7-3節

 薄汚れた雑居ビル群の、暗く澱んだ壁の間を進んでいく。埃っぽく狭い路地には、隙間からわずかな日光が射していた。上方から電車の通る音がするが姿は見えない。人気はなく、吹き溜まりのような雰囲気だけが漂っている。まともな者には無用の場所であり、突き当たりまで来ても、打ち棄てられた資材や段ボールがあるのみだった。

「行き止まりじゃねえか」

 苛々した口調で十吾が言った。「おいよしお、ここに間違いないんだな」

「確かにこの路地だったよ」

 勢いこむ十吾に疑念を持たせては悪いと思い、吉男ははっきり答えた。

「でも奥がこうなってるとは知らなかったんだ」

「くそっ、振り出しか」十吾は壁を叩いた。

「落ち着いて。また考えるのよ」

 ゆかりの張り詰めた声を聞いて多少腹も立ったが、十吾はどうにか受け入れ、腕を下ろした。

「とにかく、ここにいたってしょうがないだろ。出ようぜ」

「いや」

 戻りかけた十吾たちに、それまでずっと考えていた湊が言った。「違うかもしれない」

「何がちがうってんだよ」

「厳密には行き止まりじゃない」湊は下を指差した。「マンホールがある」

「おめえな、こんな時にへりくつ言ってる場合じゃ」

「ここを見てほしい。こじあけた跡だ」

 確かに、穴の淵が擦れて傷ついていた。「しかもまだ新しい」

「おいおい……」

 普通なら考えにくいが、状況は揃いつつあった。

「下水道に潜んでるなら、あの汚れた身なりも説明がつく。ここなら住処から近いし、ムトを見張るのにも向いてる」

「待って。いつもここに隠れていたなら、あなたたちが忘れることはなかったんじゃない?」ゆかりが疑問を投げかけた。

「それは僕も考えた。でも、彼が空き地に来たとき、僕たちは彼が空き地に入るまさにそのときまで思い出さなかった。距離だけで思い出すなら、空き地に入るもっと前にわかっていたはずだよ。でも、ムトが言ったように彼にも離れた時間が関係するなら、近くても会わない限りは忘れてしまうんだと思う。初めてムトと会った日から何日後に彼を忘れたか、今となっては定かじゃないけどね」

「なるほど……」

 では、やはり時間はないのだ。しかしそれだけわかっていながら、湊は冷静を保っていた。危機に瀕し、ともすれば感情的になりそうな心を抑えることができたのは、ムトを救うという強い気持ちのお陰だ。今、湊の頭はかつてないほどの力を発揮していた。

「確かに僕たちには時間がない」沈むことなく湊が言った。「でも、急ぐ必要はあっても焦る必要はないはずさ。闇雲に突っ込んでもムトは助けられないんだ。きちんと作戦を立てよう」

 力強い湊の一言で三人は安心した。頷きあい、意志を団結させた。

「まず、本当にここにいるのか確かめなきゃいけないんだけど、僕は工具を持ってないんだ。そこで十吾くん」

「おう、家にいけば何かあると思うぜ」

 待ってろ、と言って十吾はすごい勢いで出ていった。

「でも湊くん、あのおかしな攻撃はどうするの? あの、手を前に出すと気持ち悪くなるやつ」胸に手を当てながら吉男が言った。

「一つだけ、彼に対抗する手段がある」

 咎を背負う顔で答えた。「ムトと同じなら、という条件はあるけれど」

「そうか、塩ね」ゆかりがはっとした。

 湊が頷く。「でもこれは賭けだ。人間が毒を飲めば死んでしまうのと同じで、ムトの種族共通の耐性なら効果は望めるけど、アレルギーのように個人差のあるものかもしれない。だとして、現状これしか手がないのも事実だ。情報は限られてるけど、その中で最善を尽くさないとね」

 二人に緊張が走った。しかしそれは湊も同じなのだ。いてもたってもいられなくなり、吉男は身を奮わせた。

「ぼく、塩買ってくるよ」

「頼むよ」

 気持ちのこもった吉男の目に、湊も目で応えた。

 数分後、息を切らせながら十吾が戻ってきた。その手にはなぜかリコーダーの袋がある。

「さすがに人目につくと思ってよ」

 袋の中からはバール状の鉄の棒が出てきた。

「ちょっと短いけどな。ここにこうして……おりゃあっ」

 穴に引っ掛けた鉄棒へ十吾が渾身の力を込めると、どうにか重い蓋が開いた。暗くて奥は見えないが、梯子はしごはかかっている。

「ありがとう十吾くん。とりあえず、僕が一人で見てくるよ」

 リュックに入っていた懐中電灯をポケットに差し、湊はすぐに降りようとした。

「気をつけて」つい不安になってゆかりが言った。

「大丈夫さ」湊は微笑んでみせた。

 踏み外さないように、なるべく音を立てないように、一段ずつ慎重に降りていく。地上の光と音はやがて遠ざかり、底に着くとほとんどなくなった。苦々しい湿気た匂いと、しんとした寒さと静けさばかりが、薄闇の中に満ちていた。

 懐中電灯をつける。あくまで照らすのは足元だけだ。靴音が鳴らないように忍び足で周辺を探る。時どき壁にある常備灯はあまり先まで見渡せない。通路は入り組んでいそうだ。下方に水の溜まりがある、鉄柵の付いた細い道を進んだ。

 振り返り、帰り道を確保しながら何個目かの角を曲がると、湊はすぐに身を翻した。道の真ん中に彼がいたのだ。慎重に様子を窺うと、倒れたムトに向かってぶつぶつと何か言っている。動きだす気配はなかったので、湊は引き返し梯子を登った。

「いた」

 緊張感を少しずつ吐きだしながら、湊は三人に報告した。

「居場所は突き止めたね。十吾くんに塩のことは説明してるかい?」

「もちろん。この通り」戻っていた吉男は袋を掲げた。「四つの袋に小分けしておいたよ」

「よし。それで、下に行って感じたんだけど、道が狭いから挟み撃ちにしようと思う。空き地での動きを見る限りでは手を向けないと攻撃できないみたいだし、一方向から突撃してもまとめてやられるだけだからね」

「それはいいけどよ、どうやって反対に回りこむんだ?」

「どうもね、方向的に公園の辺りみたいなんだ。彼が初めて現れたのも公園だったろう。だから近くにマンホールがあるんじゃないかと」

「本当かよ。つうかあったとしてもよ、あいつのとこまでたどり着けるのかよ」

「確証はない。でも、いつもこの町を探検してきた僕と吉男くんなら、大体の位置関係をつかめると思う」

 湊に顔を向けられ、吉男は不安ごと腹を括った。「う、うん」

「しょうがねえなあ」十吾はにやりと笑って鉄棒を差し出した。「待っててやるからはやくしろよ」

「ありがとう。二人でやればなんとか開けられると思う。あと」湊はメモ帳に彼の元までの地図を書き、トランシーバーと一緒に十吾に渡した。「見つけたらそれで知らせるよ」

 そう言って、湊と吉男は出ていった。もう、だいぶ日が傾いてきていた。

 十吾とゆかりが二人きりになることはこれまでなかった。お互いに避けてきたのだ。今も居心地の悪い沈黙が降り、そのせいで決戦前の切迫感が増している気さえした。だが、それもなんとなく癪だと思い、十吾はわざとらしくゆかりを茶化してみた。

「なんだよ、怖いのか」

 ゆかりは呟くように吐露した。

「しょうがないでしょ」

 てっきり強力に否定されると思っていた十吾は面食らった。素直に認めるとは思っていなかったのだ。しかし俯きがちなゆかりの様子がやがて本当だとわかってくると、話してみるか、という気になった。

「おれだってこわいけどよ」

 十吾は不器用な声で言った。それから目を合わさないまま、ゆかりの背中にそっと手を置いた。

「でもよ、おれだけじゃねえ。みんなでやるんだからな。みなともよしおも、きっとうまくやってくれる。おれはそう思ってるぜ」

 ゆかりもまた、意外に思った。こんなことする人じゃなかった、と。でも悪い気分ではなかった。言葉の意味を感じとり、気がついた。この人の手、こんなに……。

「そうね」

 ゆかりは微笑した。それから付け加えた。「でもね山野くん」

「なんだよ」

「宿題は自分でやらなきゃだめよ」

「ふん」

 十吾は鼻を鳴らした。「気が向いたらな」

 ゆかりはくすくす笑った。十吾も黙って笑っていた。

 そのとき、トランシーバーから吉男の声が聞こえた。

「見つけた!」

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