アデライドは大通りを観光する。


 と、そのとき。

 ドンッと誰かとぶつかった。


(倒れる――!)


 反射的に目を瞑ったものの、地面に尻もちをつくことはなかった。ぐいっと腰を引っ張られ、倒れる途中で支えられる。

 はあ、と、安心したような吐息。

 おそるおそる目を開けると――


「あら、あなた」


 そこにいたのは、つい一週間前にもぶつかった少年だった。


 今日もぶつかるなんて、と珍しい出来事に思わず目を見開く。少年のほうもアデライドが以前ぶつかったことのある相手だと気づいたのか、「あなたは……」とどこか呆然としたように呟いた。

 お互いに軽い放心状態で見つめ合い――先に動いたのは少年のほうだった。


「あのときはすみませんでした」


 アデライドはハッと我に返ると、少年の腕から抜け出すようにしてしっかりと立つ。


「い、いえ。あのときも言ったけど、わたしもちゃんと見ていなかったし、お互い様だわ」

「ですが、怪我を――」

「大丈夫よ。もうちゃーんと治ったもの」


 安心させるためにそう言って笑えば、少年は「それならよかったです」とほんのりと笑みを浮かべて言う。

 目の前の彼が笑ってくれたことに、アデライドはそっと安堵の息をついた。なぜか異様に気に病んでいた様子だったが、怪我と言ってもただの捻挫なのだ。それほどまでに心配されるとむしろ心苦しくなる。それに捻挫というものを経験できたのはちょっと嬉しかったし。


「それにしてもすごい偶然ね。まさかまたあなたに会うなんて。しかもまたぶつかってよ? こんなことめったにないわ」


 アデライドがクスクスと笑いながらそう言えば、「確かにそうですね」と言って少年が苦笑する。


「俺は……散歩をしていただけですけれど、あなたは?」

「わたし? わたしは観光よ」


 すると少年は笑みを深めた。


「いいところでしょう? みんなが笑っていて、なんにでもなれて、幸せになれる。ここはそんな自由の国なんです」


 誇らしげに笑う少年からは、この国が好きだという気持ちが表れていた。その笑顔だけで、この国が本当にいいところなのだと容易に推測できる。


「そうね。まだあんまり回れていないけど、いいところだってわかるわ」


 アデライドは周囲を見回しながら言う。行き交う人々も目の前の彼も、みんなとても幸せそうで、いいところなのは間違いないだろう。

 そのとき、なにを思ったのか彼はしばし考えるような動作をした。ゆっくりと口を開く。


「――まだあまり回れていないのなら、私がご案内しましょうか?」

「…………案内?」


 アデライドは目をぱちくりさせる。彼の言葉は理解できるものの、ちょっと唐突すぎて目を見開いてしまう。

 それを知ってか知らずか、少年は「はい、そうです」と頷く。


「先日も今日もぶつかってしまいましたし、そのお礼としてどうでしょう? 私にも仕事があるので、非番のときだけになりますが……」

「本当に?」


 ちょっぴり期待しながらアデライドはそう尋ねた。ちょうど一人きりでひたすら観光するのもあまり面白くないと思っていたところだ。素直に嬉しい。

 それが伝わってしまったのだろうか、少年は苦笑しながら頷く。


「じゃあ……お願いするわ」


 少し恥ずかしかったけれど、彼の提案はまさに渡りに船ということで頼むことにした。少年はクスクスと笑って「では今日からよろしくお願いしますね」と言う。

 アデライドはムスッとした表情を浮かべ、少年に人差し指を突きつけた。


「ただし、条件があるわ!」

「……条件? いったいなんでしょう?」


 不思議そうに首を傾げる彼に、アデライドはふふんと笑って言い放つ。


「あなたももっと砕けた態度を取ること! とりあえず敬語はなしよ。いいわね!?」


 アデライドの条件が予想外だったのだろうか、少年は目を白黒させる。

 初対面に近いものだから仕方ないかもしれないが、この少年は距離を置いた態度を取っていた。そのことがなんとなく嫌で、この際だからと頼むことにしたのである。

 少年はわずかな逡巡ののち、


「はあ。……わかったよ」


 と、ため息とともにそう答えた。

 アデライドはにっこりと笑って「よろしくね」と言ったのだった。

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