3-4 柳




 ぱちり。と瞼を開いた先に在ったのは、白の天蓋だった。

 どうやら考えごとをしながらそのままぐっすりと眠りこけてしまっていたらしい。枕元にあるデジタル時計が二十二時三十七分を表示しているのを確認した私は自身の頭を枕に乗せ直す。


「……っ」


 【妹】であるダリアに送られた、ダリアの花を象った指輪。それを無意識的になぞれば、私の脳裏に先程見た夢が。それこそ、悪夢と表現した方がしっくりとくる幾つかの夢が駆け抜け、私の記憶を撹拌してゆく。


「私は、私は……誰?」


 牛宮蒡、花陽ゆかり、天立ユラ。白鳳邸殺人事件と名のついたミステリーゲームの参加者であり、現時点での生存者でもあり、私の知らない私と面識のある彼らは私を「ダリア」と呼んだ。彼らを知らない私を。「私」の思い出を失ってしまっているが故に、自身が「ダリア」であるのか半信半疑である私を。彼らは一様に「ダリア」と呼び続け――そして、 三人共が同じく私を縊り殺した。

 どこかリアリティを帯びた夢。

 今の私が在る現実ではないものの、正当的な繋がりさえ見出してしまいそうになる明瞭な夢。

 そんな悪夢の中で必ず出会う私の最期。牛宮か、花陽か、あるいは天立かに首を絞められ、殺される最後。その印象が強く残る自身の首元を摩れば、じっとりとした汗が掌を湿らせてくる。


「アレは、夢。ただの夢。でなければ、私が生きているはずがない」


 今こうやって、生きているわけがない。所詮は夢。私の脳が創りだした、あり得ざる妄想の塊。

 されどその夢が妄想であることを理解していても、交感神経の高まった身体は熱を帯び、冷ややかな水分を要求し始める。


「水……、嗚呼でも、部屋からは……」


 部屋を出てしまったばっかりに殺されてしまう夢を見続けたせいだろう。此処が夢ではない現実世界であることを理解していても、部屋から出ることに聊かの不安を抱いてしまう。

 しかしずっとベッドの上に居るわけにもいかないため、ベッドから立ち降りた私は部屋に併設されている浴室兼、洗面所へ移動し蛇口の栓を捻ってみる。

 少なくともそこから出てくるような水は飲み水に適するような物ではないかもしれない。だがそれでも咥内をゆすぎ、ある程度の渇きを緩和する程度であれば問題は無いはずだ。

 だが、幾ら蛇口の栓を捻ってみてもそこから水は出てこなかった。


「故障……?」


 宇野下草子と姉川萌音の死体発見場所である下階のバスタブ。そこにはなみなみと湯が、あるいは水が張られていたから、この故障、あるいは欠陥はこの白鳳邸全体のものではないだろう。だがこの不調はどうにかしてもらわなければ。

 身体を清潔にするために必要不可欠な、洗浄行為。それが出来ない、保てない、というのはある意味人間としての尊厳が危うくなるし、何より健康面にしても衛生面としても、容認したくはない。嗚呼、今すぐにでもこの白鳳邸の執事であり、ゲームの審判役でもあるジルを呼んで配管の修復、あるいは部屋の移動をしてもらわなくては。

 他人の前に立つ一応の配慮として軽く身を整えた後、私は部屋から顔のみを出して「ジル、来てくれる?」と大きく声を放つ。しかしいくら彼の名を呼び、待ってみても来てくれることはなかった。


「彼に繋がるという屋敷内の内線番号も知らないし……これは、自分で彼を探しに行くしかなさそうですね」


 乾く唇を舌で舐め、私は意を決して部屋を出る。


「あんなもの、所詮は夢……」


 縊り殺されたのはただの夢。いくらリアリティを帯びていようとも。いくら正当性のある繋がりを見出せようとも。所詮は私の妄想であり、夢。

 だからもし途中で牛宮や花陽、天立と出会おうとも、けっして彼らを恐れてはいけない。この現実の彼らと、私の脳が創り出したあの夢の中の彼らは、同一ではないのだから。

 邸内に続く赤い絨毯の道に沿って並ぶ夜の色を映す窓。相変わらず外では雨が降っているようで、激しい風雨がその窓を打ち鳴らしている。


 ざあざあ。

 ごうごう。


 まるでノイズのように響き渡るその音を聞きながら飲料水が在るだろう談話室を目指す。勿論、その間もジルの姿が在りはしないかと確かめたが、結局彼の姿を見つけられなかった。否、それどころか誰一人とさえ会うこともないまま談話室の前へと辿り着いてしまった。

 二十三時前という時分で皆が寝ているとは到底思えないのだけれど……もしかして何かあったのだろうか。それとも私以外の生存者全員この扉の先に居るのだろうか。

 そんな考えを抱きながらゆっくりと目の前の扉を開き、内部の様子を伺う。だがそこには煌々とした明かりは存在せず、ほの暗い空間だけが広がっていた。

 一応、開いた扉の元である廊下から入り込むわずかな光束が室内を照らしているため、障害物になりえるソファやローテーブルの位置は把握できる。が、いささか心もとないものであるのは確かだろう。


「まずは、明かりを点けましょうか……」


 「失礼しますね」と誰一人居ないながらも声をかけ、談話室の中へと入った私は室内の明かりを点ける。そしてまずは咥内の渇きを解消するべくグラスに水を注ぎ、ゆっくりとあおった。


「っはぁ……」


 明るい談話室から見えるテラス。その先にある中庭は黒々しいとさえいえるほど暗い。だがその黒に混じるようにして、一つの人影が動いているのが目に入った。


「あれは……柳さん?」


 柳道明。午前中、私と一緒に他のゲーム参加者から話しを聞いて回っていたその人が、悪天候である外で、何かをしている。

 嗚呼、彼はいったい何をしているのだろうか?

 胸中に沸いたその疑念を解消するべく、彼の居るテラスとこの談話室を隔てている掃出し窓へと近付き、その境界を開く。そうすれば、屋根のあるテラス越しであるというのに激しい風が雨の粒を伴いながら部屋の中へと吹きこんできた。


「っ!」

「え、あれ……明かりがって、ま、マリアちゃん? なんで此処に? あっ、もしかして何かあったのかい?」


 よほど集中していたのだろうか。談話室の明かりが点いていたことにも気が付いていなかったらしい柳が私の元へと駆け寄り、談話室の中へと押し戻す。そして開かれた掃き出し窓をピシャリと閉めた。


「って、マリアちゃん。すごく顔色が悪そうだけれど、大丈夫かい?」


 真っ青じゃないか! と声を上げ、「ああどうしよう」と慌てふためく柳。


「大丈夫です、柳さん。ただ、夢見が悪かっただけですから」

「夢? ……そっか、そうだよね。うん、今日はいろいろなことがあったからね、きっと戸惑っているんだね」


 私の発言のどこにもおかしな発言はないと思うのだが、「夢か……夢、ね」とやたら「夢」という単語を繰り返す柳。


「……そんなことより、私としては柳さんがまた濡れて……いえ、汚れていることの方が心配ですし、何よりこんな悪天候の中、しかも夜更けに土仕事をしているとなると、他の参加者に正気を疑われますよ?」


 いったい何時から外に出ていたのかは定かではないが、頭のてっぺんから足の先までぐっしょりと濡れている柳。そんな彼の靴には勿論のこと、ズボンのすそやシャツの袖には泥と思しき汚れも付着しており、私は眉根を潜めた。


「え、あ……ああ。そ、そうだね。うん、うん……忠告、ありがとうねマリアちゃん。でも昨日も言ったけれど、此処ではそういうのは大丈夫だから、気にしなくても良いんだ」


 いったい何が大丈夫で、気にしなくてもいいのだろうか。

 しかしそんな疑念を抱く私をよそに、柳は優しげな笑みを浮かべ「そうだった。実は俺、マリアちゃんに聞いてもらいたいことがあるんだよ。座って座って」と私をソファへと誘導し、強制的に座らせてくる。

 そして柳自身もまた汚れたままの状態で、私の向かいのソファへと腰を降ろした。


「……それで、柳さんの聞いてもらいたいこととは、いったい何ですか?」

「えっと、ね。今日あった事件を、俺なりに解釈して、考察したのを、マリアちゃんに聞いてもらいたいんだ……」


 言葉を選ぶようにしてゆっくりと発された柳の声。その声をすべて聞き終えた後、私は一つ頷き「聞きましょう」と答えた。







「なら、まずは端的に。今日の午前中に起きた事件……ダリアちゃんの事件以外についての犯人、あるいは黒幕を前述として語っておこうか」

「ダリアさんを殺した犯人ではなく、それ以外の事件の犯人、あるいは黒幕ですか?」

「うん。というよりダリアちゃんの事件については、犯人を絞り込めるほどの証拠が見つからなくてね。未だに誰が殺したか分からない状態なんだ。ごめんね」


 ローテーブルを挟んだ向かいに座る柳がぺこりと頭を下げ、謝罪してくる。


「柳さんが謝ることではありませんから、頭を上げてください。それより、柳さんの解釈と考察で導き出された犯人、あるいは黒幕とはいったい誰なのですか?」


 余計な口を挟んでしまったばっかりに途切れさせてしまった柳の発言。その先を求めれば、彼はごくりと喉を鳴らし「あくまでも、これは俺の考察だからね」と改めて念を押す。


「それは……、天立君だよ」

「天立ユラさん、ですか?」


 「うん」と頷き、私の目を見つめる柳。その瞳に込められた色は真剣そのもので、彼が本気でそういっているのが見て取れた。


「その根拠はいったい?」

「天立君が黒幕であると導き出した理由の第一。それは、時間的に自由だったのが彼しか居ないから、だね。そして第二は、彼が人の上に立つタイプ。いわば、統率者に通じる人だから、かな」


 第一の根拠として柳が語った「時間的に自由だった」という点は、私としても同意できる。少なくとも天立は現在生き残っているゲーム参加者たちの内で唯一、午前中という時間において自由だった人間なのだから。

 けれど第二の根拠として柳が上げた「彼が人の上に建つタイプ。いわば、統率者に通じる人だから」という事柄については同意しかねてしまう。


「天立さんが統率者タイプ、ですか? 私には彼がそのような類の人物には見えませんでしたが」

「うーん、そうだなぁ。統率者というより、カリスマ性を持っている誘引者。ある種の教祖……と言ったら、ピンとくるかな?」

「誘引者、ですか。なるほど、ソレならまだ同意できますね」


 天立ユラは統率者ではなく、蝶や蜂を集わせる芳しい香りを携えた美しい花――すなわち誘引者である。

 万人を惑わす魅力的。ないしは蠱惑的な顔に、崩されることのない笑み。そしてそんな彼から贈られるであろう「愛」の言葉。それらに魅了され、拐かされ、彼へと倒錯してしまう人間は五万といることだろう。

 だからこそ彼はあんなにも自己中心的な存在に、なり果ててしまった。

 最後の発想こそ夢の中での出来事に過ぎないが、それでもこの現実と接点を見出せてしまっている以上あながち間違いではないだろう。だが、結局は夢は夢であり、現実に介入していい代物ではない。

 余計な雑念を振り払うべく私は頭を振り「では。柳さんの考えの中で、黒幕である天立さんはどのようにして犯行に及んだのですか?」と柳へ問いかける。


「ああ、違うんだマリアちゃん。天立君は自らの手で犯行に及んだわけではないんだよ」

「自らの手で、犯行に及んだわけではない……?」

「うん、そうなんだ。まず初手として、天立君は同伴者であるユウガオちゃん、オトギリちゃん、アザミちゃんに月山君を殺害させた。勿論、可能性としては天立君のために彼女たちが勝手に行動した、という線も考えることはできるんだけど、彼女たちが死んでしまっている以上、天立君が彼女たちに指示した、と考えたほうが妥当なんだよ」


 一旦言葉をそこで区切り「とはいえ、これはあくまでも俺の持論だから、間違っているかもしれないけれどね」と補足し、そのまま柳は「どうかな?」と私へ意見を求めてくる。


「理解は、できます。少なくとも昨日の一件で月山さんが持つ女性に対しての警戒心が著しく薄いことを私は体感していますし、そんな彼が部屋へと押しかけてきた彼女たちを迎え入れることも用意に想像できます。ですが……」

「ですが?」

「どうして、彼女たちは月山さんを殺害したすぐ後に死なねばならなかったのですか? いえ、勿論口封じのために殺害されたということは、理解できるのです。ですが、天立さんのために殺人を犯すような方々であれば、まだ使い道があったはずだとも、考えられるので」


 九時半ごろから十時にかけて、この談話室で電子ドラッグのオーバードーズにより死亡したユウガオ、オトギリ、アザミ。そしてそんな彼女たちの死に巻き込まれるような形で死亡した白木の姿を思い出す。


「それは、うん。あくまでも俺個人の解釈なんだけどね……もう彼女たちが不要になったから、かな?」

「不要になったから?」


 天立ユラは、少なからず彼女たちを「愛」していたのに?

 そう言ってしまいそうになる口を押さえ、私は思い直す。彼が彼女たちを愛していた、と語ったのは私の妄想たる夢の中で、だ。現実世界において、天立は彼女たちを愛しているなどとは言っていない。

 夢の中の出来事を明瞭に憶えてしまっているせいで、夢での記憶と現実での記憶が混濁してしまう私は大きく息を吐く。


「ああごめんね。そんな突き放すような代物じゃあないんだよ。ただ、月山君を殺害できさえすれば、後はむしろ弊害になると考えたから、ちょっと退場してもらっただけなんだよ。うん。ああ……、それで次は……彼女たちの殺害方法を、語ってもいいかな?」


 私の吐いた大きな息を、苛立ちや呆れと受け取ってしまったのだろうか。どこか慌てたような素振りをみせた柳に「構いません」と短く言葉を返す。

 苛立ちや呆れ、そうとられても構わない。今はただ、夢と現の境が曖昧になっている私を彼の言葉でこの現実にとどめておいてほしい。


「なら、ユウガオちゃんたちの殺害方法について話すね。……ほら、天立君も証言していただろう? 彼女たちは三人とも、リラックス効果を求めて電子ドラッグを愛用していたって。であれば、殺人という凶行に及んでしまった後、彼女たちが心の安定のために電子ドラッグを使用することは彼女たちを良く知る天立君なら容易に想定できたはずだ」

「だから月山さんの殺害後、三人が電子ドラッグを使用すると想定した天立さんが彼女たちの使用する電子ドラッグを、規定値を大幅に超えた……それこそ、脳破壊をしてしまえるほどの物へとすり替え、口封じの如く彼女たちを殺した、と?」


 少なくとも彼の話を理解しているのだと示すためそう確認すれば、彼はほっと息をこぼし、「うん、そうだよ」と頷いた。


「ならば、何故この談話室だったのですか?」

「そりゃあ電子ドラッグそのものを直接体内に入れるわけにはいかないからね。飲み水などがある此処に来るのは当然じゃないかな?」

「電子ドラッグを使用するのに、飲み水が必要なのですか?」


 電子ドラッグ。といえば麻薬のように脳内に作用し、多幸感や安楽、幻覚をもたらすようなコンテンツであり、飲み水どころか口にするべき代物ではないと認識していたのだが、そうではないのだろうか?


「あれ? マリアちゃんは電子ドラッグがどういうものなのか、知らないのかい?」

「はい。ですので、ご教授いただければ幸いです」

「えっと、そうだね。でもこれは、どこから説明したらいいのかな……」


 電子ドラッグの概要について説明するにあたり、何か困ることがあるのだろうか? と、疑念を抱くが、教えてもらう立場としてはその程度のことについて口を挟むべきではないだろう。彼が説明してくれるのを忍耐強く待っていれば、意を決したようにして柳が口を開いた。


「えっと、まずは確認なんだけど……マリアちゃんは、此処がバーチャル・リアリティ。の世界だってことは、知ってるよね?」

「バーチャル・リアリティ……仮想現実、人工現実」


 その単語が聞き間違いではないのだと確かめるように、私は柳の言葉を噛み砕く。


「そう、仮想現実、といえばわかりやすいよね」


 「それがちゃんとわかっているなら話は早いかな」と、はにかんだ柳。彼の浮かべたそのやわらかな表情からは、嘘偽りは伝わってこない。むしろ本当のことを語っているのだという真摯ささえ伝わってくる。


「……そう、ですね」


 内心の焦りを、この世界が現実ではなく仮想であったのだという認識の齟齬を柳に悟られないようにと、私は「是」、ないしは「同調」を示す言葉を吐いておく。

 嗚呼そうか、此処は現実などではなく、仮想の世界なのか。

 そう自身の意識を改め、私は私の中にあるいくつかの認識齟齬を埋めていく。

 此処は現実などではなく、仮想の世界。

 だからこそこのミステリーゲーム『白鳳邸殺人事件』の参加者たちは皆、死を恐れなかったのだ。一人、宇野下草子は死に恐怖したが、それは死に様に恐れを抱いただけであり、『死ぬこと」そのものに恐怖したわけではない。

 だからこそ天立ちは「愛していた」はずのユウガオやオトギリ、アザミを用意に殺した。少なくとも現実世界に戻れば彼女たちは彼の隣に戻るのだから。

 だからこそ柳は風雨にさらされても「大丈夫だ」と言ったのだ。


「えっと、それで話を戻したいんだけど……マリアちゃん大丈夫? もしかして具合が悪いのかい?」


 もとより顔色が悪い、というのも相まってだろう。やや俯きがちな体勢になりながら認識の齟齬を埋めていた私を気遣うように、柳が声をかけてくる。


「……いえ、お気になさらず。それで、この仮想現実においての電子ドラッグの概要と、使用方法を聞かせてください」

「そうかい? マリアちゃんがそう言うなら、良いんだけれど……もし本当に具合が悪いならすぐに言ってね?」


 電子ドラッグについての情報を求めた私に対し、聊か不安げな表情を浮かべながらも頷いた柳は大きく息を吸い、再度口を開く。


「まずは、電子ドラッグの概要をするね。えっと、さっき確認したように此処はバーチャル・リアリティ、いわゆる電脳空間だ。だから此処では精神に様々な作用をもたらす物質や物体を総称として『電子ドラッグ』と呼んでいるんだ。使い方は現実のものとはちょっとだけ違って、そのまま電子ドラッグ本体を体内に取り込むわけにはいかないから、『飲食物』に該当する物……つまり、今の場合だとクッキーや、水とかに電子ドラッグを混ぜてからアバターの体内に入れるんだ。つまり電子ドラッグのデータが入った水やクッキーがTPSバトルロイヤルゲームとか、VRRPGとか、MMORPGの類で使う傷薬やポーションのような体力ゲージを回復させるアイテムになるってことで……、今俺たちがプレイしているこのゲームは体力ゲージのないミステリーゲームだから、体力を回復するためじゃなくて、精神的な作用の物がメインで……っと、ごめんね、ちょっと話が脱線してしまったかな?」


 説明したいことが絞りきれていないのだろう。過剰と言えるほどの説明を一旦区切った柳は、「電子ドラッグの使い方は、実例で見せた方が早いかもしれないね」と座席から立ち上がる。そして、さほど間を空けずに水の入ったコップを持って戻ってきた。


「えっと……まず、これを」

「これは?」


 水の入ったコップを片手に自身のポケットから極少サイズのメモリを取り出し、私へと渡してくる。


「それはちゃんと処方された精神安定剤であって電子ドラッグとは違う物なんだけど、使用方法は全く同じだから例としてね」


 「そのメモリ、この中に入れてみて」と持っていたコップを差し出してきた柳の指示に従うように、手渡されたメモリをその中へと入れれば、パリッと小さな電流の走るような音が響いたと同時に、メモリが水に溶け消えた。


「あ、」

「うん。これで出来上がり。そしてこれを飲めば、さっきのメモリに入っていた精神安定作用をもたらすデータを体感することができるんだ。……っと、電子ドラッグの概要とか使用方法について俺が説明できるのはこれぐらいしかないんだけど、マリアちゃん分かったかな?」

「……電子ドラッグはこの仮想現実、電脳空間で使用されるからこそ『電子ドラッグ』と呼ばれており、基本はメモリチップのような形をしている。使用方法としては『飲食物』たる水やクッキーに混ぜることで、メモリ内に入っている安定剤やドラッグに類似したデータを取り込む……ということで大丈夫ですか?」


 柳のしてくれた説明を自分なりの言葉で説明し直せば、向かいに座る彼は満足したように「説明下手な俺の言葉をきちんと理解してくれて助かるよ」と笑みを浮べ、何度も頷いていた。


「ただね、マリアちゃん。このバーチャル・リアリティでこういった物を摂取するのは、かなりリスキーなことなんだ」

「……具体的にはどのように危険なのですか?」


 薬も過ぎれば毒と成る。というように行き過ぎた量と、行き過ぎた回数ソレ等の物を摂取し続ければ身体に対して悪影響が出てくるのは容易に判断できる。だが現実問題として、このコップの中に入っている精神安定剤も、ユウガオたちを殺した凶器でもある電子ドラッグも所詮はデータであり、脳に与えられるのは擬似的な感覚にすぎないはずだ。


「一言で言ってしまうのなら、『直接脳に届いてしまうから』かな。このバーチャル・リアリティで受けた五感の刺激情報は俺たちの脳に直接送られて擬似的に、それも即時に、体感しているように誤認させているんだ。ただ、その状況下でこういった精神安定剤とか、電子ドラッグなんかを使い続けたりすると、脳がマヒするというか、耐性がついちゃってもっと強い物を使わないと効き目を感じられなくなったり、現実世界での薬もあまり効かなくなったりしてしまうんだ。最近では、そういうのが頻繁にニュースでも取り上げられていて問題になっているよ。勿論、こういったバーチャル・リアリティを体験したりするための製品を製造しているメーカーには、安全装置の設置が義務づけられているから過剰に心配するほどではないんだけど……やっぱり相手は人間だからね。そういうのをかいくぐるような物も出て来てしまうのは世の常というか……もし、もしだよ? 許容量を大幅に超えた物を摂取してしまったら、それこそユウガオちゃんたちみたいに『脳破壊』としてログアウトしてしまったりしたら、最悪の場合現実世界で廃人同前になってしまうという実例もあって、ええと、だから……」

「薬も過ぎれば毒と成るし、もしオーバードーズ……『脳破壊』として仮想現実内で死亡した場合は現実世界でも廃人になる可能性が高い。故に、この場所で電子ドラッグ等を使用するのはリスキーであると、そういうことですね。……嗚呼、だからこそユウガオさんたちが『脳破壊』でなくなった際、皆さん気まずそうな顔をされていたのですか……」


 ユウガオたちの死因をオーバードーズによる『脳破壊』だとジルに定言された際の他の参加者の顔。それらを思い出しながら柳の長い解説を要約すれば、彼は改めて満足したように笑い「理解が早くて助かるよ」と安堵の息を吐く。そして、精神安定剤が入れられたコップに口を着けた。

 嗚呼。持っているという時点で疑うべきだったのだが、彼もまた電子ドラッグならぬ精神安定剤の常飲者なのだろう。

 危険な物である。と言っておきながら私の目の前でソレを使用する柳の豪胆さに聊か眩暈を覚えながら、私は話を元の主軸へと戻すため「では」と口を開いた。


「ユウガオさんたちが月山さんたちを殺害した後、電子ドラッグを使用するために必要な『飲食物』を求めて談話室へ来、オーバードーズと成り死亡した……という柳さんの仮説は理解しました。ですが何故、白木さんはそれに巻き込まれるような形で亡くなったのですか? あくまで電子ドラッグが『飲食物』を経由することでしかその効果を発揮しないのであれば、被害はユウガオさん、オトギリさん、アザミさんの三名だけに留まっていたはずです」


 少なくとも、花陽にしか興味が無さそうなあの白木がユウガオたちから飲食物の類を受け取るとは考えにくいし、仮に受け取ったとしてもその場で口にするとも考えにくい。


「まあ、白木君がユウガオちゃんたちから『飲食物』を受け取るかといえば否だろうしね。でも、もしユウガオちゃんたちに与えられたオーバードーズを引き起こす程の……明らかに殺意の込められた電子ドラッグが普通の電子ドラッグじゃなかったとしたら?」

「……と、言いますと?」

「マリアちゃん。実際、考えてみてよ。花陽君以外にはこれっぽっちも興味が無さそうなあの白木君が、談話室で倒れているなり死んでいるなりしているユウガオちゃんたちを快方すると思うかい? 俺はしないと思うんだよね。というか俺もだけど、下手に意識のない子たちを快方するよりジルを先に呼ぶ。けど実際、白木君はジルを呼ぶ間もなく、ユウガオちゃんたちのオーバードーズに巻き込まれるような形で死んでいた。だから……うん。やっぱり今回使われた電子ドラッグは、感染するタイプの物だと仮定した方が道理が通ると思うんだよね」


 白木がユウガオたちから『飲食物』を受け取らず、彼女たちの快方もしない。そう言い切った柳の言葉に頷けてしまう自身の偏見を自覚しながら、私は柳が続けざまに語った「感染するタイプの物」の事柄について「それは……伝染病やウイルスのように伝播するということですか? そしてそれは、実際出来ることなのですか?」と質問する。


「そうだね。どちらかというとウイルスに近い電子ドラッグ、と言った方が良いのかもしれないね。それに実際問題そういった物が作れないわけじゃないんだ。少なくともMMORPGなんかでは、状態異常がメンバーに伝播してパンデミックになったっていう事例もあるし」

「なるほど……。では、柳さん。一つ確認したいことがあるのですが、構いませんか?」

「ん? 何かな、マリアちゃん」


 ユウガオや白木たちの死因であるオーバードーズによる『脳破壊』。その原因となる電子ドラッグを服用するためには『飲食物』を経由しなければならないのは理解出来た。そしてその電子ドラッグ入りの『飲食物』を白木が口にしないことも、彼女たちの死を前にジルを呼ぶ間も無く、オーバードーズの『伝播』による『脳破壊』で死亡したというも、分かった。

 けれど、もし。柳の語る結果からのこじつけ論たる考察、解釈、仮説の通りであったならば――白木は明確な殺意のもと、殺されたことになってしまうのではないだろうか?

 そんな意図を込め、「……私の勘違いであれば良いのですが。柳さんのその口ぶりでは、白木さんの死は偶然などではなく、明確な殺意をもって殺されたのだというように聞こえてしまいます」と柳へと問えば、彼は「え? そうだよ」と平然とした顔で言い放った。


「これはあくまでも俺の仮説でしかない話だし、信憑性には欠けるけれど。……ほら、白木君は偶然談話室に居たわけじゃあないだろう? 花陽君が白木君に飲み物を取って来てくれないかと頼んだから、彼は談話室に居た」

「ですが花陽さんはその談話室で、しかもそのタイミングで、ユウガオさんたちが電子ドラッグを使用するなんてことは知らないはずです。いえ、知りようがないはずです」

「ああ。別段、知らなくたっていいんだよ」

「え?」

「どうやって死ぬかなんて、教える必要はないんだ。ただ、指定した時刻にこの談話室へ白木君を向かわせれば、彼を殺せることができるよ――と、天立君が花陽君に囁けばそれで済む話なんだから」


 嗚呼、そうだった。柳は仮説の大前提として「天立ユラ」をダリア殺害以外の黒幕であると言っていたではないか。

 すっかりと頭から抜け落ちていたソレを思い出し、私は悠々と語り続けている柳へと意識を向け直す。


「彼らとはマリアちゃんみたいに長い時間一緒に居たわけではないけれど、俺が見た感じ花陽君は白木君を倦厭しているようだったし……。なにより、こういった類のゲームに白木君を連れて来たってことは、大なり小なり殺意が在って、一度ぐらいは死んでしまえと思っていたと思うよ?」


 明瞭すぎる悪夢の中で、従兄である白木に対して抱く殺意を語った花陽。その光景を脳裏に浮かべた私は頭を振り、その妄想の塊をかなぐり捨てる。


「……そういう、ものなのでしょうか?」

「そういうものだよ。バーチャル・リアリティによる擬似的な体験とはいえ、状況によっては殺さないといけない時もあるから、なるべく円満な間柄でいたいなら連れてくるべきじゃあ無いと思うよ。まあ、たまには現実では味わえないその死のスリルを味わうためやって来る異常性癖を持った輩が一定数いるらしいけれどね?」


 まあそう言う人間を見つけたら関わり合いを持たないのが一番だよ。

 そうきっぱりと言いきった柳はコップに残る精神安定剤の混じった水を一気に飲み欲し、こん、と音を立てて机の上に置き戻す。そして「はぁ、」と盛大な溜め息を吐いたかと思うと、改めて私の方を見つめ直してきた。


「柳さん、どうかされましたか?」

「……いやね、こうやってマリアちゃん相手に話をしてはみたものの、所詮は素人の考える仮説で、結果ありきのこじつけ論でしかないよなぁ、と思ってね。特に今回の場合だと、俺たちがこの談話室に到着したのは、黒幕の天立君が証拠らしきものを隠蔽した後だろうし……。そもそも、仮に物証が残っていたとしても、俺にはそれを『証拠』として扱えるほどの知識も技量もないし……」


 私に仮説を語っていた時に折々として垣間見えていた高揚感が薄れたのだろうか。どこか落胆したような様子になりはじめた柳に、私は「そんなことはありませんよ」と出来るだけ優しげな声色で話しかける。

 少なくともこのままの落胆状態では、この先の仮説を――姉川萌音による宇野下草子との無理心中事件についての仮説を、聞けずじまいになってしまうかもしれないのだから。


「少なくとも私一人では仮説の一つも立てられませんでしたから、柳さんの語ってくれた仮説は私にとってとても興味深く、有用なモノです。ですからもし、その後の事件……それこそ、宇野下さんと姉川さんの事件についての仮説が有るならば、私はそれを知りたいです」


 生憎私に気落ちした人間の気勢を上げられるような語彙は無いし、技量も無い。だがそれでも、出来るだけそうなるようにと言葉を選べば、やや俯きがちになっていた柳は顔を上げ「そ、そうかい? マリアちゃんがそう言ってくれるなら、その話もさせてもらおうかなぁ」と、僅かながらも笑みを浮かべはじめる。


「はい、ぜひお願いします」

「な、なら、まずはほとんどの事件に関わっている天立君が、姉川ちゃんと宇野下ちゃんに何をしたのかだけ、先に仮説として言っておこうかな」


 どうやら最後の念押しとして発した「お願いします」の言葉も、大いに柳の気勢を上げたらしい。やや高揚感が滲む声でそう言った彼は、姿勢をピンと正した。


「天立君がしたことはたった一つ。姉川ちゃんが持つ、宇野下ちゃんへの独占欲を煽った、それだけだ」

「煽っただけ、なのですか?」

「うん。というか、仮説ではあるんだけど、牛宮君が見張りをしていた部屋にやって来た天立君が、メンタルケアだとかセラピーだとかと称して彼女たちと会話をし、姉川ちゃんが抱いていた宇野下ちゃんの独占欲を煽ったんだ。時刻としてはおそらく、俺たちが牛宮君と別れた後から花陽君と話し終えた九時半過ぎから十時前までの間かな? しかも天立君はユウガオちゃんたちが死んだこの談話室に残る電子ドラッグの『伝播』処理して、事故死に見えるよう隠蔽もしないといけないから、かなり限られた時間で行動したことになってしまうんだけどね」


 ちょっと仮説としても苦しいかな? と言いながらやんわりと私に意見を求めてくる柳。そんな彼に「いいえ、苦しくはありません。少なくとも天立さんのあの魅力的な顔と、誘引的な物腰があれば五分ほどの時間であっても、憔悴気味となっていた宇野下さんをその気にさせ、宇野下さんを贔屓にしていた姉川さんを焦らせることは可能だと、私は判断します」と伝えれば、彼は安堵したように息を吐く。


「そうか、そうか。……それなら良かった」

「ですが、牛宮さんは部屋に天立さんが来たことを証言しませんでしたよ? もし牛宮さんが天立さんのした事をきちんと証言していれば、天立さんが姉川さんたちの死を誘引した『犯人』だということは明らかになるはずなのに」

「マリアちゃんの言うことも、俺はもっともだと思う。でも天立君がしたことは姉川ちゃんが抱く宇野下ちゃんへの独占欲を煽っただけで、実際に彼女たちを殺したわけじゃあないだろう? それに牛宮君は……結構プライドが高そうだから、自分の失敗を……それこそ、天立君の口車に乗せられ彼を部屋へ招き入れてしまったばっかりに、彼女たちが死んでしまった。なんてことを、わざわざ口にしたくないんじゃないかな?」


 まあ、これも俺の仮説で、憶測にしか過ぎないんだけどね。

 そう補足した後「俺の解釈、マリアちゃん的にはどうかな?」と私の判断を求めてくる柳の言葉に「柳さんは、すごいですね。私はそこまでは分かりませんでしたから」と、私は返答する。


「いいえ……分からなかった。というより、分かろうとしなかった。と言った方が正しいかもしれません。あくまで私が導き出した答えは『手詰まり』と、『犯人に成った方がこの場では有利』だったのですから」

「いや、結局のところ。きっと、マリアちゃんの答えが正解なんだろうね」

「え?」


 まがりなりにも仮説を立て、私に解説さえもしてくれていた人が、いったい何を言うのだろうか。


「さっきはさ、仮に物証が残っていたとしても、俺にはそれを『証拠』として扱えるほどの知識も技量もない。なんて言っていたけど……実際問題、物証となりえる物が無いどころか、ダリアちゃんを筆頭にした事件の被害者たちの死体さえ此処には残っていないんだよ。だから、マリアちゃんの出した『手詰まり』という答えがきっと正解」

「そんな……」


 物証となりえる物のみならず、ダリアを含めた被害者たちの遺体さえ残っていない? そんなことがあって良いのだろうか。そんな事象がミステリーゲームとしてまかり通ってしまって良いのだろうか?

 実際それらが「無い」のをこの目で確かめていないため、柳の語ることが事実であると認めは出来ない。だがそれでも、此処が柳の言う通り仮想現実たる空間であるならば「無い」状態へと戻すのは可能だろうと判断できる。


「むしろさ、俺は思うんだよ。このゲームの主催者は、勝者を『犯人』一人だけに絞りたいんじゃないかとね。それに、物証どころか死体さえ此処から消せる権限があるのなんて主催ぐらいしか居ないんだし」


 締めに「はぁー」と、大きなため息零した柳。そんな彼に対し「では、私たちは殺し合わなければならないのですか」と言うため口を開こうとすれば、ローテーブル越しに私と対面で座る柳が――「ねぇ、実際のところ。どうなんだいマリアちゃん?」と、私に、そう訊ねてきた。


「え……?」

「いい加減にしてほしいな、とはつくづく思っているけれど。マリアちゃんはそういった冗談を言ったり、したりするような子じゃあないのは知っているから……そうだね、うん。俺はマリアちゃんの記憶が欠如しているんじゃないかと、仮説を立てた」


 それこそ、俺のことを覚えていないぐらいに。

 それこそ、自分が何者であるのかさえ覚えていないぐらいに。

 それこそ、ここが何のために存在しているのかということさえ覚えていないぐらいに。

 記憶がすっかり、消えてしまっている――とね。


「っ!」

「当たり、なんだね」


 そっか、とため息交じりに眉根を下げ、困ったように笑う柳。対する私ははくはくと、口を動かすばかりで、声も、言葉も、なにも放つことができない。

 嗚呼、いったい何時から彼は私が何も知らないことを知っていたのだろうか。

 嗚呼、いったい彼は私にとっての誰であり、何なのだろうか。

 嗚呼、私は本当にマリアという名の人間なのだろうか。

 嗚呼、私はいったい誰なのだろうか。

 ただ単純に、さして気にするほどでもなかった事実を指摘されただけだ。ただ、「記憶が欠如している」と言われただけだ。だというのに、私の頭の中では私自身についての疑念が怯えたようにかけ走り、震えている。


「っ、は……」

「ああ、俺は、そんなにキミを狼狽えさせるつもりは無かったんだ、ごめんねマリアちゃん。でも大丈夫だから」


 呼吸もままならない状態となっている私を見かねたのだろう。ローテーブル越しのソファに座っていた柳が立ちあがり、私の隣へと移動してくる。そして「落ち着いて。ね?」と私の狼狽を諌めるように、やわらかな声と人懐っこい笑みを私へと向けてきた。

 そんな彼の表情に、不思議と安堵の気持ちを抱いた私はこくり、と小さく頷き、ゆっくりと息を吸う。

 嗚呼、しかし。この男は。彼は、柳道明は。いったいどうやって私が私の記憶を失っていることを知り得たのだろうか?


「や、柳さん……いったい、何時から……?」

「何時からマリアちゃんの記憶が欠如していることに気が付いてたのかって? それは、最初からだよ」

「さいしょ、から?」

「そう最初から。マリアちゃんが俺に『はじめまして』と言ったその瞬間から。俺はキミが俺の事を忘れてしまっているんだな、とすぐに分かった」

「そんな……」

「だって、俺とマリアちゃんは十五年来の顔見知りで、それなりに親しい間柄なんだよ? それなのにそんな人から『はじめまして』なんて言われたんだから、そう勘繰るしかなくなるよね? それにわざとマリアちゃんと二人きりになってみせても、俺の事を知っている素振りを見せてくれないし。となったらやっぱりバーチャル・リアリティに入る際に何かトラブルがあって、記憶が欠如した状態になってしまったのかな、と考えた方が道理が通る」


 私と柳は十五年来の顔見知りで、それなりに親しい間柄である。と、語った柳。ならば、私の事を最初から知っているような口振りだった牛宮とは、花陽とは。私はいったい何年来の付き合いであり、現実世界においてどのような間柄だったのだろうか? 

 流石にこの場にその二人が居ない以上、それを確かめることはできない。それにそのことを隣に座る柳に聞いてしまうのも憚られた私は、口を閉ざしたまま彼の言葉に耳を傾け続ける。


「……なら、次はキミがいったい何者であるか。そして、俺がキミにとっての何であるかを教えてあげようかな」

「わ、私が誰であるか、ですか?」

「そう、キミが誰であるか」


 よほど語るのが難しいのか。あるいは、説明するにあたって適切な言葉を選んでいるのか。人懐っこい笑みを浮かべたまま、僅かに考えこむ素振りを見せた柳はしばしの間の後「うん」と一つ頷いた。


「キミは、白鳳マリア。ダリアちゃんのトクベツな【姉】で、死んだダリアちゃんの代わりに据え置かれた、俺の婚約者だよ」


 私は、白鳳マリア。

 私は、ダリアの特別な【姉】。

 そして、私は死んだダリアの代わりに据え置かれた、柳の婚約者。

 彼の語る単語の意味は、分かる。それこそ前者二つは、このミステリーゲーム「白鳳邸殺人事件」において私に割り振られた役割であるから特に。

 だが単語としてではなく言葉としてそれらを理解しようとすれば、「知らない」と。「知りたくない」と、「忘れていたい」と、「思い出したくない」と、私の脳がかなりき声を上げて拒絶する。

 しかしそんな私を置き去りに、隣に座る柳は無情にも語り続けた。


「トクベツというからには、自分が普通の姉じゃあないことは流石に分かってくれるよね? なら、どこかトクベツなのか。それはマリアちゃんが、ダリアちゃんの遺伝子を元に造られたアンドロイドであるという一点にのみに尽きるんだ」

「私が、アンドロイド……人造、人間?」

「そう。それも育児型の人造人間。だからこそマリアちゃんとダリアちゃんは姉妹なんかじゃない。だってキミは、マリアちゃんの遺伝子を元にした人造人間なんだから。とは言っても、マリアちゃんについての書類は全部キミの父親であり、俺の義理の父になるあの人が独占しているから、マリアちゃんの身体についてはあまり知らされていないんだけどね。まあ、ダリアちゃんの身に何があっても良いようにと、その代用品たるマリアちゃんに子宮とその周辺器官が実装されていることは知らされているけど。……ねぇ、マリアちゃん。どう? 何か思い出せたかな?」


 悠々と語っていた言葉の最後に「どう?」と今一度訊ねてくる柳。しかし、私は小さく頭を横に振る。

 何も、何も。何一つとして思い出せない。思い出したくない。思い出すべきではない。

 私が私を思い出すために必要になるであろうファクターを語ってくれた柳には悪いけれど、彼がこれ以上に私の事を語ってくれたとしても、この仮想現実に居る限り私は私を思い出すことはおそらくないだろう。

 なにせ今でさえ、否、今も尚。私の脳がかなりき声を上げて、彼の教えてくれた私の事柄全てを拒んでいるのだから。


「そっか、思い出せないか。でもまあ、良いよ。……うん。いくらマリアちゃんが自分の事はおろか、俺のことも、ダリアちゃんの事も忘れてしまっていても、変わらないっていうのは分かったから」


 だから、気にしなくて良いよ。

 そう言った後、ぽん、と私の頭に手を乗せ、やわく撫でてくる柳。

 悪夢の中のみならず、この仮想現実の中において牛宮や花陽、天立が触れてくることは多々あった。だが思い出せる限り、柳は私に触れてきたことは一度足りとて無かった。それこそ、肩口どころか指先さえかすった覚えもない。

 だというのに。そんな彼が、私の頭を撫でている。

 まるで毛並みを確かめるようにしてやわく、ゆっくりと頭を撫でてくる柳の手。それが危険なものではないと感得している私は、彼のその行為を拒むことなく許容する。


「……それにしてもマリアちゃんさ、俺の好みを良く分かっているよね」

「……好み、ですか?」

「うん、とくにダリアちゃんがダリアちゃんだった頃の状態にしているあたりとか。良く理解してくれているんだなって、思ってしまったよ」

「ダリアさんが、ダリアさんだった頃……?」


 柳の言った言葉の意味を測りかねる私は、小さく首をかしげる。

 妹は、――人造人間であるらしい私の遺伝子元となった白鳳ダリアは、成長と共に変質し、変わり果てでもしてしまったのだろうか。


「というより、ダリアちゃんに未だ人間味が在った幼い頃、と言い直すべきかな? 何しろ彼女はキミと一緒に過ごすようになってから、大きく変質してしまったからね。別段俺は、それが悪いことであったとは思わないよ。それこそ、マリアちゃんがダリアちゃんの元へ来る前までの彼女は、従兄である俺にべったりくっついてくるような甘えたな子だったから、キミに感化されて自立してくれるようになったのは俺としても助かることだった。でも、……喜怒哀楽のある、普通の女の子ダリアちゃんは、どんどんアンドロイドであるキミに近くなってしまった」


 ……ああ、何度思い返してみても。あの小さな頃の彼女が一番人間らしくて俺は好きだなぁ。

 そう零しながら、遠くにあるものを見るように目を細めた柳。


「ですが……、幼いダリアさんが、私に近くなっていくのは、当然ではありませんか? すくなくとも、私は彼女の遺伝子を元にして造られた人造人間……であるそうですし」

「ああ、違うんだマリアちゃん。ダリアちゃんがただ、マリアちゃんにただ似ていくだけだったり、髪型や服装をお揃いにしたりするぐらいであったなら、俺だってこんなに気に病んだりはしないよ。でもダリアちゃんは似たんじゃない! キミを……自身の遺伝子を元にして製造されたアンドロイドを、わざわざ『真似た』んだよ! 甘えたがりだった彼女はキミと同じように顎を引き、背筋よく立って、甘えるのを止めた! ほんの少しあった強情さは勿論、泣き虫だった部分もなりを潜めて、キミと同じように凛とした振る舞いをするようになった! 嗚呼、そうだよ。ダリアちゃんはアンドロイドであるマリアちゃんを真似て、内側も外側も、キミと同一になろうとしたんだ! ああ、今思い出しても怖気が走る! まがい物の命に、それも自分の遺伝子から製造されアンドロイドと同一になろうとする彼女が! 俺の親が経営する会社の経営難を理由に持ち出された俺との婚約を、一言で了承した彼女が! おぞましい!」


 余程ダリアの変容ぶりが気に入らなかったのだろうか。絶叫にも似た声で長々と語る柳の手はいつの間にか私の頭部から離れており、拳状となって彼の胸の前で震えている。

 その震えが苛立ちなのか、怒りなのか。はたまた言葉通りの「おぞましさ」故なのか。判別のつけられない私は、ただただ彼が引き続き語る言葉に耳を傾け続ける。


「だからね、彼女との婚約が正式に決定してしまうダリアちゃんの二十歳の誕生日目前に、彼女が行方不明になって、後日死体で発見されたと聞いた時……やっと俺は彼女から解放されたのだと思ったよ。……でも、周りの人間はそうなることを許してはくれなかった」


 一旦そこで言葉を区切り、私をじっと凝視してくる柳。ずっと彼の話を聞いているばかりだった私が唐突な間に「えっと、」と声を漏らせば、それをかき消すようにして「ねぇマリアちゃん。俺は俺の両親や、ダリアちゃんの母親からなんと言われたと思う?」と、柳が訊ねてきた。


「っ……」


 柳が、私が誰で、何であるかの説明をした際に出た「子宮」の単語が瞬時にひらめくが、私は顔を横に振り、そうではないはずだ、と自身に言い聞かせる。

 例え私がダリアの代わりとして造られた人造人間であろうとも。子宮を中心とした周辺の器官を実装されていたとしても。機械部位が大半を占めるであろう私が人間との子供を作るのが倫理的に正しいことであるのか判断できなくても。それでも私は、「そうではないはずだ」と、自身の発想と、彼が求め違った答えを否定する。


「聡明なマリアちゃんが、思い至らないわけはないよね。少なくとも俺は正しい答えに辿りつけるだけの情報を、キミにあげたんだから。……でも、それでもキミが答えてくれないというのなら、俺がきちんとキミに正解を教えてあげなければならないのだろうね。……俺の両親と、キミの母親が『死んだダリアの代わりにマリアと結婚し、子供を作れ』と言ったのだと! ああ、ああっ! なんて、なんて利己的な大人たちだろう! ダリアちゃんの死を認めないどころか、隠蔽までして! 挙句、アンドロイドであるキミと結婚して、子供を作れ! 子供さえ母体の身体から正式に生まれてさえくれれば、お互いの会社の未来は安泰だ⁉ 嗚呼、今時世襲制の企業なんて時代錯誤も甚だしいというのに! いいや、そもそも俺のことでさえ何一つとして考えていやしないあの人達の会社が、真っ当に安泰の道を歩むはずがない!」


 抑圧された環境下で育てられていたのだろう。とは考えてはいたが、よもやこれほどまでであったとは。頻繁に頭を下げたり、すぐに謝ったりといった、卑屈ささえ抱かせる諂いの癖がそこに起因しているのだと即時に判断した私は、再びの絶叫を果たした柳の横顔を見つめる。

 そうすれば、私からの視線に何か思うところがあったのだろう。聊か荒くなっていた呼吸を落ち着かせた彼は、胸の前で握っていた拳を解き、自身の太腿へと置く。そして、「ごめんね、大きな声を出したりして。そんなつもりは、無かったんだけど……思わず感情が昂ってしまって」と頭を下げてきた。


「いえ、そんな、大丈夫です」

「いや。そうは言わず、せめてもの弁明ぐらいは聞いてほしい」

「っ、」


 正直なところ、弁明など聞きたくはない。だが目の前で深々頭を垂れさせている柳の申し出を断り切ることも出来ず、私は「分かりました、聞きます」と頷いてしまう。


「ありがとう、了承してくれて。それで、えっと……俺は別に、アンドロイドであるマリアちゃんの事が嫌いなわけでも、アンドロイドそのものに偏見があるわけでもなくて……むしろダリアちゃんよりよほど話の通じるマリアちゃんの事は気に入っているんだ。でも生憎と俺は、身体の大半が機械を占めているアンドロイドに欲情するような性癖を持ち合わせていないし……そもそも、キミとの間に子供が出来たとしても、父親としてちゃんと世話をしたり、育てたりする自信がなくて……っ、むしろ不安ばっかりで。だから、ごめんねマリアちゃん。決して、決して! キミの身体の事を悪く言っているわけじゃないんだよ。ただ、荷が重いという話なだけなんだ」


 「だから、気を悪くさせてしまったら……本当に、ごめん……」と一旦は上げていた頭を再度深々と下げ、黙する柳。彼の告げた弁明に含まれていたのは、人造人間であるらしい私への労わりと、気遣い。そして、柳自身の卑屈さ。それらをひしひしと感じながら、私は小さく溜め息を吐く。


「はぁ……、柳さん。もうこれ以上、謝るのは止めていただけますか?」

「……っでも、俺はマリアちゃんの事を傷つけてしまっただろうし……」

「柳さん。昨日、貴方と初めて会った私は言ったはずですよ。『その卑屈からなる傲慢な謝罪は不要ですし、受け取りたくもありません』と。その時、貴方は私になんと言ったか、覚えていますか?」


 実際には初めて会ったわけではなく、知り合いであったらしいのだが。それでもその時のことを思い出すよう、私は柳へと促してみる。


「マリアちゃんと会った時、俺は……嗚呼、うん。マリアちゃんに、感謝したんだ。俺の在り方を是正してくれて、俺の謝罪を拒んでくれてありがとうと……そう言ったんだ」

「ええ、そうです。だからもう、これ以上私に頭を下げるのは止めてください柳さん。それに、大前提として私は柳さんの言葉には何一つ傷ついていません。いいえ、むしろ私は柳さんの心情を理解します」

「そ、そうなのかい?」

「はい、そうです。人造人間であるという私が、人間である柳さんと子供を作る。ということが倫理的に正しいとは判断できかねますし……私個人の意見としてもそのことに関しては、否定的ですから」


 「そんなわけがない」と発想でさえも否定していたことを思い返しながら、そう柳へ告げれば、彼は「そっか……、そっか」と零す。そして濡れたままの身体をソファの背もたれへと預け「ふぅー」と、ゆっくり息を吐いた

 湿気を帯びる髪、泥の着いた袖や裾。ぐっしょりと、という程ではないがそれなりに水分を含んだ状態ながらも、どこか安心しきった様子の柳。そんな彼の横顔を眺めながら、私ははくり、と唇を動かす。

 そう。声帯は震わせず、ただ唇を動かすだけ。何故なら私が今言おうとした言葉は、きっと柳道明の安堵を、休息を、平穏を、阻害させてしまうだろうから。

 しかしそんな姿を見せてしまった私を見かねたのだろう。「どうかしたのかい? マリアちゃん」と柳がこちらの方へと視線を向けてきた。


「いえ……あの、柳さん」

「ん? なんだい」

「私は未だ、貴方から聞いていないことが……この仮想現実たる世界が、何のために在るのか聞いていないので、聞きたいのですが……」


 私の口から発せられたその言葉を聞いた柳が「ああ、そういえばそうだったね」と頷き、ソファに預けていた身体を起こす。


「まだそのことをマリアちゃんに説明していなかったね。いいよ、教えてあげる。ええっと、そもそもこのバーチャル・リアリティは、マリアちゃんが俺のために創ってくれた場所だよ」

「私が、柳さんの為に創った場所、ですか?」

「うん。……とは言っても、きちんとマリアちゃんの口からそう言われてはいないんだけどね。ほら、マリアちゃんは今、記憶が無い状態だし。……でも、俺には分かったんだ」


 にっこりと、満足感を味わっているかのような笑みを浮かべ、私へとそう告げた柳。そんな彼に「分かった?」と疑問の声を向ければ、彼はその笑みのまま「うん」と一つ頷いた。


「だって俺や他の参加者たちの元に届いた案内状や招待状の差出人の名前欄が、白鳳ダリア――つまり、死んでいるダリアちゃんの名前だったからね。ダリアちゃん本人が死んでしまっている以上、彼女のアカウントから連絡を取れるのはダリアちゃんの主要な情報機器である人造人間なマリアちゃんだけだし……。なにより、ダリアちゃんが死んでからマリアちゃんに対して俺は『せめて俺に十億の資産があれば、キミと結婚しなくとも言いはずなんだ……』と繰り返し零していたからね。だから俺はゲーム参加の案内状を読んだ後、すぐにこのゲームが俺の為に……俺に、十億円という賞金を与えるためにマリアちゃんが開催してくれるものなのだと、分かったんだ。うん、うん……、現実の世界でも、そう多くは語ってくれなかったマリアちゃんだったけれど……きっと、そこでもキミは俺を理解してくれていたんだろうね」


 ありがとうね、マリアちゃん。

 そう言い、ゆったりと笑う柳。そんな彼の満足げな顔を見ながら私は胸中で、本当にこの仮想現実たる世界は、柳の為に――柳に十億円という賞金を与えるために創られた場所なのだろうか? 否、そもそもダリアの代わりとはいえ、人造人間でしかない私に十億円の資産が在るのだろうか? と疑念を抱く。

 が、その疑念が声として私の口から発されることは無く、ただただ私の隣に座る柳の声だけが談話室の中に響き渡る。


「だというのに、俺以外の参加者たちは勝者になろうと奮起した。いや、奮起してしまった! 此処が『柳道明』たる俺の為に創られた世界だと知らぬ彼らは、自分こそが勝者になるのだと、賞金を手に入れるのだと愚かにも思い上がってしまったんだ!」


 大手を広げ、声高に「はは!」と乾いた笑いを吐く柳。だが彼はその動作をすぐに止め、唐突に「ねえ、マリアちゃん。このゲームは最後の一人になれば、終わるんだよね?」と私へと問いかけてきた。


「はい、おそらくは。私は何も覚えていませんが、このゲームの審判役であるジルさんがそう言っていましたから、そうなのでしょう」

「そうだよね。うん、……なら、後は俺がマリアちゃんを殺せば良いだけなんだね」

「私を、殺せば……最後の、一人?」


 彼は。私の隣に座り、私に対して笑みを向けている柳道明は。いったい何を言っているのだろうか。

 しかし彼は、私にその言葉の意味を読み解く間を与えることなく「うん」と頷き、唇を開く。


「牛宮君も花陽君も。そして、天立君も。まさか『探偵』みたいなことをしていた俺が『犯人』に鞍替えするとは思っていなかったみたいでね。皆、警戒心無く俺と二人きりになってくれたし、隙も見せてくれたから……予想していたよりずっとあっけなく殺すことが出来たよ。ああ、死体の方は一旦ウッドデッキの下に隠しておいたから、見たかったら見ても良いよ。今のマリアちゃんは記憶のない状態だし、下手に死体を先に見られてしまうと俺の話を聞いてくれないかと思って隠しただけだから」


 ――嗚呼。だからこの白鳳邸の中に、彼らの姿が無かったのか。

 この談話室へと至るまでに誰一人として会わなかったのは偶然などではなく、柳が既に殺害し終えていたから。そして柳が外に居たのも、衣服などが泥で汚れているのも、遺体を外に隠していたから。

 だが、彼らの行方を語った柳はまだ話し足りないらしい。満足げな笑みを浮かべたまま、彼は改めて大きく息を吸うと「それにしてもマリアちゃん、なかなか趣味が悪いよね」と言葉を放った。


「流石の俺もキミの製造者であり、ダリアちゃんの義理の父親であり、俺が将来『お義父さん』と呼ぶだろう人をNPCにした挙句、使用人まがいのことをさせるなんて趣味の悪いこと思いつかないよ。でもまあ、そのおかげで嫌いなあの人の事を殺すことが出来たし……ああ! だからこそマリアちゃんは使用人のNPCをあの人の姿にしてくれたのか!」


 俺の事を理解してくれているマリアちゃんならではの配慮なんだね!

 自身が放った言葉の内で、納得する部分があったらしい。嬉々とした表情を浮かべながらそう言い切った柳を傍目に、私は「嗚呼。だからこそ私がジルの名を呼んでみても、彼は現れてはくれなかったのか」と理解する。

 そしてそれと同時に、今このゲーム内において生存者は私と彼の二人のみであること。さらには、私をも彼は殺そうとしていることも――理解してしまう。

 嗚呼、早く此処から離れなければ。早く彼の傍から逃げなくては。そう即座に判断しソファから立ちあがろうとするが、それを諌めるように柳が私の腕を掴む。


「ありがとうね、マリアちゃん。俺が好きだった頃の、ダリアちゃんに会わせてくれて。俺が嫌うあの人を、NPCにしてくれて。俺の為に、こんな世界を創ってくれて。でも、もう大丈夫だから……安心して、俺に殺されてほしい」


 腕を掴む手とは反対の手が私の首めがけて伸びてくる。


「いや、いやです。柳さん、やめてくださ――」


 拒絶の言葉を吐き、拒絶の動作をする。されど彼はその全てを無視し、私の首を鷲掴む。

 まるで、私が繰り返し見続けた悪夢の中での彼らと同じように。


「大丈夫だよ、大丈夫。せめて殺し方だけは、現実のダリアちゃんと同じにしてあげるから」


 そう優しく語りかけながら、私の首を締めてくる柳。彼の柔らかくも冷えた掌が。危険なものではないと感得していたはずの掌が、確実な殺意をもって私の気道を狭めてくる。


「大丈夫、大丈夫だよ……だからそんなに拒まないで。……ねぇ、頼むから、そんな苦しそうな顔を、ダリアちゃんと同じ顔を、俺に向けないでほしい……。頼むよ、頼むよマリアちゃん……っ、」


 例え既に何人もの他者を殺していようとも。

 例えここが殺人行為を許容する仮想現実であろうとも。

 あくまでも良識的であろうとする柳は、この行為に罪悪感を抱いているらしい。

 けれどそんな彼の掌が、私の首から離れることはない。むしろ真綿で首を締めるような、中途半端な苦しさをもって私の首を絞め続けてくる。

 ああ、嗚呼。

 彼女もまた。私の【妹】であるダリアもまた。この苦しみを感じながら、自らの非力さを、無力さを呪いながら縊り殺されたのだろうか。

 満足げな笑みを浮べながら私の首を絞め続けてくる柳。その傍らに群がるたくさんの幼いダリアたちを瞳に映しながら、私は満面の笑みを浮かべた。




「おやすみなさい、お姉さま」


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