3-5 黒山羊




 ぱちり。と瞼を開いた先に在ったのは、白の天蓋だった。

 口から吐きだされる荒い呼吸に、皮膚をじっとりと湿らせている汗。それを拭いながらゆっくりと身を起こし、私は一つ深く息を吸い、吐く。


「――あれは、本当に……全部夢?」


 怒り狂いながら私を縊り殺した牛宮。

 否定されたが故に私を縊り殺した花陽。

 自身の愛を貫くために私を縊り殺した天立。

 礼と謝罪の言葉を重ねながら私を縊り殺した柳。

 夢にしてはあまりにも生々しい記憶。それを思い出しながら、私は一人頭を抱えた。

 此処は、柳が語ったように仮想現実の世界なのだろうか。

 此処は、私が柳のために創った世界なのだろうか。

 ならば、何故私はこうやって再び目覚めたのだろうか。

 柳が語った事柄が全て本当であったなら、彼に殺された私は『被害者』として現実世界へと戻っているはずだ。

 しかし私はまだ此処に居る。この仮想現実とされた世界を繰り返し続けている。

 嗚呼、それとも今見たものはすべて私の脳が創り出した虚構と呼ぶべき夢であり、今が本当の現実なのだろうか。否、そもそも私はいったい何の為に、何を目的として此処に居るのだろうか? 勿論、果たさなければならない何かが在るのは分かっている。けれど、ソレはいったい何だ? 嗚呼、それどころか私はいったい誰で、本当の名前は何で、何処で生まれて、何処で育って、何処の学校へ通っていた? 学友の名は? 家族の名は?

 いくら考えても出てくることのない自問への解。分かることはただ一つ、私は何も覚えていないということだけ。

 自分の本当の名前どころか、自身が果たさなければならないことさえも忘れてしまっているということだけ。

 「はぁ……」と溜め息を吐きながら見つめたのは、天蓋越しに映る赤い色を主とした広い客室。灯りが点いたままのその部屋にある窓は、昨日……あるいは夢と同じく激しい風雨によって打ち鳴らされている。

 そんな変容さを感じられない部屋に一抹の安堵を覚えた刹那、コンコン、と部屋の扉が叩かれた。

 ちらり、と枕元に置かれているデジタル時計の時刻を窺えば示されていたのは2の数字。

 嗚呼、一体こんな夜更けに、誰が私の部屋を訪れてきたのだろうか。

 身体を強張らせた私は無言のまま、扉の前に居るであろう誰かが去ってくれないかと待つ。けれど扉の前に居るその誰かは、私が起きていることを知っているかのように再び扉を叩いた。


「……っ」


 小さく息を飲みながらコンコンコン、と叩かれる扉を睨みつけていれば、「マリア様。ジルです……扉を開けていただけますか?」と、扉の向こう側からジルの声が聞こえてきた。

 だが流石に彼が相手であっても、今このタイミングで部屋の扉を開けようとは思わない私は黙したままその扉に目を向け続ける。

 そんな静寂の間に対し、扉の向こう側に居る彼は痺れを切らしたのだろう。ガチャガチャと激しくドアノブを鳴らした後、「しかたがありませんね」との言葉と共に鍵を差し込む音が響いた。

 ぎぃ、と軋んだ音を立てながらゆっくりと開かれた部屋の扉。そこから現れたのは、間違いなく此度の「ミステリーゲーム『白鳳邸殺人事件』」の審判役を務めているジル・ド・アントその人だった。


「じ、ジル……?」


 何故。どうして。何の目的でこんなことを?

 あふれ出る彼への問いは言葉にならず、ただただ私の喉を下り降りてゆく。


「――マリア様。貴女のその苦しみに歪む顔が、わたくしは一等好きなのです」


 嗚呼、彼もまた私を殺すのだろうか。

 今もなお、あの悪夢の如き虚構から目覚めきれていないかのような思考に囚われてしまう私は頭を振る。だがそんな私の小さな抵抗を無意味だと揶揄するように、黒い彼はベッドの方へと近付いてくる。


「嗚呼、どうやらようやく至ったようですね」


 天蓋越しに迫ってくるその姿を眺めながら、私は「っ、あ……」と引きつった声を漏らす。

 嗚呼、嗚呼、嗚呼! 彼もまた、他の彼らと同じく私を殺すのだろうか。今まで見た夢と同じように、拒絶する私の喉を締めて、縊り殺すのだろうか。

 自覚している以上に恐れを抱いているのだろう。声を上げることも、逃げ出すことも出来ない身体は、ただただ強張るだけで碌な挙動を示してくれない。

 そんな私を見下しながら傍までやって来たジル。彼は私を囲む薄い天蓋を開き、私の居るベッドへと腰掛けてくる。


「嗚呼、マリア様。そんなに怯えてくださって――わたくし、大変喜ばしいです」


 私の怯えが、喜ばしい? 彼の趣味趣向をとやかく言うつもりは毛頭ないが、それでも当人を目の前にしてそのような皮肉めいた言葉を発するのはいかがなものだろうか。


「わたくしは、貴女のその有様を愛おしく思っているだけですので」


 「そこまで怯えてもらわなくてもよいのですけれどね」と、付け加えられる彼の言葉は、最早私には支離滅裂の物としかとらえられない。嗚呼それこそ、右から左へと聞き流すべき代物であるに違いない。

 ベッドに腰掛けながら意味不明な言葉を吐いた彼は、おもむろに私の手を取り、その甲をやわくなぞった。


「っ、」


 節くれだったジルの固い指が私の手の甲を這いまわる度。それこそ愛おしげなまでに手を揉み撫でられる度、ぞわぞわとした不快感がせり上がってくる。

 嗚呼、これ以上はいけない。これ以上、彼の好きにさせてしまってはいけない。

 脳内でけたたましいほど鳴り響く警告音に背を押され、私は強張っていた身体に力を込める。そして不快感を与えてくるその手を拒むため、腕を振ろうとすればそれさえも見越していたのだろう。やわく私の手の甲を撫でているだけだったジルが私の手首を掴み、その顔に歪な笑みを浮かべた。


「じ、ジル……貴方、いったい何をするつもりなのですか」

「安心してくださいマリア様。すべては皆、貴女のためなのですから」


 ええ、ええ。こんなわたくしではありますが、その想いに偽りは有りませんので。

 またしても支離滅裂な言葉を吐いた彼は、自身が着ている黒の執事服から何かを取り出し、私の左の薬指。ダリアから与えられた指輪が収まっている箇所に、ソレを嵌めた。


「これ、は……!」


 私の指に連なる全く同じ二つの輪。

 そう、彼が私の指に嵌めたのは、ダリアが私へと与えたダリアの花を象った指輪と同じ代物。ソレを確認しようと、そっと右の手でその指輪に指を触れさせた瞬間――私の視界は暗転し、耳に一つ。彼女の声が響いた。




「おやすみなさい、お姉さま」

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