線路市場の帰り道
タイの首都、バンコクから日帰りで行けるほどの距離に「メークロン市場」と呼ばれる線路市場がある。線路市場とは、その名の通り鉄道の線路の上に開かれた市場のことである。線路の上を歩くことが法律違反である日本人からしたら、考えられない光景だ。
しかも、観光客向けの作られた市場ではなく、基本的には近隣住民のための生鮮食品しか売っていないという、まさに市場なのだ。
バンコクからの電車を乗り換える際に、渡し船を使って川を渡る、というそれもまた新鮮な体験をして次の電車へと乗り込む。その電車の終着駅、メークロン駅から数百メートルほどの短い距離に目的の市場が連なっているという。
目的の駅に電車が近づき、窓の外に目をやると、文字通り目と鼻の先に人々が並んで立っている。カメラを抱えた観光客や、棒状のものを支えている人、何食わぬ顔で座り混んでいる老婦人。その足元には野菜や果物といった食べ物や日用雑貨的なものが並んでいるのも見える。いったいどういうことだろう。
その異様な光景に興奮が抑えきれず、目の前の市場を眺め、いま自分が降りてきた電車をもう一度眺める。そしてまた市場へと視線を戻すと、目の前の市場はほんの数秒の間に表情を変えていた。線路の上には無数の日焼けのテントが掲げられ、いま自分が電車に乗ってこの道を通って来たことが信じられないほど、それはごく普通の市場に様変わりしていた。ただ、足元を見れば線路であるだけのごく普通の市場に。
電車の中から見えた、棒状のものを持っていた人はテントを支えていたのか。
それにしても何という早業だろう。是非とも、今度は外からこの早業を拝もうと、自分達が乗って来た電車が再び動き出すのを待つ。火照った体を弾ませながら線路の上を歩きながら。その見慣れない風景に自分という存在を滲ませるように。
線路市場では、ココナッツを一つだけ買った。観光客である自分に必要なものはほとんどなかったが、それでも何か買いたい気持ちが強かった。
冷えていないココナッツをストローを差して飲む。自分にとって初めてのココナッツだった。実の中の水分は特に美味しいという感じでもなく、速度の早い水、といった感じだった。
自分にとって異世界のような、驚きと刺激に満ち溢れた光景が、目の前の人々にとっては何の変哲もない日常であって、淡々とテントを畳んでは電車を通し、通過したらまたテントを開き、お店を再開する。
これだから、旅はやめられない。
旅の最中でもそう多くはない、心からこう思える光景に出会うために旅をしている。そう確信できる場所だった。
大満足でメークロン市場を後にし、来た道を戻る。再びの渡し船で旅してる雰囲気を味わう。帰り道は目的を達成したという気持ちと乗り換えの時間に余裕があり、バンコクとメークロン市場の中間のこの町もぶらぶらする事にした。
何せ渡し船の桟橋と駅の間にも、賑やかで立派な市場があるのだ。タイは片田舎でさえマーケットに活気があるから、どんな町を歩くのも楽しい。
ふと、立ち並んだ店の中のある食べ物に目が留まった。高揚感が冷めきっておらず、誰かと話したい気持ちも少なからずあった。
「これは何ですか」
揚げらた麺状の塊に小エビやナッツが混ざった料理を指差す。パック詰めされて何段も積み上げられていたから、余計に目が引いた。
英語も、もちろん日本語も通じなかったが、タイ語で一所懸命に説明してくれた。何を言っているかは分からなかったが、懸命に耳を傾ける。
お互いに伝わっていないということだけが伝わり、微笑み合う。
するとおばちゃんはおもむろにパックを開け出して、「食べてみな」といった具合で試食させてくれた。キャラメルのような甘いお菓子がコーティングされており、予想外に甘かった。
正直あまり好みではなかったが、味よりもおばちゃんの振る舞いが嬉しく、
「アロイ!(おいしい)」と親指を突き立てて答える。
おばちゃんは満足そうに微笑むと、パックを差し出して来て、そのまま行くように促す。
「開けちゃったからもう商品にならないしね、持ってっちゃって」
おそらくそのようなことを言ったのだろう。戸惑う僕のことなどお構いなしに、商品を胸に押しつけ、笑顔で手を振ってくる。
胸の奥がぶわっと熱を帯びたのを感じた。タイに来てまだ数日。バンコクの有名観光地周辺では嘘をつかれたり、明らかにふっかけられて口論をしたりもした。
でも思いがけず「タイにようこそ、楽しんでいってね」そう温かく迎えられたような気がした。おばちゃんにとっては、そんな大それたことではなかったかもしれない。日常生活の延長でしかなかったのかも知れない。
でも僕にとってはきっと歳を取っても覚えてるであろう大事な思い出となった。
結局あの時の食べ物の名前は未だにわからない。おばちゃんの顔すら曖昧になってきている。
でもそれでいいとも思っている。
一期一会は旅の醍醐味。それは人だけでなく、食べ物もそうであるとも思う。
名前も知らないあまり美味しくない食べ物と、笑顔のおばちゃん。
人に親切にしてもらった時や、甘いものをつまんだりした時、ふとあの時の光景を思い出す。
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