初めての一人旅は
「どこから来たの?」
「東京です」
「一人で?」
「あ、はい、一人で」
「何日くらい?」
「ちゃんとは決めてないんですけど、北海道をぐるっと回りたくて」
「あら、いいわね。でも若い時しかできないからね。気をつけて楽しんでね」
どれくらいこのやり取りをしたかわからない。
そして行く先々で声をかけてくれたおかげで、まだ旅という行為に慣れていなかった当時の僕でも、どうにか一通り旅をすることができた。
初めての一人旅と呼べるような代物は18歳の夏だった。まだ精神的に安定していなかった僕は入学して程なくして、大学を休みがちになっていた。
高校生の頃と違い、「あと何回休んだら単位を取れなくなるよ」と声をかけてくれる先生はいなかったし、気づいた頃には出席日数が足りなくなっていた。
人生の夏休みと言われている大学への淡い期待は見事に裏切られて、そんなに楽しいものではなかった。どうせもう単位も取れない。学校に行く意味がなくなって、行かなくなった。
それでもずっと家にいる訳にもいかなくて、授業は午後からだと嘘をついて午前中をやり過ごし、親が仕事から帰ってくる少し前のタイミングで家を出る。ゲーセンで時間を潰し、親が寝静まったタイミングを見計らって深夜に帰宅する。
誰とも顔を合わせずに、ロクに声も発さない、ただただ時間を浪費するだけの生活を一週間ほどしていた。
友人と来ればあんなにも興奮するメダルゲームの大当たりも、一人でやればただの作業だった。それでも千円ぽっきりで思考を停止できるのはありがたかった。
楽しくもないむなしい毎日。このままではいけないとわかっていたが、どうすればいいのかはわからず、ひたすらに時間が過ぎるのを待った。時間が過ぎても何も変わらないという現実を突きつけられただけだったが。
「そうだ、旅に出よう」
どこかのコマーシャルのようなセリフがふいに頭をついて、その言葉にすがった。
いわゆる「自分探しの旅」というものへの憧れは昔から抱いていたし、当時の僕には「自分を変える」イコール「旅」というありふれた数式がものすごく魅力的に思えた。
旅をすれば人生が変わるという言葉を本気で信じれるくらいの無垢さはまだ残っていたし、その言葉に救われたとも思った。
旅に出ようと思えた翌日には、ゲーセンに向かわず、アウトドアショップを巡って、一番安いテントと一番安い寝袋を買った。いつもよりも早い時間に家を出ることができて、長らく感じていなかった高揚感が胸を弾ませていた。
さらに翌日にはバイクに跨って、北上していた。色々と考え出して動けなくなる前に、興奮で周りが見えない状態の内に、家を出た。
旅をすれば人生が変わる。バイクといえば北海道。たったそれだけの安直な考えを大事に胸に抱えて。
初めての一人旅は、たったの二週間という今にして思えばなんて事のない短さだったが、振り返ればとてつもなく長かったし、決して楽しいものでもなかった。未知への不安と孤独と退屈とで、二日目にして早々に帰りたくなった。「なんでこんなことしてるんだろう」と百を超えるほど考えた。
それでも、家を出るときにばったり出くわしたまだ幼かった弟に「北海道に行ってくる」と高らかと宣言した手前もあり、体裁ばかりが気になり、つらくても意地だけで家から離れ続けた。
車体を揺らして風を切って、「このまま一生走っていたい」と感じることもあった。それでも数十分後には「もう今すぐにでも家に帰りたい」と情緒不安定を体現したような心の乱れっぷりだった。
帰ったとしても格好悪いと思われない言い訳を常に探していた。当時は自分が考えるほど他人は自分のことを気にしていないということをまだ知らなかった。
とはいえ、旅に惚れ込んだいまの生き方があるのも、この旅が始まりだった。
早朝の公園で歯磨きをしながら見たこともない日常の風景に触れる爽やかさ。名前も知らなかった場所が自分のものになっていく感覚。
そして何よりも、旅先で触れ合う人々の温かさ。
北の大地のあまりの寒さに、体を震わせながら道の駅のベンチで寝ていたことがあった。寒さは孤独を増長させる。
朝が来て、仕方なく出発しようとした矢先、声をかけられた。その声の先へ目を向けると、少し年配の夫婦がいた。昨夜、道の駅で少し話したのを思い出す。
見知った顔に出会えたことで、寒さと寂しさで凝り固まった心がほぐれていくのがわかる。それと同時に疑問も湧いてくる。どうしてここに。
その瞬間、袋を手渡された。
「昨日あれから何も食べてないだろうし、はい」
中を見ると手作りのおにぎりが三つ入っていた。まだほんのりと温かい。
ご夫婦も旅行中であるはずなのに。滞在先の旅館などで、訳を話して食材を分けて貰ったのだろうか。そして自ら握って、わざわざ舞い戻ってくれたのかも知れない。何時に出発するとも何も伝えていない、ご夫婦の滞在先が近くかもわからない。それでも、早い時間を狙って来てくれたのだ。
初めて出会う人に親切にしてもらうと、空っぽな自分でも肯定できる気がした。当時を思い出して、執筆してる今し方も涙が溢れそうになる。
蛇足ではあるが、おにぎりの中身は苦手な梅だった。まだ青かった当時は好き嫌いで溢れかえっていた。けれども、あの瞬間は苦手よりも感謝の想いの方が強く、おにぎりは完食した。振り返ると自らの意思で嫌いな食べ物を食べ切ったのは、これが最初だったように思う。
北海道から帰ってきてからも、どんなに負の感情に押し潰されそうになっても、そんな幸せな記憶を追い求めて旅を繰り返した。いつの頃からか旅をつらいと思うことはなくなって、生きることがつらいと思うこともなくなっていた。
だからこそ、周りを気にしては意地を張って、ガムシャラになっていた当時の自分には感謝している。あの時、意地を貫いてひたすらバイクを走らせ続けたことに。
そして、もう少しだと、もう少しでその暗いトンネルを抜けると、そっと背中を押してあげたい。
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