3-2 紫陽花
ぱちり。と瞼を開いた先に在ったのは、白の天蓋だった。
どうやら考え事をしながらそのまま寝入ってしまったらしい。喉元に在る僅かな違和感を疑問に思いながら身を起こし、枕元に置いてあるデジタル時計へと視線を向ける。
「十八時、七分……ですか」
昨日から降り続いて続いている激しい風雨の音は相変わらずで、私は「はぁ」と小さく溜め息を吐く。そして、じっとりと汗ばんでいる首筋をなぞり、シーツの上から這い降りた。
「嫌な夢を、見た……」
ゆっくりと漏れた声に誘われるようにして、そろりと自身の指に嵌るダリアの花を象った指輪をなぞる。そうすれば夢の中での出来事が、夢とは思えないほどのリアリティを帯びた状態で明瞭に思い起こされた。
嗚呼、これは牛宮蒡との夢。
自身の同伴者である月山、宇野下、姉川についての事を語り、自身の過去についても語った牛宮とのあり得ざる妄想の塊。
その中で私は、彼から私自身を「記憶を失ったダリア」だと言われ、受け入れた。
そして牛宮は「テメェが、テメェが悪いんだ! オレを拒絶して、オレを見下して! そしてオレの人生を滅茶苦茶にするだけじゃ飽き足らず、オレたちをこンな狂った場所に誘って! 殺し合いまでさせる⁉ 何がしたいンだよ! 何時まで経っても自首をしねぇから、脅しでもしているつもりなのか⁉ 罰を与えてでもいるつもりなのか⁉ クソ! クソ! クソ!」と怒号を飛ばしながら私を縊り殺した。
夢の中では迫りくる牛宮からの怒りと、息苦しさ等に焦り、冷静に思考を巡らせている場合ではなかったけれど、平素である今ならば彼の語った言葉を。「オレたちをこンな狂った場所に誘って!」と叫んだその意味を、多少は噛み砕けることだろう。
――私が、彼らを此処に招いた? ならば牛宮の招待状にも、花陽の招待状にも、天立の招待状にも、柳の招待状にも「ダリア」と言う名が記されていたということになる。そしてそれは、四人ともが私と面識があることにも繋がるだろう。少なくとも、その四人には招待状の送り主を知っているという共通点が在ったのだから。
であれば、現在生き残っているゲーム参加者はみな、私の事を。私が知らない、私が失ってしまった過去の私についての事を知っている者たちばかりということになるのではないだろうか? 嗚呼、ならば、どうして天立や柳は私と初対面であるかのようにして接してきたのだろうか? 牛宮と花陽の二人は、私を見た際に「ダリア」と私が忘れてしまった私の名前を呼んでいたからまだしも、天立と柳は「ダリア」と私を呼ばなかった。
それは、何故?
もしかして、牛宮の人生を私が滅茶苦茶にしてしまったことに、何か関わりがあるのだろうか?
それとも「何時まで経っても自首をしねぇから、脅しでもしているつもりなのか!? 罰を与えてでもいるつもりなのか!?」という牛宮の言葉の方に、理由があるのだろうか?
全体像も見えない程、数の足りていないパズルを融かされているような。途方もない気持ちになりながらも、私は「たかが夢で見ただけのことなのに、いったい何を考えているんだか」と吐き零す。
そう。これはたかが夢で見た光景の話し。私の脳が勝手に作り出した妄想。現実の人々を使った、現実とは何一つ関係のない虚像。
されどそんな悪い夢を思い出してしまったせいで私の鼓動はどくどくと高鳴り、じわじわと身体の熱がその鼓動に合わせて上がっていく。
「すぅ……、はぁ……」
大きく息を吸い、吐く。深呼吸を何度も繰り返し、私は「そういえば」と、書斎から拝借してきたまま未だに目を通していない本へと視線を向けた。
赤い部屋の中央部にあるソファとローテーブル。その上に切なげに置かれている本を手にした私は、「私は、ろぼっと」と、直訳できるその本のタイトルを軽く読み上げ、紙のページを捲った。
連なる文字に目を這わせ終えたのは、デジタル時計が二十時五十分を表示した頃だった。
「んんっ」
長時間同じ体勢で居続けてしまったせいで凝り固まってしまった身体を縦に引き伸ばす。
今読んだ本の内容について感想が述べられるほど語彙が豊富なわけでも、感情が豊かでもないから碌な表現は出来ないけれど。私はこの本を、ロボット工学三原則という架空の原則をベースにした、ロボットと人間とのSFミステリーであると、判断する。
「第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を見逃すことによって、人間に危害を及ぼしてはならない。第二条、ロボットは人間の命令に服従しなければならない。しかし、与えられた命令が第一条に反する場合はこの限りではない。第三条、ロボットは第一条および第二条に反する恐れのない限り、自己をまもらなければならない」
紙に記されたその三原則を噛みしめるように読み上げ、私は立ち上がる。
読み終わった本は、早々に元の場所へ、書斎の棚へと戻さなくては。
午前中に何人ものゲーム参加者が殺されたり、心中を図ったりしたこの白鳳邸。その内部を一人で出歩くとなれば、彼らを襲った死の危険が私の身にも迫ってくるかもしれない。
けれど、この殺人ゲームに参加してしまっている以上、それは仕方のないことだろう。
死んでしまうときは何時だって唐突で、あっけのないものなのだろうから。
読み終えたばかりの本を手に部屋を出た私は、赤い絨毯の敷かれた廊下を足早に歩き、書斎へと向かう。そして閉じている書斎の扉を開けば、案の定と言うべきか。その場の主であるかのようにして、ソファで寛ぐ花陽の姿が在った。
「ダリア、どうかしたのか?」
私の姿を認識するや否や「マリア」ではなく、「ダリア」と呼んだ花陽。そんな彼に「本を返しに来ました」と応えれば、「そうか」と花陽は短く返答を述べ、自身の手元にある本へと視線を戻す。
「失礼しますね」
極力音を立てないよう、静かに書斎へと入り、昨日拝借した本を元の場所へ戻そうとその棚へと向かい、本棚へと手を伸ばす。しかし、取る際にさえ苦労していた私の身長ではその場所へ本を戻すことは叶わない。
しばらくの間、困ったようにそこで立ち止まっていれば、今回もまた見かねたらしい。昨日と同じように私の背後に花陽が立ち、私の持っていた本を奪うように自身の手に納め元の位置へと押し込めた。
「ありがとうございます、花陽さん」
振り向きざまに背後に立つ花陽に礼を言おうとすれば、彼は私の手に自身の掌を重ね「ダリア……」と私の耳元に唇を寄せて優しく囁いてきた。
「は、花陽さん……やめてください」
月山に迫られた時のような嫌悪感は抱かない。むしろ、花陽に対しては安心感さえ覚える。
けれど、「彼」ではないのだ。私の手に掌を重ね、這わせて良いのは。私の耳元で優しく囁いても良いのは。
「どうしてだ、ダリア……。どうして貴女は自分を、拒む?」
教えてほしい。
私の手に重ねていた掌を離し、背からも一歩引いたらしい。背後に居た花陽からの圧が無くなったのを感じ、私はくるりと彼の顔を見るため振り返る。
「私には、花陽さんがどうしてそんなに優しくしようとするのか、分からないのです」
私に向けられているものがただの「優しさ」なるものではないということはなんとなく分かっている。だがソレを彼が言葉にしてしまう前に、私自身が認めてしまうべきではないだろう。それにこの程度の優しさは、花陽にとってはごく普通の、当たり前の行為にすぎず、好意なんてものは私の勘違いだという可能性だってあり得るのだから。
けれど私の問いを聞いた花陽は、その怜悧な顔に困ったような、悲しげな、あるいは切なげな表情を浮かべていた。
「自分には、貴女しかいないから」
冷えた唇から零れる、花陽の孤独な声。
「花陽さんには、白木さんがいたではありませんか」
「みなとは、貴女とは違う。みなとは勝手について来ているだけだ」
私の顔から足元へと。視線を動かし、歯噛みする花陽。そんな彼の顔をじっと見つめながら、私はごくりと息を飲み、改めて口を開く。
「花陽さん。私、貴方に訊ねたいことがあるのですが、構いませんか?」
「貴女の質問には幾らでも答えたいが、……内容にも、よる」
「そうですか。なら、難しそうなら答えなくても構いませんので、質問しますね」
ふぅ、と息を吐き、吸う。そして私は目の前の花陽に「従弟の白木さんがどのような方だったのか。私に教えてもらえませんか?」と、問いを投げかけた。
死人に口なし。最早語ることの出来ない状態となってしまった被害者の一人、白木みなとの事を知っているのは花陽しか居ない。ならば、その唯一である花陽から話しを聞くしかないだろう。
「……貴女が自分以外の他者に気を掛けるのは、気に入らない。だが、貴女がソレを求めるなら自分は貴女の望みに応じよう」
どうやら、花陽は不本意ながらも私の問いに答えてくれるらしい。
こくり、と頷いて見せた彼は言葉を選ぶようにしてゆっくりと声を放つ。
「みなとは……自分の世話を率先してやってくれる、良くできた従弟だった」
「そうですね。他人の私から見ても、彼はとても気配りの出来る方に見えました。でも、どうして花陽さんは彼と二人でこのゲームに参加されたのですか?」
「……みなとが、自分宛に届いていたこのゲームの参加案内を勝手に見てしまったから」
「そして連れて行ってほしいと、頼まれたのですか?」
「あ、ああ。本当は自分一人だけで参加するつもりだったんだが、みなとに……頼まれたから、連れてきた」
僅かに視線を下げ、悲しげな表情を浮かべる花陽。
今回の殺人ゲームで死んでしまった白木の事を思い出し、悲観に暮れているのだろうか? 歯切れの悪く聞こえてしまった花陽の言葉に、僅かな違和感を覚えながらも私はそれについては言及せず、彼の言葉を待てば――。
「――なんていうのは、嘘だ」と、花陽は意を決したように私の顔を見てそう言い切った。
「ああ、やはり貴女に嘘を吐くのは気が引ける」
ため息交じりにそう付け加え、更に「脅されていたんだ」と花陽は言葉を続けた。
「脅されていた? 花陽さんが、従弟の白木さんに、ですか?」
「ああ」
是の意を示し、頷く花陽。
「自分は一度大きな罪を犯してしまった。そのことをみなとに知られて、四六時中付きまとわれて、監視されて、脅されて、強要された」
「そんな……」
「だから、みなとが死んでいるのを見た時、心底ほっとした」
これでやっと、脅されずに済むのだと。
冷ややかな声を書斎に響かせる花陽。彼の浮かべる表情は悲観のそれではなく、本当に安堵したような。心の底から安心していることをうかがわせる穏やかなもの。
それこそ永い眠りから覚めた花が開いたようにも見えた私は息を飲んでしまう。
「っ、でも……花陽さんが、白木さんを殺したわけではないのですよね?」
「ああ。直接自分がみなとを手に掛けたわけではない。だが自分は間違いなくみなとに殺意を持っていたし、みなとが死んでくれることを望んでいたし、みなとを殺すために此処へ連れてきたのだから……みなとを殺したのと変わりはない」
「それはっ、」
それは違う。と言おうとした私の声を遮るように、花陽は頭を振る。
「違わない。みなとには早く死んでほしかった。みなとには早く自分から離れてほしかった。みなとから、早く解放されたかった。だから自分はこの殺人ゲームの案内状をみなとの目にわざと入るようにして、みなとの意思で此処へ期待と誘引し、みなとが死ぬよう計らった」
だからみなとを殺したのは自分ではないが、まちがいなく自分自身なんだ。
怜悧な顔に安堵を浮かべ、更に小さくではあるがはにかむような笑みさえ乗せる花陽。
笑い慣れていない、彼の歪なその表情を見た私は一歩後ずさろうとするが、かかとが壁棚へとぶつかるだけで、後退できない。
「それに」
「それ、に?」
「自分が手に掛けて殺すのは、後にも先にも、たったひとりだけが望ましいから」
たった一人だけが、望ましい? その一人とは、いったい誰のことを指し示しているのだろうか?
けれどその疑問を口にする前に、花陽が私の方へと詰め寄ってくる。
ずい、と私の眼前に立ちはだかり、至近距離で見下ろしてきた花陽。彼は私の目を食い入るように見つめると、「自分も、貴女に聞きたいことがあるのだが。構わないだろうか」と訊ねてきた。
「え、嗚呼。はい、構いませんが……」
互いの身体の間に、拳一つ入るか入らないか程の至近距離。しかも向かい合うようにして立った花陽からの唐突な問いに僅かに戸惑いながら頷けば、彼は「なら、」と口を開く。
「我が物顔で貴女の隣に居続けていた彼は。自分と同じく、貴女の名が記された招待状を持っているとのたまった彼は。いったい何者だ?」
「ええと、それは柳さんのことですか?」
脅されている。とまでは言えないものの、いささかの脅迫じみた威圧を感じながら柳の名を口にすれば、花陽はこくりと頷いた。
「柳さんとは、このゲームに参加した独り者同士ということで、一緒に居ただけです。私と柳さん、そしてダリアさん以外のみなさんは皆、同伴の方とこのゲームに参加されてしましたから……一人で居ると、どうにも居心地が悪かったので」
「だから、一緒に居たのか? 一緒に居ただけ、なのか?」
「だけ」という箇所をやたらと強調し問うてくる花陽に「はい」と応えれば、彼は安堵の息を吐いた。
「そうか、そうか……それだけ、なのか」
小さいながらも明確にそう零した後、花陽はぴたりと口を閉ざし、黙りこくってしまう。
「あ、あの、花陽さん?」
花陽が訊きたかったことは、私と柳の関係性だけだったのだろうか?
私の眼前に立ち、私の顔を見降ろしてくる花陽。その唇は固く引き結ばれており、緩める気配は今のところ見られない。
そんな彼を拒絶するでもなく、私はしばらくの間受けいれていた。しかしいくら待っても彼の唇は引き結ばれたままで、微動だにしない。
流石に長時間互いに無言のまま向き合っている、という状況に耐え兼ねた私が「あの、そろそろ部屋へ戻りたいのですが」と声を掛ければ、彼がやっと引き結んでいたその唇を緩め、開いた。
「ダリア。貴女は……、自分本位な方ではないはずだ」
「え、ええ……おそらくは」
「ならば、少しくらい自分の我儘を聞いてほしい」
少なくとも私は彼に質問ばかりしている。それこそ自分本位とさえ言われてもおかしくない程に。
勿論、先程花陽からの質問に答えはした。だがそれはたった一つきりで、どう考えても釣り合いが取れるような量ではない。
だからこそ、聞いてみるだけの事ぐらいははしてみようと「……花陽さんの我儘とは、いったい何なのですか?」と問えば、彼は私の肩口を掴んだ。
「貴女に、此処に居続けてもらいたい。ただそれだけだ」
願い、請うように。吐きだされた花陽の我儘。
「私に、此処に居続けてもらいたい?」
彼の言葉の意味を測り兼ねた私がその言葉を繰り返してみせれば、彼は私の肩口を掴んでいる手の握力を強めた。
「貴女をもう二度と失ってしまいたくない。だから、ずっと此処に居てほしい。みなとがしていたように、自分と一緒にこの部屋に居続けてほしい。他の誰かのところに行かず、言葉も交わさず、目も合わせないでもらいたい。ソレが自分の、我儘だ」
花陽の唇から紡がれる言葉。
ソレは願いでも請いでもなく、彼自身が言った通り「我儘」という単語がピタリと当てはまる自分本位な欲求な羅列で。私はその言葉を理解するべく、脳内で反芻する。
――ずっと此処に居てほしい。みなとがしていたように。
白木が花陽の傍らでほとんどの時を過ごしていたのと同じように、私にもそうしろということなのだろうか? それこそ「他の誰かのところに行かず、言葉も交わさず、目も合わせない」という彼の我儘の通りに?
「頼む……貴女をもう二度と失ってしまいたくないんだ」
彼の言葉を脳内で反芻する私を痛切な表情で見つめ、再度同じ言葉を零す花陽。
嗚呼、その言葉の真意は、一度私が失われてしまったということなのだろうか?
そう疑問を抱き、自らの手を固く握り込めた刹那、「何時まで経っても自首をしねぇから、脅しでもしているつもりなのか⁉ 罰を与えてでもいるつもりなのか⁉」という牛宮の叫びが明瞭に、それこそ牛宮の怒りに満ちた顔と共に脳裏へ浮かぶ。
嗚呼、あれは夢。私の脳が勝手に作り出した、妄想。現実とは何一つ関わりのない、唯の虚像。
そうだと分かっているのに、私のこころを置き去りにして私の思考は花陽の言葉を鵜呑みにし、断定する。
きっと私が失われるようなナニカが起きてしまったのだ、と。
それこそ花陽の傍を離れてしまったばっかりに、と。
しかもそれは、牛宮が罰を与えられていると思い、苛まれてしまう代物である、と。
そして、何一つ覚えていないのも、それが影響している、と。
思考の暴走とも取れるような強制的な断定を下す思考に戸惑い、身体が強張る。
そんな私の差異を敏感に感じ取ったのだろう。肩口を掴んでいた花陽の手が離れ、正面からおずおずとぎこちなく、それこそ私の強張った身体を解くように、やわく抱きしめてきた。
「自分は、此処に来て良かったと、思っている」
私の肩口に顔を埋め、ぽそりと呟く花陽。そんな彼の言葉の真意を訊ねるべく「それは、どうしてですか?」と返せば、彼は私を抱くその腕にほんのわずか力を込めた。
「自分を認めてくれた、貴女が居たから」
「花陽さんを認めた、私が居たから?」
「ああ。貴女が、ダリアが居たから。花陽ゆかりを否定することなく認め、肯定し。見放すことなく、見守り。手放すことなく救ってくれた貴女が、此処に居たから」
失われてしまった記憶の中で、私は彼を認めたのだろう。見守ったのだろう。救ったのだろう。
謂れのない出来事でありはするものの、私の思考はやはり彼の言葉を鵜呑みにし「そうだったのだ」と断定する。
「貴女からの慈しみは、貴女が注いだ優しさは、間違いなく愛だった。あの恋多き天立でさえ貴女のソレを『愛ですね』と認めたほどに、絶対的で、誤りのない愛だった。嗚呼、今でも容易く思い出せる。貴女があの時向けてくれた笑みを。言葉を。優しさを」
肩口に顔を埋められているせいで、彼がどんな顔をしてその言葉を紡いでいるのかは分からない。けれど服越しに伝わる彼の温度は熱く、鼓動も早鐘を打っているから、きっとそれなりに緊張した表情になっているに違いないだろう。
「けれど、貴女は……」
身体を抱きしめていた花陽の腕が解け、やわく、壊れ物に触れるように彼の手がゆっくりと私の頬をなぞる。至近距離にある彼の穏やかな表情が、徐々にもとの怜悧なモノへと、戻ってゆく。
「貴女は……花陽ゆかりに『愛』を注いでいた聡明な貴女は。あろうことか違う男と婚約するのだと、それが自身の存在理由だからと、名も知らぬ誰かを『愛』するよう、強制的に選ばさせられた! 嗚呼、分かっている。分かっている! 貴女にそう強いてきた者たちが、貴女の優しさに付け込んでいるのは分かっている! だが、それでも! どうして貴女は、自分以外の人間を選んでしまったんだ! 貴女は自分の隣に寄り添い、認めてくれたじゃないか! 肯定してくれたじゃないか! 見守ってくれたじゃないか! 救ってくれたじゃないか! 愛してくれたじゃないか! なのに、どうして花陽ゆかりではなく、別の見知らぬ誰かを選んだ!」
自身の感情を、止めることが出来ないのだろう。私に口を挟ませる余地さえ与えず、そう語った花陽。
彼の隣に寄り添い、認め、肯定し、見守り、救った――なんていう記憶は無いけれど。そんな記憶は失われてしまっているけれど。花陽が語ったたったそれだけの行為が、どうして『愛』などという代物になってしまうのか、私には理解出来ない。
寄り添うことも、認めることも、肯定することも、見守ることも、救うことも。隣人に対する慈しみや優しさであり、愛などという熱量を帯びた代物ではないはずだ。慈愛、友愛などと言うものにも分類することもまた出来はするだろうが、それでも今花陽が語った『愛』とは毛色が違うだろう。
だというのに。花陽は私からの慈しみや優しさ程度のものを、『愛』と誤認してしまっている。
憐み。その感情を籠ってしまった私の目を、察したのだろう。私の頬をゆっくりとなぞっていた花陽の手が、私の首を鷲掴む。
「っ! どうして貴女はまた、その目を向ける!」
「ッ⁉」
ぐっ、と私の気道を両手で押す花陽。それを拒もうと彼の手に爪を立てて、どうにか引きはがそうとするが、僅かに彼が顔を痛みで歪ませるだけで決して放してはくれない。
「ああそうだ! あの時もそうだった! 聡明であるはずの貴女は、まるで理解出来ないモノを見るようにして! くだらない論文に目を通す時と同じようにして! この花陽ゆかりを、見てきた! どうして貴女は、貴女に相応しい自分を拒んで、睨んで、憐れむんだ!」
私にとってはただの支離滅裂な物でしかない花陽の叫び。冷えた唇からあふれ出る怒りに似た熱。
もしかしたら、花陽の中では統合が取れているのかもしれない。けれど、聞き手である私には何一つ分からない。失われてしまった記憶の中に彼の言葉に関するヒントが在るのかもしれない。けれど、今更ソレを思い出すようなことがあっても最早、無意味だろう。何せ私の肉体はもう空気が欲しいと、新しい酸素が欲しいと、喚いているのだから。
「どうにかして貴女を取り戻そうとした! けれど貴女はずっと自分を拒んで、睨んで、憐れみつづけて! ついに、掌からさえ零れ落ち、失われてしまった!」
私が貴方を拒むのは、貴方が私に物事を強要してくるから。
私が貴方を睨むのは、貴方が私の言葉を聞き入れてくれないから。
私が貴方を哀れむのは、貴方があまりにも愚かだから。
失われてしまっているけれど。忘れてしまってはいるけれど。私の性分たる根本が変わりないはずならば、彼が語るそれらを私は把握できる。
けれど、やはり。そんなこと今更把握できたところで、無意味だ。
動かすことさえ儘ならなくなってきた身体から力が抜け、花陽の顔を強制的に見上げさせられる私は、唯一許された思考で夢想する。
私に対して微笑む、あどけない少女を。
白のワンピースが良く似合う、愛らしいダリアを。
ああ、嗚呼。
彼女もまた。私の【妹】であるダリアもまた。この苦しみを感じながら、自らの非力さを、無力さを呪いながら殺されたのだろうか。
小さく、幼い彼女の姿を。複数に連なる彼女たちの姿を、花陽の背後に夢想し。私は彼女たちに向けて満面の笑みを、浮かべた。
「おやすみなさい、お姉さま」
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