第50話
「……なんで?」
いきなり莉緒は何を言い出すのかと思った。さっきも嫌がっていたのに抱き締めるなんてできない。
でも、莉緒の本気そうに切実に言ってきた。
「抱き締めてほしいんです。景子さんの事感じたいんです」
「……ダメ」
それでも私は断っていた。いいなんて言えない。さっきの様子も前の怖がって怯えていたのも見ている。私は莉緒に極力触りたくなかった。
「……どうしてもダメですか?」
莉緒は視線を下げて腕を強く握る。
「……嫌がる事はしたくないの。まだ嫌でしょ?体調が良くなったらしてあげるから」
「……」
あんな顔させたくなかった。それにこの子の苦痛をもう呼びたくない。莉緒は私を見つめた。
「……一回だけでいいのでしてくれませんか?……どうしても景子さんに触ってほしいです」
「……」
賛同はできなかった。莉緒の気持ちは分かるし私もできるならしてあげたいが苦しめるのは目に見えている。断ろうとしたら莉緒は必死そうに言った。
「お願いします。……今日だけ、今日だけ我が儘聞いてくれませんか?」
「……少しだけだよ」
莉緒の様子が本気だから断らないといけないのに私は見るに耐えなくて聞いてしまった。今の状況さえもこの子を苦しめている。私は心苦しく思いながら無言で莉緒に近づいて背中に腕を回そうとした。だけど莉緒はそれだけで怖がるような嫌がるような素振りを見せたから動きを止めた。気持ちはあるのに、でもダメなのにこの子はまだ私を否定したくないんだ。私はすぐに手を引いた。
「やめよう」
私は莉緒から距離を取った。莉緒は大切で愛しているけど触りたくない。莉緒は辛そうな顔をした。
「……私、景子さんが好きです」
「……」
「一番、一番好きなんです……。本当に愛してます」
「分かってるよ…」
この子の気持ちは痛いくらい分かるから聞いているだけで切なくて胸が詰まる。莉緒は涙を溢した。
「景子さん……これ、治らなくてごめんなさい。治したいのに治りません。これからずっと私、……触れないかもしれません……」
涙を流す莉緒は本当に弱々しくて私の心が軋む。もう莉緒の心は限界まで来ているんだ。私は苦しみを感じながらそれでも笑いかけた。
「治るよ莉緒。私も手伝うから治るに決まってるよ。いつかは分からないけど、きっと良くなるから。莉緒がそんな弱気じゃ治るものも治らないんじゃない?」
私まで悲しんで苦しんでいる様子は見せてはいけない。莉緒の前では私はいつも希望のようでありたい。でも、莉緒は泣き止まなかった。
「でも、でも…本当に治りますか?薬飲んでも気持ち悪くて、眠れなくて、……何回も洗ってるのに汚れてる感じがして……全然良くなる感じがしません。景子さんがいてくれて嬉しいのに、景子さんが私を気にかけてくれて嬉しいのに……ずっと気持ち悪くて嫌なんです……。こんなんじゃ、こんなんじゃ私景子さんの重荷じゃないですか。私、景子さんの重荷になりたくないんです……」
壊れかけた心の声に涙が出そうだった。莉緒はこの状況に心が折れてきているんだ。なのに私をまだ優先して考えているのが切なくて、私は精一杯の愛で応えた。
「……莉緒は私にとって大事だよ。重荷になんかならない。私は莉緒がずっとこのままでも好きだよ?愛してる。触れなくても気にしてない。私はそれよりも莉緒が苦しくないようにしてあげたいの。私は、私はあんまりうまく慰めたりとかできないけど、莉緒が好きだからそういうのもしてあげたい……」
「……景子さん……」
「莉緒は何も心配しなくていいよ。莉緒はさ、莉緒は……いつもみたいに一緒にいてくれればいいから。いつもみたいに話してご飯食べてデートして、……それで一緒に寝てくれるだけでいいから。こないだも言ったけど私は面白い話とかできないからつまんないかもしれないけど、莉緒が楽しくなるように本当に頑張るからさ。だから、何もしなくていいからそばにいてくれない?……自分じゃあんまり思い付かないからすごい事とかしてあげられないかもしれないけど……莉緒には一緒にいてほしい」
私は莉緒にもう何か求めたりしない。
もう沢山貰ったからいいんだ。
その愛だけで私はもう充分だから次は私が返す。
なにか特別な事はできないけど莉緒がどうすれば笑ってくれるのかはなんとなく分かっている。
莉緒の好きなものも、莉緒が好きな事も知ってる。
だから辛い思いはさせないからそばにいたかった。
何もいらないからそばにいてほしい。
この子がいたから私の生活は輝きだした。
「……ありがとうございます。私も景子さんといたいです。景子さんにいてほしいです……」
「うん。……莉緒は、なんか不安に思ったりしなくていいから」
「はい。ありがとうございます……」
涙を拭う莉緒はやっと笑ってくれた。それが綺麗に見えて愛しかった。
「莉緒。好きだよ…本当に」
「はい。私も大好きです」
「そう」
見えない傷は消せないけれど痛くないようにする事はできる。私は愛しい莉緒をただ見つめた。
「調子悪かったり、不安だったりしたら言って?なるべく助けてあげたいから」
助けると言ってもそばにいるくらいしかできないがこの子の気持ちがそれで安らぐならしてやりたい。莉緒を一人にはさせたくない。莉緒は嬉しそうに頷いた。
「はい。……景子さんは優しすぎます」
「……別に普通だから」
莉緒は前も言っていたが莉緒がしてくれた事をしているだけだから反応に困る。莉緒は小さく笑った。
「景子さんはいつも優しいんです。自覚がないだけです」
「……そう」
「ふふふ。景子さん、私あんまり考えすぎないようにしますね?」
私を見つめる莉緒の涙はやんだ。そして明るくいつもみたいに話しだした。
「このままは嫌なので嫌な事は考え過ぎないようにします。これもちょっとした悩み事と一緒です」
「……そうだね」
明るく前向きな莉緒は莉緒らしくて愛しいとすら感じるのに心は切なさに包まれる。
「そうです。悩みなんか悩んでても仕方ないんです。こんな事ばっかり考えてたら景子さんを考える時間が無くなっちゃいます」
「ふっ、そうだね」
莉緒の明るい発言には笑ってしまう。それなら私も乗ってあげよう。
「もっと私の事考えてくれないと寂しくて死ぬかもね私」
「え?それはダメです!私もっと景子さんの事考えます!いつも頭の八割くらいは景子さんですけど十割考えます!」
「そう」
冗談なのになぜか本気で受け止めている莉緒は前の莉緒のようだった。この子はやっぱりこういう感じが合っている。私は莉緒が喜ぶように言ってあげた。
「じゃあ、私も同じくらい考えてあげるから余計な事考えないようにね」
「はい!景子さんにいっぱい考えてもらえるなんて私幸せです。景子さんに負けないくらい考えますね?私は十割越えちゃいます」
「そう」
「本当ですからね?私は寝ても覚めても景子さんだけなんですから」
自慢気な莉緒はバカっぽくて生意気だが悪くない。
「あっそう」
「景子さん信じてないんですか?」
「信じてるよ。それよりもう寝よう。明日もあるんだから」
「はい!」
莉緒の根底に触れて早く莉緒を楽にしてやりたい、そう思いながら私は笑っていた。
この子の闇は消えてなくならないからこの状況がどう転ぶかは定かではない。だが莉緒の負担はできる限り軽くしていこう。それこそ最大限に自分の力を使って。
そして翌日は莉緒が仕事に元気そうに送り出してくれた。それだけで安心した気分になるが昨日は色々あって少し体が疲れた。というより考える事はあるので正直仕事なんかしていられない気分だったがなんとか乗りきった。
なので仕事終わりはいつもより疲労を感じていてもう早く帰ってしまいたいが莉緒を喜ばすためになにかお土産を買って帰ろう。私は駅の近くのデパートでパン屋を見る事にした。莉緒は前に私にパンを買ってきてくれたからパンが好きかもしれない。
私は少し考えながらパンを買って帰り道を歩きながら喜んでくれるか不安を感じていたら携帯が震えた。
確認してみると昨日怒っていた紗耶香から電話がかかってきていた。
「もしもし」
「もしもし景子?ヒロミから聞いたよ。いいのめしたんだって?」
笑っている紗耶香は昨日とは違う。
「まぁね」
「あいつ本当ムカつくから景子が言いのめしたって聞いてすっきりした。景子の幸せを考えてるだのなんだのキッもい事言っててさ、本当ぶちギレちゃったよ。未練たらたらの勘違いに成り果ててたね」
「ふふ、そうだね」
紗耶香もたぶん私と同じ理由で怒ったんだろう。もう腐れ縁の仲だが私はいい友達を持った。そして紗耶香はちょっと怒り口調で話した。
「マジで一回ぶん殴ってやれば良かったよ。あのくず女と付き合うとかあり得ないって言ったんだよ?別に誰と付き合ったって本人が幸せならいいだろって話じゃない?僻みにしか聞こえないし景子バカにされたみたいでムカついたからばとっといた」
「そう。ありがとう。私も水かけてやった」
「え?マジ?笑える。景子が水かけたって怖すぎ」
紗耶香はおかしそうに笑い出したが私も笑った。
「なんか頭きたからさ」
「まぁ、あれはムカつかないやついないよ。もう何年も前に付き合ってたのに何をとち狂ったのかね?それよりまた飲もう三人で。あっ!そうだ忘れてた。莉緒ちゃんは?あれからどうなったの?」
相談をしたくせに報告するのを忘れていた。まだ問題はあるが紗耶香には話しておこうと思う。
「辞めてくれたよ。すぐには辞めれないからってまだやってるけど」
「そうなんだ。よかった~、心配してたんだよ。体調は平気なの?」
「いや、それがあんまりよくなくて。かなり参ってるよ」
あの様子を思い浮かべると胸が痛む。でも紗耶香は明るかった。
「じゃあ、ちゃんとそばにいてあげなよ?そういうのは一日二日じゃ治らないんだから年上らしくリードしてあげないとダメ。あと景子ドライ過ぎだから優しくね?」
「……うん。分かってるよ」
私はいい歳なのにこう言われるとむず痒い感じがする。紗耶香は心配そうだった。
「なんか、私も助けてあげたいけどそういうのは赤の他人じゃどうにもなんないからねぇ。莉緒ちゃん会いたかったけどまだ先になりそうだから酒飲んで待ってるわ」
「うん。体調が良くなったら連れていくよ」
「うんうん。あっ!ちょっと待って。私昔大量にリラックス効果があるって言われてる中国茶みたいなやつ買ったから今度会う時あげるよ。渋いけど体暖かくなって良かったから」
「そうなの?ありがとう」
「全然。莉緒ちゃんのためだもん。早く良くなるといいね」
紗耶香の励ましが私は素直に嬉しかった。
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