第28話

午後の部があっという間に感じたのは、不安いっぱいのリレーが控えているからという訳ではない。どの競技も盛り上がり、接戦があったり笑いがあったりと純粋に楽しい時間を過ごしていたからだった。障害物競走では下に敷かれたネットを潜る場面で全員が絡まり校庭が笑いで包まれた。

自分も思わず笑ってしまったのは、昨夜たまたま父が見ていた漁業の特集番組で同じように網にかかった魚達を思い出したからだ。この中にその番組を見た人がいるかは知らないが、自分にはその光景がぴたりと当て嵌まった。


そんな盛り上がりを見せた障害物競走の後は、いよいよリレーの時間だ。一瞬で笑みが自分の顔から消えた。準備する本田達が遠く見える気がした。共に出場する女子達も楽しそうにしているのに、自分はこうも怯えているのが少し情けなく思っていると、耳元で「バトン落とすなよ」と悪魔囁きが聞こえ、振り向くとそそくさと逃げ出す俊哉と太一の後ろ姿が見えた。いっそバトンを投げつけてやろうかと思ったが、少しリラックスできた事に免じて許す事にした。落ち着きが無かった足の震えが止まり、ゆっくり深呼吸してみた。しかし再び震え出した足にはもう諦めるしかなかった。


「始まるぞー渡部」

自分より前に走るが、同じ列に並んでいた本田が楽しそうにしている。

「あの、彼女さんは?」

「え、今聞く?絶好調だぜー!今日だってよー」

惚気話が始まる前にスタートのピストルが鳴らされた。第一走者の城島が快足を飛ばし二位につけた。第二走者の高木さんは男子に抜かれてしまうも女子の中ではトップを走っていた。


「麻衣ー!頑張れー!」とクラスの女子達の声援に手を振りながら走っている。


「あいつ余裕だな」

「自分より速いかも‥」

第三走者、第四走者と次々とバトンが繋がる。各クラス男女の編成がそれぞれ違うせいか、順位も目まぐるしく変わっていく。十番目の走者である平良が順位を上げて再び二位に着けて、ここから折り返しになっていく。そんな様子を見ていたが本田が肩を叩き、あれを見ろと目で合図をしてきた。そこにはまた怪訝そうな顔をしている多田の姿があった。あの列の位置からすると、多田もアンカーだという事だ。


「お前ら永遠のライバルかよ‥」と流石に本田も同情するような顔を向けていた。

「でもあいつ運動できるタイプだぞ?今回はどうなんだ?」

「いや‥流石に‥ねえ?」

本田もそれ以上は何も言わず、ただ肩をぽんぽんと叩き、自分の番を待っていた。やがて十八番目の走者である本田が四位でスタートした。自分もそのままスタートラインに並ぶと、隣には多田が入った。

「君のおかげで色々と言われてるよ」

多田が迷惑そうに言った。

「お、同じく」

どうやら多田もクラス内では自分との巡り合わせについて何か言われているようだった。多田からしたら自分みたいなのと比較されたり、ライバル扱いされたりするのは不服なのだろう。


「そしてこういう展開になるんだからね」

多田が十九番目の走者を見ながらそう言うと、懸命に走る宮間さんが多田のクラスの女子に追いつき、ほぼ横並びの接戦になっていた。当然、歓声は大きくなり、アンカーへの期待は最高潮になっていく。体を動かして備える多田、隣で気をつけの姿勢で固まる自分。近付く宮間さんと目が合い、真剣な表情からいつもの彼女らしい笑顔に変わった時、自然と体は練習で教わった通りにバトンを受け取る体制に入れた。右手を後ろに出し、少し前に出る。隣の多田も全く同じ体勢に入っていた。


「踏み出せー!」

自分の手にバトンの十九人分の重みと共に、宮間さんの言葉が託された。

「はいー!」


腕を振り、つま先を使い、足を上げて懸命に走る。耳に風邪を切る音が聞こえている。それと共に自分のクラスからこんな声が聞こえてくる。


「渡部離されんなー!」

「走れ馬鹿野郎ー!」

スタート時は隣にいた多田が自分の前を走っている。距離はまだ開いていきそうだ。

「ですよね」の一言に尽きる。多田はサッカー経験者で運動神経も良い。自分は足が遅い訳ではなくても多田が自分より速い事は決しておかしい事ではない。むしろ必然かもしれない。


するとまるでスピーカーのつまみを捻ったように、急に歓声のボリュームが大きくなった。百メートルを超えて、特別ルールのアンカーが走る二百メートルを目指して折り返しを超えていた。

どういう訳か多田の背中が近付いているのが分かった。歓声の原因はまさにこれだろう。しかし自分が加速したとは考えにくい。でも多田の背中が少しずつ近付いているのは事実だった。よく見るとは多田の頭が少し下がっている。この時点で気付く事ができた。多田のスピードが落ちてきているという事に。特別ルールである二百メートルの怖さがここで表れた。百メートルまでなら多田も速いままで駆け抜けただろう。しかし更に百メートルとなると体力的な問題が出てくる。不思議な事に自分は息は荒れてきているものの、ペースは変わらずに二百メートルを走れそうだ。


「ふ、踏み出す」

そう呟き懸命に腕を振った。気配を感じてか多田が振り返る。その表情は苦しそうに見えた。自分は午前の綱引き以降出番が無く、休息はできている。綱引きも二回戦敗退で時間もかなり空いていた。縮まる多田との距離に歓声が大歓声へと変わっていき、もうゴールのテープが目前まで迫っている。多田との距離はもう一メートルも無い。

「踏み出す踏み出す」と心の中で唱え続けた。

そしてついに多田と横に並び、最後の一歩の為に力強く地面を蹴った。


「わ!」

ゴールラインを超え、上体が前屈みになりその勢いのまま派手に転がった。三回転くらいしただろうか、仰向けで青い空が正面になるように、大の字になった。聞こえてくるのは歓喜の声。あのまま多田を追い抜き、アンカーとしての役目をしっかり果たせた。やがて城島達が喜びを爆発させて自分の上にのしかかってくる予感がした。それは回避しようと慌てて起き上がった。


「え?」


目の前で歓喜に湧いていたのは多田のクラスだった。多田を囲みクラス中が盛り上がり、輪の中で多田も喜びを表現していた。一方で自分のクラスは静まり返り、自分をじっと見ていた。本田は頭を抱えて無念の表情を浮かべていた。


「ただいまのリレーの結果をお伝えします」

そうアナウンスが流れた。自分のクラスは二位だと改めて伝えられた。ゆっくりと立ち上がり、体中の砂をはたき落とす。綱引きの後より酷い汚れ具合だった。重い足をクラスの方へ向けて進め、言い訳を考えたが思い付かず、素直に頭の中で最初に浮かんだ一言を口に出した。


「あの‥すいません」

と軽く頭を下げた。罵声が来るかと思いきや、全員が驚いた顔をしていた。半分以上の人の口が開いている分かりやすい驚き方だった。


「渡部‥」

本田がその表情のまま言葉を吐いた。

「あ、はい‥」


「何泣いてんだお前ー!」

「は、え?」

先程までの静寂が嘘のように笑いが起こった。泣く?誰が?自分が?と混乱しつつ、目の辺りを擦ってみると、手の甲に水滴が付いていた。生暖かく、雨ではない。間違いなく涙だ。


「え、何この水分は‥」

「お前の涙だー!」と城島達が押しかけてくる。頭を叩かれた後、体がふわっと浮いた。城島達に何故か担がれ、他のクラスメイト達も自分を下から支える形になっていた。


「わ、わ、何ですか?何ですか?」

お祭り状態に困惑していると、本田が列の先頭に出て叫んだ。見渡せば全員が負けたはずなのに嬉しそうにしている不思議な光景だった。自分が泣いた事に関係があるのか?そして自分は何故涙を流したのだろうか。

「涙のウイニングランだ!みんな行くぞ!」

と二位のクラスによるウイニングランが行われた。まるで祭りの神輿のような騒ぎ様で、その異様な盛り上がりに一、二年生達も手を叩きその騒がしい流れに乗っかっていた。


「馬鹿野郎ー!優勝は俺達だろ!」

叫び声のする方に全員で振り返ると、同じように多田を担ぎ上げていた。確かにウイニングランを本来するべきは多田のクラスだ。


「うるせー来やがれ!」

ウイニングランが一転、そのまま騎馬戦へと早変わりした。自分も多田も帽子を被っている訳でもなく、何を取り合うのか不明のまま、両チームぶつかり合った。


その後、アナウンス用のマイクを通しての大杉先生の「おめーらいい加減にしろ!」の一喝が飛ぶまで、この盛り上がりは続いた。

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