第49話



次の日は朝から寝不足だった。

私も歳だから十二時を過ぎると次の日に堪える。だからって莉緒を待つのをやめる気はないが、気持ちに体がついてきてくれないのを歳を取ると実感してしまう。


私は莉緒に送り出されて仕事に向かってその日も診療をこなした。今日も朝から夜までアポは埋まっていて気が滅入るが仕事なので仕方ない。それよりも今日はあいつと会わないといけないのが億劫だった。

紗耶香の事もあるがあいつはいったい今さら何なんだろう。紗耶香は基本的に怒ったりはしないのにその紗耶香を怒らせたとなると紗耶香にも会った方がいい。


私は仕事が終わってヒロミの店に向かいながらそう思っていたらヒロミの店には紗耶香がいた。紗耶香は貴史と言い合っていた。


「あんた本当にいい加減にしてくれる?不愉快だから」


「俺は景子と話したい事があるから来てるだけだ」


「はぁ?だから景子の事も考えろって言ってんの!」


紗耶香にしては本気でキレているみたいだ。そんな二人をヒロミは宥めようとしている。私は紗耶香に話しかけた。


「紗耶香」


「景子…。こいつ都合よくなんか話したいみたいだよ?女々しいクズ野郎が」


紗耶香は嫌悪感を醸し出しながら言うと席から立ち上がった。


「景子また飲もう?私もう帰るから」


「うん。また連絡する」


怒っているのは目に見えて分かるが私が来たから引いてくれたんだろう。紗耶香は会計を済ますとすぐに店を出てしまった。


「それでなんなの?もう断ったし、私はあんたが嫌いなんだけど」


私は貴史の隣に座った。あんな不快な思いをさせられてこいつには嫌悪感しかない。貴史は申し訳なさそうな顔をした。


「ごめん。こないだの事謝ろうと思って」


「謝られても不快だから」


「でも、ごめん。俺は景子にフラれてからも景子が好きだったから女と付き合ってるって聞いて心配だったんだ」


「余計なお世話なんだけど」


こうやって気持ちを押し付けられても気持ち悪い。女々しく好きだったなんて言われても終わった話なのに何なんだろう。イライラが沸き上がるが今日は冷静に努める。


「世の中に女なんか腐るほどいるでしょ?自分がうまくいかないからってそんな風に言われても気持ち悪いし私とあんたは仲良くもなんともないのに心配されても引くから。こないだから思ってたけど何様なの?どうでもいい人相手にするのもめんどくさいんだけど」


「いや、違うんだ。俺はずっと景子の事を考えてたんだよ。俺が初めて結婚したいって思ったのは景子だけだ。それに俺達付き合ってた時はうまくいってただろ?だから俺は…」


「あんたが宗教してるって最初から知ってたら私は付き合わなかったけど」


イライラするからもう無駄な事を言われたくない。私は事実を述べた。


「私は宗教が嫌いなの。別にやるのは自由だと思うけどそれを押し付けられるのも嫌いだし、宗教に関しては私は受け入れられないし理解できない。前にそれもはっきり言って断ったと思うんだけどちゃんと理解してくれる?あんたが宗教したいのは分かったけど価値観は皆違うの分かるでしょ?」


「それは、…それは分かってるよ。分かってるから俺はこないだ名前だけおいてくれって言っただろ?」


「は?分かってないでしょ」


こんな話の通じないやつだったかと困惑する。一瞬でも結婚を考えた自分が恥ずかしい。私は怒りを抑えながら話した。


「嫌だって言ってるのにあんたは自分の気持ちしか考えてないじゃん。された方の気持ち分からないの?そんなにいいと思ってて宗教やらせたいならあんたに従ってくれる思い通りになる奴隷みたいな人探したら?」


「……ごめん」


「謝ったからってなにも変わらないから」


こいつはこうやって自分の支配下に私を置きたいのか?こうやって女を支配しようとしてくるやつはいたけど胸糞悪いだけだ。弱い奴からマウント取って優越感にでも浸りたいのだろうか?人を操ろうとするクズみたいな考えが気色悪い。女は物ではない。



「もう顔も見たくないからここに来ないで。あと私にも連絡しないで。気持ち悪いから」



貴史は少し黙ってからまた口を開いた。


「……本当に悪かった。景子がそんな風に思ってるなんて思ってなかったんだ」


「だからなに?」


次は言い訳か。怒りを通り越して呆れてしまう。もう口を開くのも疲れる。私はそれでも言いのめそうとしたら貴史は頭を下げてきた。


「ごめん。俺、知らなかったんだ。景子はいつもなにも言わないし、笑ったりとかしないから景子が幸せになれるように勝手に押し付けてた。だからごめんな。本当にごめん」


「……もう帰るから」



こう言われると私はなぜこいつと結婚を考えていたのか思い出した。嫌な事ばかりありすぎて付き合うのもどうでもよかったが、こいつは今みたいに素直だったし莉緒のように私を喜ばせようとしていた。


貴史は貴史なりに宗教で私を幸せにしようとしていたのかもしれない。


でも、やはり受け入れられない。私の家族を見ているから宗教はもう嫌だし、男女の付き合いも嫌なものを見すぎて男にはいろんな思考が巡ってしまう。女と男では考えが違いすぎるし、結局やりたいという欲が強く感じるから誰とも合わないなと思ってしまっていた。

姿形は似ているが根底が違いすぎるのだ。



私はため息をついて嫌な気持ちを抱えたまま店を出た。


そして歩きながら考えた。


幸せを感じると皆同じように笑うのにそれ以外はなんでこんなにも違うんだろう。


幸せはなんで人によって不幸に感じたり嫌に感じたりするんだろう。


幸せの定義なんかないのを改めて理解してやはり分かり合うなんて不可能なんだと思ってしまった。


だが、そう思うと怖かった。

莉緒を幸せにしたいのに私の考える幸せの仕方はただの押し付けかもしれない。

それで莉緒がますます嫌になってしまったらあの子を失ってしまう。そしたら、そしたらどうしたらいいんだろう。


私はどうしたらいいんだ?


私はちゃんと莉緒のためになにかできているのか?



途端に恐怖と不安に襲われて家に帰るのが怖かった。莉緒は本当は嫌かもしれない。私は何もうまくできないから嫌気がさしているかもしれない。


それで莉緒が本当に嫌だったら謝ればいいのか?でも、謝ったからって許してくれるのか?分からない。分からなくて怖い。

私は胸に不安を抱きながら玄関のドアを開けた。

この不安は無くならないけど分からないなら莉緒に聞けばいい。そうすれば莉緒は教えてくれる。莉緒はいつも教えてくれるから分からない事や不安を話せばいいんだ。


自分に言い聞かせながら部屋に入ると部屋の明かりはついているのに莉緒がいなかった。まだ思ったより早い時間だから風呂かもしれない。荷物をおいて風呂場を確認しようとしたらトイレからえずく声が聞こえた。


「莉緒?大丈夫?」


「はぁ……はぁ……大丈夫です……」


慌ててトイレのドアを開けるとトイレでぐったりしている莉緒がいた。莉緒は見るからに辛そうで私は思わず莉緒の背中に触れてしまった。すると莉緒は驚いたように体を震わせて体をトイレの方に引いた。それは私に罪悪感を呼び寄せて私はすぐに手を引っ込めた。


「ごめん莉緒。本当にごめん……」


「……平気です。平気ですから……見ないでくれませんか?」


「え?」


動揺している私に莉緒は顔を向けずに言った。


「こんなとこ……景子さんには見られたくないんです。……しばらくすれば平気ですから、外にいてください」


「……うん。分かった……」



私は不甲斐なく思いながらトイレのドアを閉めた。莉緒が苦しんでるのに私は触る事もできない。ただ莉緒の気持ちを汲み取る事しかできなくて、私はそばにもいられない。

そんな自分が本当に嫌で、莉緒が辛そうに吐いているのが分かっているのに涙を溢してしまった。


どうしたらいいんだろう。近くにいるのに近くにいられない。私は何をしたらいいのか分からなくてただトイレのドアの前で立ち尽くしていた。

金で解決できたらすぐに解決してやるのにこんな時に金は役に立たない。あの子の目に見えない傷は癒せないのか?



私は弱気になってしまう自分も嫌で涙を拭った。こんなんじゃダメだ。莉緒が一番辛い思いをしているのに私がこんなんでどうするんだ。私が莉緒を愛して幸せにしてやるんだ。だったら私はもっと気丈に振る舞うべきだ。あの子が頼れるように、あの子が辛くならないように私は弱気になってはいけない。


私は莉緒のために紅茶を入れる事にした。具合が悪いならせめて気分が良くなるようにしてあげたい。私はお湯を沸かして紅茶を入れると飲みやすいように少し冷ましといた。


あとは莉緒がトイレから出るのを待って何か声をかけてやろう。あの子は気にすると思うから辛くならないように明るく振る舞おう。

トイレから出てきた莉緒は洗面所で口を濯ぐと腕を擦りながら私に取り繕うように話した。


「景子さん心配かけてすいません。今日は、ちょっと気分が優れなかったんです。でも、今日だけですよ吐いたのは。最近は調子が良かったから本当です。景子さんのおかげで最近は前より体調が良かったですから」


「…そう。なら良かった。莉緒、こっちにおいで?一緒にお茶でも飲もう?」


「……はい」


莉緒がこう言うならいいんだ。莉緒の気持ちは分かるから疑ったりなんかしない。私はソファに座ってくれた莉緒に莉緒のために入れた紅茶を出した。


「まだ眠くない?」


「……はい」


「じゃあ、映画でも見ない?なんか私も眠くないから」


そして私は笑った。昔色々買ったやつがあるからちょうど良いと思った。


「はい。見たいです」


「そう。なに見たい?そこに入ってるから莉緒が選んでいいよ?」


「はい」


私はそれから莉緒が選んだ映画を一緒に観た。王道ラブコメの笑える話は面白くて、私が面白いねと声をかけると莉緒は笑って面白いと答えてくれた。


「莉緒。明日は予定ある?」


私は映画を見ながら話しかけた。明日は私は仕事だけど明後日は日曜だから休みだ。莉緒は首を横に振った。


「ないですよ。明日は暇です」


「そう。じゃあ、明日の夜はドライブしない?今日から三日間流星群が見えるんだって。運が良ければ流れ星が見えるかもしれないよ」


莉緒のために私は最近ネットでいつも調べている。これは良いかもしれないと思ったがどうだろう。莉緒は笑いながら頷いてくれた。


「はい。流れ星見たいです」


「そう。じゃあ見に行こう。……あと、悪いけどちょっと暗いところ苦手だからライトは持って行くからね」


「はい」


ちょっと嘘をついてしまったが、莉緒は暗闇を嫌がっていたから明るくしてやれば大丈夫だろう。その分星は見えづらいかもしれないが外に出る事に意味がある。


「明日は夜中になるから起きてられなかったら車で寝てもいいからね?」


「はい。……景子さん」


「なに?」


「私を抱き締めてくれませんか?」


その言葉で私は笑顔が崩れてしまった。

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