3章 悪夢

3-1 牛蒡



 ぱちり。と瞼を開いた先に在ったのは、白の天蓋だった。

 どうやら考え事をしながら寝入ってしまったらしい。いやに火照っている身体を起こし枕元に置いてあるデジタル時計へと視線を向ければ、ソレは十七時二四分を表示していた。


「嗚呼、もうこんな時間だなんて……」


 昨日から降り続いている激しい風雨の音は相変わらずで、私は「はぁ」と小さく溜め息を吐く。そして、じっとりと汗ばんでいる首筋をなぞりシーツの上から這い降りた。


「……喉が、乾く」


 記憶としてはまったく覚えていないが、身体の方は先程まで見ていた夢を覚えているらしい。どくどくと高鳴る鼓動がやけにうるさく、それでいて火照る身体の熱が喉の渇きを齎して忌まわしい。

 そんな身体の熱を収めるため、ある程度の身支度を整えた私は冷たい水を求めて部屋を出る。勿論、殺人ゲームが行われているこの環境下において、単身で部屋の外へ出ていくのは推奨されるべき行動ではないのは重々承知しているし、むしろ自殺行為と言っても過言でない所業であることも理解している。

 だが、身体の火照りと喉の渇きには、抗えない。


「……でも、一人で出歩いているところを牛宮さんに見られでもしたら、危機感の薄さをまた指摘……いえ、それこそ首を絞められながら言及されるかもしれませんね」


 初対面でありながら。そしてゲーム開始前の時分でありながら。ふらふらと一人でこの白鳳邸内を見回っていた私に危機感の薄さを指摘してきた牛宮。

 軽薄そうに見せる服の着こなしや色味に加え、多量のピアスと物々しい銀の指輪。染めたと如実に分かる明るい髪色と、目元に張りつくくっきりとした隈が特徴的な、怒りっぽい青年。

 そんな牛宮の姿を思い出しながら、軽食や飲料一式が揃えられていた談話室を目指し歩いていれば、その途中に在る遊技場の扉が不意に開かれた。


「あ」

「……チッ、」


 開かれた談話室の扉。そこから現れたのは、ちょうど私が脳裏に浮かべていた当人――牛宮蒡、その人だった。


「牛宮さん……」


 小さく彼の名を呟き、一歩彼の前から後ずさる。そんな私の所作に苛立ちを覚えたのか、牛宮は私の顔を睨み付け、私の腕を強引に掴む。そして勢いよくその腕を引き、軽快な音楽が流れている遊技場の中へと連れ込んだ。


「テメェッ! その薄い危機感をどうにかしろと昨日言ったばかりなのに、忘れやがったのかッ!」


 私を壁に押し付け、至近距離で声を荒げてくる牛宮。くっきりとした隈が特徴的な彼の目はぱっちりと見開かれ、その瞳は激情の色で満ちている。


「忘れては、いませんが……」

「忘れてねぇなら何で、一人でふらふら出歩いてやがンだ! 人が死にまくってンだぞ!」


 忌々しげに顔を歪ませ、叫ぶ牛宮。そんな彼に「……水が飲みたくて」と素直に零せば、「水だぁ?」と牛宮は訝しげな顔をする。


「……チッ、こっちに来やがれ」

「えっ」


 私の腕を改めて握り直し、遊技場の奥へ移動させようとしてくる牛宮。その行動に戸惑いの声を上げれば、ピタリと彼は足を止め、私の方へと振り返る。


「文句でもあンのかよ」


 殺人犯が特定されていない状況下での、二人きりという状態。

 それも、怒ると何をしでかすか分からない。それこそ首を締めてくるかもしれないような人と、二人きり。

 現状における状態と、牛宮蒡という人物についての情報を脳裏で駆け廻らせながら、私は彼への言葉を「い、いえ。そういうわけではないのですが……」と濁らせる。

 私の腕を握る彼が「犯人である」という確証は、何一つない。しかし「犯人ではない」という確証もまたない以上、彼と二人きりで居るような状況は避けるべきだろう。それに、ふとした弾みに彼の逆鱗に触れ、殺されてしまう可能性だってある。

 少なくとも彼は、前科として昨日私の首を絞めてきているのだから。

 例え昨日のソレが警告の意味を持ってなされた行為だったとしても、私にとって牛宮に首を絞められ、殺されかけたという認識は変わらない。

 されど、そんな私の逡巡を知らない牛宮は、強引に私の腕を引き、改めて遊技場の奥へと向かおうとする。

 いっそこのまま、牛宮の手を力任せに振りほどいてしまったらどうだろうか?

 そんな碌でもない案が脳内で鎌首をもたげるが、私は「しない」と一蹴する。

 もし彼の手を無理に解いて、機嫌を損ねさせてしまったら? 彼の反感を買ってしまったら? 彼を逆上させでもしてしまったら? 殺されてしまうとは言い切れないが、それでも殺されてしまう確率は跳ね上がるだろう。ならば、そんなことを……彼の手を振り解くなど、するべきではない。

 そもそも私は死にたいわけでは、ないのだから。

 そんな事を考える私の腕を引きながら、牛宮は足早に遊技場の中を突き進み、その奥に在る小ぢんまりとしたバーカウンターの一席へと強引に座らせてくる。


「で、水で良いのか?」

「あ、はい。できたら氷を入れてもらえると嬉しいです」

「……ン、わかった」


 私の腕から手を離し、カウンター内へと移動する牛宮。彼は戸棚からグラスを取り出すと、その中に氷とミネラルウォーターらしきラベルの張られたボトルの透明な液体を注ぎ入れる。


「おらよ」

「ありがとうございます、牛宮さん」


 こん、と音を立てて目の前に置かれたグラスを手に、一思いにその透明な液体を煽れば――しゅわしゅわとした刺激が咥内一杯に広がった。


「っ⁉」


 ぎょっと目を見開き、カウンター越しに居る牛宮の顔を見やれば彼は悪びれもせずケラケラと笑っていた。


「ッハハ、なンつー顔してンだよ! 炭酸水飲んだだけでンな顔するヤツ、初めて見たぞ!」

「わらいごとじゃ、ないのですが!」

「わりぃわりぃ。でもよ、さっぱりしたい時に飲むなら水じゃなくて炭酸水だろ? テメェ、それでなくても、すっげぇ顔色悪ぃしさ」


 「配慮だよ、配慮」と笑う牛宮に対し、「一体それは、どういう理屈ですか!」と問い上げたくなったものの、彼が補足するようにして語った後半の言葉を聞いた私はしゅわしゅわと口の中で弾け刺激する無味の炭酸水もろともその問いを飲み下す。


「……っ私、そんなに顔色が悪いですか?」

「稀に見る悪さだぞ? まるで、血が全部抜けていった顔って感じだな」


 つまり血の気の引いた顔。青ざめた顔だと言いたいのだろうか。

 お世辞にも血色が良いとは言えない牛宮にそう言わしめさせるほど、今の私の顔色は悪いのだろうか? 嗚呼、部屋を出る前に鏡を一度ぐらい確認しておけば良かったかもしれない。

 私に水、ならぬ炭酸水を寄越した後、自分の分の飲み物も用意した牛宮がカウンターの内側から出てきて、私の隣へと座る。

 彼の手中にあるグラスには色の着いた液体。おそらく酒かジュースの類が入っているのだろう物が握られており、牛宮はそのグラスに口を付ける。


「あの、牛宮さん」

「なンだ?」

「牛宮さんに幾つか質問したいことがあるのですが……構いませんか?」

「……質問なら午前中に、あー、柳、だっけ? と、しに来たり他の奴らとも話したりしたじゃねぇか」

「それは、そうですが……」


 牛宮の言う通り、私は午前中に柳と一緒に牛宮には幾つかの質問をしたし、談話室でも生存者である柳や花陽、天立たちからある程度の話しは聞いた。しかしソレは何のために此処へ来て、事件が起きた時に何をしていたか、という現状把握の質疑応答にしかすぎず、死んでしまった参加者たちの間柄についてはほとんどと言っていいほど触れられていない。

 だからこそ私は意を決して口を開き「私は、牛宮さんと一緒にこのゲームに参加した、月山さんや、宇野下さん、姉川さんについての事が聞きたいのです」と隣に座る彼に訊ねた。

 死人に口なし。最早語ることの出来なくなった彼らの事を知っているのは牛宮しか居ない以上、彼に語ってもらわなければ私は彼らについて何一つ知らないままだろうから。


「アイツらの? まあ、オレは鎌わねぇけど」

「えっ、……良いのですか?」

「ンだよ、オレがテメェの頼みを断るとでも思ってたのか?」

「はい」

「即答すンな! そこまでオレは薄情じゃねぇ!」


 「面倒くせぇ」だとか、「ンなことを聞いて何になンだ」等、多少ごねられる可能性があると思っていた私に対し、二つ返事で是と答えた牛宮。そんな彼の顔を驚いたように見つめれば、彼はふい、と私の方から目を逸らした。


「それに、アイツらのことを知るのはもうオレだけしかいねぇんだから、オレが話さねぇとどうにもならねぇだろ?」

「そうですね、なら……質問、しますね」

「おう」

「牛宮さんにとって、月山さんはどんな方でしたか?」

「桂……月山桂は、調子のイイ奴で、オレ達のムードメーカだったな。ただその反面、感情の起伏がデカくてキレやすいっつーか、」


 月山桂について、あまり語る機会が無かったのだろう。牛宮は言葉を選ぶようにゆっくりと語り、自身の手元にあるグラスへと視線を落とす。


「機嫌を損ねないよう、適度に煽てていれば扱いやすい人……でしょうか?」

「ハハッ! テメェ、イイ表現するな! ああそうだ、桂は適度に煽てておけば扱いやすい馬鹿なンだよ! ま、あンまり煽てすぎると調子に乗って喰いに来るかもしれねえから、女は関わらねぇのが一番だな」

「そう、ですね」


 此処へ来た初日の夜。月山に声を掛けられた時の出来事を思い出した私は苦笑する。

 あの時は柳が助けてくれたから事なきを得たが、あの瞬間あそこに柳が居なければどうなっていたことか。今思い返してみても恐ろしくなる。


「あの、なら宇野下さんと姉川さんはどんな方でしたか?」

「宇野下と姉川か……。正直アイツらとはあまり関わりを持たねぇようにしてたからな、殆ど知らねぇンだよ」

「そうなのですか? 牛宮さんと一緒にこのゲームに参加された方々だと窺っていたので、てっきり仲が良いものだと思っていましたが」


 私のその言葉に「ハハッ!」と乾いた笑いを吐きだし、牛宮は手元のグラスに注がれている液体を一思いに煽る。


「っ、宇野下は結構話しかけてくるヤツだったけど、アイツは自分にとってメリットになるようなこととか、自分の立場が良くなるようなことぐらいにしか興味がねぇ自己中心的なタイプだったからな。アイツが関わってくると、たいてい碌なことにならねぇンだよ。ンで、姉川に至ってはその宇野下にどういうわけかゾッコン。オレとか月山なんかには興味もねぇのか、宇野下が居る時にしかまともに会話もしねぇぞ」

「…そんなことが本当にあり得るのですか?」


 当たり障りのない会話程度なら何処かのタイミングでしそうなものなのだが、それさえも無かったのだろうか? そう半信半疑で訊ねてみれば、牛宮は「はぁ」と溜め息を吐き、一瞬だけ、私の方へと視線を向けた。


「それが、あンだよ」


 「っつーか、オレも人と話すのが得意なほうじゃねぇからな」そう補足し、言葉を閉ざす牛宮。けれど質疑者たる私は、彼への問いを止めはしない。


「なら……どうして牛宮さんは、あまり……仲の良くなさそうなその人達と一緒にこのゲームに参加したのですか?」


 適度に煽てなければならない月山桂。自分のメリットにしか興味のない宇野下草子。そして、そんな彼女にしか興味が無く、宇野下が居ないとまともな会話さえしない姉川萌音。そんな彼らと共に、何故牛宮は命を掛けた殺人ゲームに参加したのだろうか?

 普通。そう、私の知る常識の範囲ならば、そんな人達と共に参加はしないだろう。

 けれど、十億円という金額がゲーム勝利者の賞金として掲げてあれば、ソレが彼らなりの……否、彼らを自身の同伴として連れてくることを決めた牛宮の理由となるのだろうか?


「あー、それはな……。オレに届いてた招待状っつーか、……参加案内のメールを、桂と宇野下が勝手に見やがったンだよ。本当は一人で此処に来るつもりだったのによ」


 牛宮のメール管理の状態がどのようになっているのかなど、私の知ることではない。が、あまり仲は良くなくとも、それなりの期間を一緒に過ごしているともなれば、相手が勝手に自分の端末のロック番号を把握している可能性も十分にあり得るだろう。

 「それは、災難でしたね」と牛宮に同情の意思を示し、私は「でも、」と言葉を続ける。


「連れてくるつもりが無かったのであれば、彼らの参加を拒否することは出来たのではありませんか?」


 結局のところ、彼らと共に此処へ来るのも、来ないのも。牛宮の一存だけで決められたはずだ。

 私には同伴者は居ないし、そもそもどういった経緯であの便箋を手にしたのか記憶にないから、どんな経緯で同伴者を連れて行く流れになるのかは分からない。だがそれでも、招待状の受け取り主である牛宮には、同伴者を決定するだけの権利はあるはずだ。

 しかし、そんな意味を込めて質問した私に対し、「まあ、そうなンだけどよ」とぶっきらぼうに返答した牛宮は、ピタリと口を噤んでしまう。

 そんな彼の様子を横目で見ながら、私は自身の手元にある炭酸水に再び口を付ける。

 牛宮の返答を聞いた率直な感想として、牛宮が月山や宇野下、姉川を殺害する動機は十分にあり得ると思う。勿論、本当に彼らを殺害したかという点には聊かの問題が在るのだが。

 少なくとも、月山の死亡推定時刻。すなわち殺害時は、牛宮は私や柳と居たから、彼が月山を殺害したという線は限りなく薄いだろう。だが、宇野下と姉川の場合は牛宮が彼女たちを殺した可能性は大いにある。否、むしろ彼が彼女たちを殺し、自殺や心中に見せかけたと考えた方がよほど納得出来るほどに。勿論、ソレは納得が出来る、道理が通るといった個人的な解釈でしかないのだけれど。

 証拠一つないただの空想上の納得と、道理。ソレを考えながら炭酸水入りのグラスを煽り、ミュージックボックスから流れ続けている音楽に耳を委ねる。

 何を問いかけるでもなく。しばらくの間、互いに無言のままで居ればカラン、とグラスの中にある氷が音を立てたのをきっかけにして、牛宮が躊躇いがちに「……テメェだけに、言うンだけどよ」と口を開いた。


「実はオレさ、中学まで桂と宇野下と同じ学校だったンだよ。しかも、高校進学でアイツらと別れるまで、虐められてた」

「……えっ?」


 耳を疑うような牛宮の発言に思わず「ソレが彼らを殺した動機なのですか?」と言いそうになってしまう口を押え、私は彼が語るであろう言葉の続きを待つ。


「中学までのオレはクソがつく程の真面目。しかもテメェみてぇに危機感がアホみてぇに薄くて、誰でもホイホイ信用しちまう馬鹿なお人好しでよ……。荒っぽい桂や、人を見下したがる宇野下のイイカモだったンだよ」


 苦虫を噛み潰したかのような顔をしながらそう語った牛宮は、「はぁ」と大きなため息を吐く。


「……危機感が薄いのはなんとなく自覚していましたが、私、そんなに誰でも信用してしまっていますか?」

「ハハッ、自覚がネェとか相当だな! っつーか、オレみてぇな危なそうなヤツから離れずに今居る時点で、相当オレを信用してるように見えるぜ? ま、信用してねぇのについてきた挙句、出された飲み物を飲ンでるっていうなら、相当の馬鹿か阿呆か、お人好しだろ」

「なるほど、お人好し」

「ただの例えだぞ。テメェは騙されやすいアホで十分だ」


 チッと舌を打ち、「話題を戻すぞ」と言った牛宮は持っていたグラスをカウンターの上に置き、空になった手を軽く振る。


「だから、オレは……そンな騙されやすくて、阿呆で、馬鹿で、お人好しな自分を止めるために、こうなった」

「こう、なった?」


 彼らに虐められたという忌まわしい出来事が在った。だから彼らを此処で殺し、復讐した。

 今の彼の発言は、そういう意味なのだろうか?

 歪に陥没した頭部と、身体中に刻まれた切り傷から血を垂れ流す月山。バスタブで溺死させられた宇野下と、自殺したとされる姉川。その三人の姿を思いだし、私は身震いする。

 だが、次に彼が吐き出した言葉は、そんな私の想像とは違う代物だった。


「オレはクソ真面目だった自分を捨てて、アイツらみたいなヤツらに舐められねぇようにした。見た目も派手にして、言葉使いも粗野にしてな。いわゆる、高校デビューってやつだよ」


 「ハハッ」と軽快な声で笑い、牛宮は更に言葉を続ける。


「推薦で入った高校のセンコーにはすっげぇビビられたし、親も呼び出しを食らってたけど……まぁ、親も中学時代オレが虐められてたのをオレのせいにしてやがったからな。オレとしては、ざまぁみろ! って感じだった」

「……中学を卒業し、高校へ進学した時。牛宮さんのことを知る人は、そこに居なかったのですか?」

「ンなモン居るわけねぇだろ! オレを虐めたり無視したヤツら、軒並みオレより頭が悪い馬鹿ばっかりだったからな! でもな大学に進学してしばらくした頃にさ、会っちまったンだよなぁ」


 あン時のことは今思い出しても笑えるわ。と一人零し、せせら笑った牛宮は横目で私を見る。


「バイトの帰りによ、裏路地でガチのヤンキー集団にボコられてる奴を見つけたンだ。それが昔のオレ……桂たちに虐められてた無様なオレと重なってみえてよ、助けてやったンだよ。そしたら助けたソイツ、誰だったと思う?」

「……誰、だったんですか?」

「ハハッ! ソイツ、オレを虐めてた桂だったンだぜ! しかもアイツ、オレを虐めてやがったことなンかひとっつも覚えちゃいなかったし、それどころか助けて以来オレに付き纏うようになりやがった!」


 それこそ金魚の糞みてぇにな!

 声を大にし、嘲笑う牛宮。彼は嬉々とした表情を浮かべながら、天井を仰ぐ。


「しかもよ、学科はちげぇけど、桂と一緒に宇野下も同じ大学に進学してたみてぇでな。アイツ、アニ研の『オタサーの姫』で野郎共を貢がせてたのに、新入生の女子にその座を取られてオレたちのトコに逃げ込んできたンだぜ?」


 マジで、あン時はウケたなぁ。

 過去の感慨に浸るようにしてそう語った後、牛宮は天井を仰いでいたその顔をゆっくりと下ろす


「……なら牛宮さんは、姉川さんとは大学で知り合ったのですか?」

「まあな。っつーか、姉川は宇野下の糞だから。アイツとしては宇野下の傍にオレらが居る、みたいな感覚だっただろうから、知り合いでさえねぇだろ」

「なるほど」

「ンな糞みたいなヤツらしか周りに居ねぇような、つまンねぇ大学だったンだけどよ……」


 僅かに言葉尻をすぼめ、珍しく私の顔を、目を、真っ直ぐに見つめてくる牛宮。

 そんな彼が次にどんな言葉を吐きだすのか。見守るように彼の瞳を見返していれば、牛宮は大きく息を吸い、「ソコにテメェが居たんだよ……なぁ、ダリア」と、私そっくりらしい赤の他人の名前を呼んだ。

 嗚呼、花陽が私を「ダリア」と呼んだように。牛宮もまた私の事を私そっくりの見知らぬ「誰か」だと思っているのだろうか?


「私は、ダリアさんでは」

「ちげぇよ! あのガキの事じゃねぇ! テメェ自身の事だ! テメェは、オレの事だけじゃなく自分の名前までも忘れちまってンのか!」


 至近距離で私を睨み、怒声に悲痛げな声色を混ぜた牛宮。その言葉の一片である「忘れている?」という単語を反芻し、私ははたと、一つの事に気が付く。否、気が付いてしまった。

 私は、大きな勘違いをしているのではないのだろうか?

 私は、自分の名前を知らないのではない。

 私は、どうして此処に居るのか知らないのではない。

 私は、何を目的としてこのゲームに参加したのか知らないのではない。

 知らないのではなく、忘れてしまっているのだ。

 だからもしかしたら牛宮や花陽が言うように、私は「ダリア」なのかもしれない。

 でなければ牛宮や花陽など、複数の人間が見間違うほど、外見も中身もそっくりな人間が居るわけがないのだから。

 至近距離で私を睨む牛宮からの視線を痛いほど浴びながら、「私は、ダリア……」と零せば、牛宮は「やっと思い出したのか?」と私の頬に手を添えてくる。


「……最初はよ。オレが捨てたクソ真面目な部分にそっくりだったテメェのことは、昔の自分を見せつけられてるみてぇで嫌いだったンだ。でもよ、テメェはあからさまに邪険にしてたオレに対しても平等だったンだ。しかも外野が五月蠅くテメェを詰ったり、無視したりしてても、テメェは何時でも真っ直ぐ背筋を伸ばして、凛としてた。そんなテメェを見てたら……目が、離せなくなっちまったンだ」


 幾つもの指輪の嵌められた掌で私の頬をやわくなぞり、愛おしむようにして隈の張りつく目を細めた牛宮。

 私の事を語る彼の表情は穏やかそのもので、怒りも、苛立ちも無い。


「テメェが困ってンを見かけたら、率先して助けてやったし。金持ちのテメェに見合うようなプレゼントだってくれてやった。テメェは笑顔でソレを受け取って、オレに好意を抱いた。じゃなきゃ、普通、連絡先なんて交換しねぇだろ? 会話だって毎日したりしねぇだろ? なのに、なのになのになのになのに! テメェはオレの好意をあっけなくドブに捨てやがった!」


 私の頬をやわく、優しく、緩やかになぞっていた牛宮の掌が、首へと滑り落ちる。


「なンでオレの好意を捨てやがった! オレの何が気に入らねぇンだよ!」


 あンだけ良くしてやったじゃねぇか!

 先ほどからの穏やかさから一変し、怒号を飛ばす牛宮。

 その表情は見なれた怒りを映しており、記憶を失う前の私は牛宮に何をしてしまったのだろうか? どんな手ひどい方法で彼の好意を踏みにじってしまったのだろうか? と考えざるを得ない。

 そう。例え彼が語る連絡先の交換や、毎日あったという会話が、友人手前の人間であっても理由さえあれば行われるただの事務的な。それこそ好意とはかけ離れた代物だったとしても――彼を此処まで追い詰め、傷つけてしまったのは他ならぬ私なのだろうから。

 嗚呼、けれども。けれども、たったそれだけしかない間柄なのに、どうして彼は「私も好意を抱いた」などと勘違いすることが出来たのだろうか?


「なンでだよ! テメェだって、オレの事が好きだったじゃねぇか! オレに優しくしたじゃねぇか! なのに、何でッ! 何でだよッ!」

「――っ!」


 否定の言葉を吐きだして、彼の勘違いを正したい。なのに私の喉は、声を発さない。

 威圧してくる牛宮が怖いのか、首に掛かる彼の掌が恐れを煽るのか。強張った声帯の筋肉が、声を出すことを許してくれない。

 嗚呼、私の思考はこんなにもはっきりとしているのに!


「桂を殺したのはオレじゃねぇ! 宇野下や姉川が心中したのもオレのせいじゃねぇ! 全部アイツが! オレにダリアを殺させたアイツがやったンだ!」


 目を見開き、私を食い入るように見つめ、叫ぶ牛宮。

 彼の言うアイツとは誰? そして今の言葉の中にあった「ダリア」とは、あの小さな少女の「ダリア」の、私の【妹】のことなのだろうか?


「っそれは、誰の、こと」


 絞り出すようにして出した声。それはどちらの「ダリア」のことですか? アイツとは、いったい誰のことですか? そんな意図を込め彼に問うが、牛宮は「オレは悪くねぇ!」と怒りと苛立ちを孕んだ声で私の言葉を塗り潰してしまう。

 嗚呼、いけない。

 このままではきっと、彼は私を殺してしまうだろう。

 いったい何が彼の逆鱗に触れてしまったのか分からない私ではあるけれど。私と彼の間にどんなことがあったのかまるで覚えていない私ではあるけれど。このまま彼と一緒に居続けていては自分の身が危ないことぐらいは、すぐに理解出来た。

 だから私は、自らの首に掛かる彼の手に爪を立て、彼がその痛みでひるんだすきに力任せにそれを振りほどく。そして軽快な音楽が流れ続けているこの遊戯場から逃げ出そうと、バーカウンターの椅子からはじけ飛ぶようにして、駆ける。

 しかし彼はそんな私をすぐさま捕まえ、ビリヤード台へと――昨日彼と出会った時にされたのと同じように、押し倒した。


「う、しみやさんっ!」


 昨日、私にしたように。私の首に手を掛け、圧を加え、押す牛宮。


「テメェが、テメェが悪いんだ! オレを拒絶して、オレを見下して! そしてオレの人生を滅茶苦茶にするだけじゃ飽き足らず、オレたちをこンな狂った場所に誘って! 殺し合いまでさせる⁉ 何がしてぇンだよ! 何時まで経っても自首をしねぇから、脅しでもしているつもりなのか⁉ 罰を与えてでもいるつもりなのか⁉ クソ! クソ! クソ!」


 私の首を絞める牛宮が吐きだす言葉の意味。その全てが、私には理解できない。

 私が彼の人生を滅茶苦茶にした?

 私が彼らを此処に閉じ込めて、罰を与えている?

 嗚呼、牛宮はいったい何を言っているのだろうか?

 分からない、知らない、覚えていない。

 理解出来ない言葉を並べ立てる薄い唇。怒りに狂い、汗さえも零す必死な形相。

 そんな牛宮の顔を見上げながら、私は喉に掛かる彼の手を拒もうと必死にもがく。けれど私程度の非力な女の力では、成人男性たる彼の握力を解くことは叶わない。

 空気が欲しいと。新しい酸素が欲しいと、喚く肉体。されどどうすることも出来ない非力な私は、その喚き、生存に不可欠なその望み一つ叶えてやれない。

 ああ、嗚呼。

 彼女もまた。私の【妹】であるダリアもまた。この苦しみを感じながら、自らの非力さを、無力さを呪いながら殺されたのだろうか。

 動かすことさえ儘ならなくなってきた身体から力が抜け、牛宮の顔を見上げるだけしか出来なくなった私は、唯一許された思考で夢想する。

 私に微笑むあどけない少女を。白のワンピースが良く似合う幼いダリアを。

 そんな彼女の姿を、複数に連なる彼女たちの姿を、牛宮の後方に夢想し――彼女たちに向けて私は満面の笑みを、浮かべた。




「おやすみなさい、お姉さま」



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