第9話


「先生なんで死ぬんですか?私嫌です先生が死ぬの。そんなのやめましょうよ?」


「……もういいから退いてくれる?私が死んだって困るのは患者さんくらいで他は困らないんだからさ」


時間が間に合わなくなってしまう。私は時計を見て焦っていた。できる限り今日死にたいんだ。最後の誕生日は特別な幸せな日にしたい。私が莉緒を退かそうと肩に手を置いたら莉緒は私の体に強く抱きついて離れなかった。


「やだ!嫌です!退きません!私は困ります!」


私が肩を押しても莉緒は引き剥がされないように頑なに私から離れない。私は焦りながらもまた時計を見た。貴重な時間が減っていく。


「あのお金あげるんだからいいでしょ?私の全部の貯金だし少しは遊んで暮らせるよ。もういいから退いてよ本当に」


私は強引に押しきろうとしたら莉緒は行かせないように私の体に抱きつきながら押し返してくる。


「お金の話じゃないです!お金なんかいらないから本当にやめましょうよ!」


「莉緒離して」


「やです!絶対離れません!」


「……はぁ」


ここまでしつこいとどうしたらいいんだ。莉緒は本気で離れる気がないみたいだ。この様子で説得したところで離してくれるのだろうか。私はもう時間は諦めて莉緒の肩から手を離した。 


「……なんでそんなにやなの?」


莉緒の表情は動揺と困惑に満ちていて悲しそうでもあるがそんな顔をされても私には汲み取れない。莉緒は私の服を強く掴んだ。


「先生が好きだからです。私先生の事大好きだから死んだら嫌です」


「私よりもいい人いっぱいいるから他の人にしたら?誰にだって代えがいるでしょ」


「なんでそんな事言うんですか?私は先生じゃないと絶対嫌です」


めんどくさいがあしらえない状況はため息しかでない。なんかよく分からないが同情はいらないんだ。


「私はお金目当てだったんじゃないの?私も好奇心と暇潰しに莉緒を相手にしてたし、私達の関係は大したものじゃないでしょ」


「関係は確かに浅いかもしれませんがお金じゃないし私はずっと本気でした。先生は私に対して何にも思ってなくても私は先生が本当に好きです」


「はぁ…。あのさぁ、さっきから好きってそれなに?」


好きとか胡散臭くて気持ち悪い言葉を今使わないでほしい。そういうやつは性欲をもて余した自分の意見を強要するようなやつしかいなかった。私は莉緒にイライラしながら訊いた。




「好きだから何なの?何したいの?キス?セックス?欲求不満だから相手にしてほしいの?」


莉緒は必死に否定してきた。


「そんなんじゃないです!私は、私の気持ちを知ってほしかっただけで…」


「じゃあ、教えてどうするの?あなたの気持ちを強要するの?好きだからこうしろって命令したいの?もうそういうのうんざりなんだよ」


私は気持ち悪く感じる莉緒を突き放した。好きとか愛しあうのはお互いの気持ちが重なって成立してからだ。どちらか一方が押し通して、それに合わせていく事じゃない。私は莉緒に軽蔑の眼差しを向けた。


「どいつもこいつも気持ち押し付けてくるやつばっか。押し付けられる人の気持ちも考えろよ。他人なんだから違う事考えて当たり前なのになんでそんなのも分からないの?私の人生に口出ししないでくれる?」



これはこう、あれはこうってそんなの人によって違うのになんで同じにしたがるの?




誰かと一緒じゃないとダメなの?


一つにならないとダメなの?




もう私はこういうのに疲れたんだ。人は自由とか個性を大事にとか言ってても、皆誰かを気にして無理矢理にでも同じになろうとしている。自分自分って、気持ちを押し付けて本当に生きづらくて仕方のない世の中だ。



その言動と主調する姿勢が宗教みたいで気持ち悪くて吐き気がする。


「ごめんなさい。先生にそう感じさせちゃったなら……本当にごめんなさい。押し付けてるつもりはなかったんです。私、ただ先生に死んでほしくなくて……死ぬの、考え直してほしくて……」


莉緒はついには泣き出してしまった。傷ついたような顔をして涙を溢すこの子を見ても気持ちは揺らがない。腐るほど行動して考えたんだ。それに死ぬ事は悪くないはずだ。私みたいな変なやつがいなくなるんだから。


「もう生きるつもりないから。今まで色々やってみたけど幸せになれないし、愛しあうとかそういうのもできないし……生きてて息苦しいんだよ。私は真剣に考えてたけど本当にろくなやつがいなくない?好きだの愛だの言って、性欲に飢えてるようなやつしかいない。それで自分自分って承認欲求押し付けられて……誰も相手を考えてないじゃん。相手の気持ちを考えるって教わらなかったのかな?」


私は鼻で笑いながら問いかけてみた。一方通行な事ばかりありすぎて、恋愛も愛しあうのもどういう事なのか結局今まで分からなかった。


でも、莉緒なら何か最後に興味深い事を教えてくれるかもしれない。この子は最近の私の人生の中で面白い存在だ。莉緒は涙を拭うと私の手を掴んだ。




「だったら私が幸せにします。私は先生の事しか考えてません。だから私が先生を愛します。私なりに先生を幸せにするから時間をくれませんか?先生が息苦しくないように一生懸命頑張りますから…」


莉緒は本気そうだがその言葉にはしらけてしまった。やっぱりこいつも一緒だ。心の落胆は大きくて一気に気分が下がる。昔聞いた事がある台詞は耳障りでくだらない。もうダメなんだな何をやっても。それを悟った私は言ってやった。





「今私に何も思わせられないのに幸せにできんの?あなたの愛情も私は感じられないのに」






自分が思うよりも他人は思っていない。




それを分からせてやったつもりなのに莉緒は動揺もしていなかった。


「できますよ。私が一番先生を愛してるから絶対に幸せにできます。今は感じられないかもしれないけど私がもっと頑張って先生を愛しますから…」


言うだけなら容易いのはよく理解しているからそれも胡散臭く聞こえた。私はあざけ笑った。


「あっそう。そうやって言うやついたよ昔。見栄っ張りなめんどくさいやつが自信満々に言ってきたよ。いい年して好きとか単純な愛情表現も満足にできないくせに自信だけはある勘違い野郎だよ。なのに断ったら逆ギレしてくんの。気持ち悪くない?」


「……先生聞いてください」


面白い話だから何か反応するかと思ったら莉緒は私をじっと見つめてきた。この感じはなんだ?莉緒は一切笑いもしなければただ私を真剣に見つめてくる。こういう態度は調子が狂う。


「……今度はなに?」


この子には今までと同じような事をされる時があるけれど、今までと全く違う事もされる。私は何を言われるのか予想がつかなかった。



「先生は不思議な人でした。私はいつも性の対象として見られてたからすぐに先生が私に対してどう思ってるのか分かりました。私、ちゃんと最初から分かってましたよ?先生は私を何とも思ってないって。キスしてみても、くっついてみても先生は私に対して何も感じてない。正直先生みたいな人は初めてでした。皆すぐに私を性的な目で見て喜んでくれたのに、先生は喜ぶどころか関心もみせてくれなくて……。私、そこに惹かれました」


莉緒はいつも嬉しそうにしていたのに私の気持ちを正確に察知していたようだ。この子は人の気持ちを読むのに長けている。仕事柄なんだろうが、今までの言動は理解していたのに敢えてやっていたんだ。莉緒は私の腕を遠慮がちに掴んだ。


「あしらうくせに先生優しいですよね。私の話いつも流してくるのに少し話してくれるし、なんだかんだいつも我が儘言っても怒らないで付き合ってくれるし。先生の態度は関心がなさそうだけど本当に優しいから私は好きです。先生はただ当たり前に優しくしてくれるんだなって…嬉しいです。私みたいな風俗で働いてる女にも理解があるし……」


「私は医療従事者だからね。仕事柄優しくするのがこびりついてるからそうしてるだけだよ。それに傷つく事も言ったと思うけど。忘れたの?」


幻想を抱いているだけだ。早く目を覚ませ。それなのに莉緒は笑顔だった。


「それでも優しいのに変わりありません。確かに先生にはちょっと悲しくなる事も言われましたけどそういう正直なところも好きです」



「……知らないからだよ」


「え?」


莉緒の気持ちに気分が悪くなる。聞いていられない私は口走っていた。純粋な気持ちを私にぶつけるな。私は生きるのさえ普通にできないやつなのに思い込みをするな。変なやつらの血が流れている私は気持ち悪くておかしい人間なんだ。



それに嘘みたいにしか聞こえない。

こいつも好きと言いながら何か欲望を隠しているやつみたいに見える。私は笑った。教えてやろう私のくだらない話を。





「うちの家族さ、変な宗教やってんの」


「宗教?」


首を傾げて困惑している莉緒に私は笑いながら話してやった。宗教をやっていない人から見たら歪なおかしい理解しがたい話だ。




「そう。宗教。悪い事が起きた時に信じていた人は助かるとか、死ぬ時は安らかに苦痛を感じずに死ねるとか、祈れば幸せになるとか…変な謳い文句信じて祈るんだよ。ただの紙に書いてある事読んで毎日祈るの。神様とかいういない人に家族全員で。気持ち悪くない?いない人に祈ってると救われるんだって。笑えるよね?宗教のための訳分かんない置物とか買ってずっと不幸にならないようにすがってんの。いい大人が一生懸命毎日それやってんだよ?どう思う?私のお母さんもお父さんも、お姉ちゃんも信じて疑わずにやってた。私だって昔はやらされてたよ。今はやってないけど……。だから私は頭がおかしいんだよ。あれのせいで死にたいくらい頭がおかしくなってんの」


あざけ笑ってしまうほどくだらなくて面白い話だ。あの家族のせいで私はまだ嫌な思いをしておかしくなりながら生きている。離れたのに記憶は全く無くならなくてむしろ嫌だった記憶は鮮明に思い出せる。あいつらのせいで普通に幸せにもなれないし生きていくのも嫌になった。笑わない莉緒に私は続けて笑える話をした。


「宗教宗教って皆がしてる行事も参加できなくて変な事ばっか強要されて、挙げ句の果てにはいつもお姉ちゃんに比べられてさ。そしたら今はこんなだよ。…宗教から離れて幸せになりたいと思ったのに、広い世界に出たら宗教に限らず自分本意なやつばっかで皆宗教みたいに強要してきてさ、人の好意なんか胡散臭いんだよ。それでも誰かを愛して幸せになろうって思って頑張ったけど、そもそも私は愛された事がないから誰も愛せなかった。それで死のうとしてんの。面白い話でしょ?三十過ぎて分かってないんだよ。本当に滑稽だよね」


今までの人生を思い出すと笑いが止まらなかった。顔が勝手に笑ってしまう。誰か正しい愛し方を教えてくれれば真似をしたのにそんな人いなかった。私の人生はうまくいかない事ばかりだ。いい事なんてあっただろうか?もう思い出したくもない。


「笑わないでください」


笑っていた私に莉緒は泣きながら抱きついてきた。こんな面白い話になぜこんな事を言うのか理解できない。


「なんで?面白いじゃん。くだらない宗教でおかしくなった私の末路だよ?莉緒も笑いなよ」


「面白くないから笑いません」


否定されても私には面白いから不思議に思えた。


「どこが面白くない?じゃあ、もっと面白い話してあげようか?私の名前は変な宗教の偉い人が考えたんだよ。私名前も考えてもらえないくらい親に何にも思われてないの。面白いよね?お姉ちゃんは考えてつけたのに私は宗教の偉い人に考えてもらったんだって。それでお母さんは言うんだよ。同じ宗教やってる人にこの子はありがたい名前を貰ったって。ブランドもの自慢するみたいにさ。これは笑えるでしょ?」


きっとこの話なら莉緒は笑ってくれるに違いない。まるでアクセサリー程度にしか思われていなかったんだ。こんな話思わず笑ってしまうに決まってる。それなのに莉緒は笑ってくれなかった。ただ悲しそうな顔をして私にキスをすると頭を抱き締めてきた。


「もうやめてください。悲しくて…辛いです」


「……なんで?」


さっきから分からない。私にはこの子の気持ちが全く分からない。莉緒は涙をぼろぼろ溢して泣いている。


「景子さんが好きだからです。景子さんが好きだから辛いです。もう笑わないでください」


「なに言ってんの?……意味分かんないから。……さっきから莉緒の気持ち分かんないんだけど」


好きだから辛いってなに?私には生きてて好きが分からなかった。やはり気持ちを強要したいのか?理解できないでいたら莉緒は私の頭を撫でながら抱き締める腕を緩めた。


「私がこれから教えてあげます」


莉緒は私を至近距離で見つめる。


「私が景子さんの事全部愛しますから。ちゃんとした好きの気持ちも、愛する事も幸せも全部教えてあげます。私景子さんが大好きだから景子さんが理解できるように頑張りますから」


この子はまた今までと違う事を言う。私は一瞬反応できなかった。


「……あなたに得する事ないじゃん」


分からない。今までろくな事が無さすぎて信用できない。莉緒は嬉しそうに笑った。


「ありますよ?景子さんの近くにいれるだけで嬉しいから私には得です。一緒にいれるだけで私は幸せなんですよ?」


「……」


なに言ってるんだろう。近くにいれるだけで嬉しいってどういう意味?分からない。分からない…。信じていいのかすらも分からない。莉緒は黙った私に控えめに抱きついてきた。


「景子さん死ぬのはそれから考えてくれませんか?少しだけ私の我が儘に付き合ってくれるだけでいいんです。今までみたいに暇潰しだと思って相手にしてくれませんか?」


「……」


「お願いします景子さん」


何も言えない私は少しだけ強く抱き締められた。


今日死のうと思っていたのに、さっきまで気持ちは動かなかったのに、私は今躊躇している。

なぜだ?この子は私に引いたり幻滅したりせず私を受け入れて、私の知らなかったものをくれようとしている。


私は頭が混乱していてうまく考えられなかった。


この子を信じてもいいのだろうか?



……あぁ、でもそうだ。試してダメなら死ねばいいだけだ。


死にたい気持ちはきっと一生ついて回る。ダメだったとしても死ぬのが少し遅れるだけだ。

苦しみは続くけど死ねるのであれば問題ない。








「…いいよ」


私は賭けてみた。私を好きだというこの子に。



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