いこくのエリー
シンガポールから陸路でマレーシアに渡ると、言葉の通り世界が一変した。それと同時に懐かしさと緊張感が胸を覆った。コンクリートの道路は所々割れていて、明らかに工事途中であろう現場が何か所も放置されていたりする。道端にはさも当然といった顔をしたゴミが散乱しているし、とにかく歩きにくさがあった。
大通りを一本裏に入ると、お世辞にも清潔とは呼べなそうな屋台街が広がっていて、値段はシンガポールの半分以下。ともすればぼったくられるんじゃないかといった雰囲気の店もある。
しかしながら、その風景こそ胸を躍らせる。僕が愛してやまない、東南アジアの景色がそこにはあった。
ここは国境の街、ジョホールバル。事前に調べたネットではあまり治安の良くない印象を受けたし、小綺麗なシンガポールとのギャップからより警戒心を強くさせもした。ただ、結果的には危ないことなど一つもなかった。むしろ夜道で迷っていたところをゲストハウスまで車で送ってもらうという親切に遭遇できた。
そしてこの雑多な雰囲気こそ、旅の始まりを彷彿とさせ、高揚感が湧き上がってくる。旅をしていると実感するには、シンガポールは綺麗すぎたのだ。
国境の街を離れ、次に訪れたのが世界遺産の街マラッカだった。バスを乗り継ぎ約6時間、ようやく辿り着いたマラッカの華やかさには、思わず胸が弾んだ。マラッカのシンボルである赤レンガ色の建物群に囲まれたオランダ広場には、行き交う人々に混じって大道芸人がパフォーマンスをしていた。マジックをしている人、全身を金色に塗り固めて銅像のようにたたずんでいる人など、実に様々だ。
橋を渡ると「ジョンカーウォーク」という看板の先に、一際賑やかな通りが続いていた。骨董品や雑貨などの土産物屋、カフェ、バー、マッサージなど、ありとあらゆる旅人を刺激する店が並んでいた。夜になれば屋台が増え、舞台では出し物(といっても地元の人のカラオケの延長上のもの)があり、店とトライショーと呼ばれる三輪タクシーのネオンの灯りで、より一層華やぐ通りだった。
植民地時代のヨーロッパ文化に影響を受けた建物が多く、歩いているだけで楽しい気分になる。ストリートアートも多く見かけた。歴史を感じさせる砦や、中華系寺院、海に浮かぶモスクなど、見どころの多い刺激的な街だった。
そんなマラッカでの滞在で、取り分け心に残ったのが、セントポール教会だった。
オランダ広場の裏手の丘の上にあるそこは、マラッカの街並みと遠くに海も望めた。
16世紀のポルトガル統治時代に建てられた教会は屋根はすでになく、教会というよりかは遺跡に近い雰囲気だった。かのザビエルの遺体が一時安置されていたこともあるというから驚きだ。
そんな歴史ある教会内は、絵描きやストリートミュージシャンが思い思いの活動をしていて、歴史と文化が共存した空間でもあった。日本であまり見かけない、一見相入れないようなその光景は不思議なほど調和していた。周囲に響く音楽に耳を傾けながら、その空気感を堪能していた。
「泣かしたこともある、冷たくしてもなお〜」
ふと馴染みある言語と音楽が耳の中に流れ込んできた。音楽の鳴る方向へ振り返ると、近くにいたストリートミュージシャンがこちらを微笑みがら歌っていた。独特の節回しで、ごにょごにょと誤魔化した日本語の箇所もあるにはあったが、それは紛れもなく「いとしのエリー」だった。日本人がいると気づき選曲してくれたのだ。なんという粋な演出だろうか。
人が大勢いる中で、僕らだけのために選んでくれた曲。日本の歌を覚えようという気持ちも嬉しかったし、マレーシアへようこそと迎え入れてくれている気もした。
なにより「いとしのエリー」というセンスが抜群にいい。この歴史ある場所の雰囲気にも合っているし、異国にいて郷愁を感じるなんとも贅沢な気分で、胸がいっぱいだった。
曲が終わると、誰よりも大きな拍手をして演奏してくれた彼の元へ駆け寄った。普段よりも少し大きめの金額のチップを置いて、感謝の気持ちを伝えた。とても上機嫌になっていた。
その場所を離れてからも独特な節回しが頭から離れなかった。
ふと、もしかしたら日本人っぽい人を見かけたら、とりあえず「いとしのエリー」を歌い、相当儲けているのではなんて邪推してしまった。
すぐさまその考えを改める。仮にそうだとしても、それこそがエンターテイメントだ。お金を得るためでも、日本の歌をわざわざ勉強してくれて、しかも抜群の選曲を完璧なタイミングで演じてくれた。
あんなに気持ちよくチップを払えたのも初めてな気がする。
「いとしのエリー」マラッカバージョンを口ずさみながら、次の目的地へと歩き始めた。
旅のエッセイ 七折ナオト @jack_kkbk
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