第174話「変装イリスの『はじめてのおつかい大作戦(前編)』」

『うーん。これでおとーさんもイリスおかーさんも、セシルさんも、かわいたかなー』


 天幕テントの中に、シロ(りとごん)の声が響いた。


「「「はふぅ……」」」


 僕とイリス、セシルは、そろってため息をついた。


『巨大陸ヘビ』を倒してから十数分後。


 僕たちはイルガファの正規兵さんが設置した天幕テントへと移動していた。


 シロが『ずぶぬれになったおとーさんたちの身体をふいてあげたい』って言ったから。せっかくの提案だし、シロ(りとごん)の吸水性は優秀だからね。僕はともかく、セシルとイリスは震えてたし。


 でもまぁ、さすがに昼間だし、アイネとラフィリアが見張りをしてくれてるとはいえ、まわりには兵士さんがいるし。


 お互いに身体を拭き合う、というのもあれなので、僕たちは服を脱いで、互いに背中合わせに。


 あとはシロの自主性に任せることにしたのだった。


『でも、どうしておとーさんもイリスおかーさんも、セシルさんも、背中合わせになってるのー?』


「そこは追求しない方向で」


 一応、僕は下着一枚だけは身につけてる。


 イリスとセシルは……


「シロさま、あ、あまり見ないでくださいませ。イリスは……まだまだ成長途中ですので」


「わ、わたしは成長期すぎてこれですけど……」


 ふたりとも、声が震えてる。


 ……どんな格好をしてるんだろう。


 服を入れるカゴは、さっきアイネが用意してくれた。僕のは足元にある。イリスとセシルのは、さっきシロがひっくり返しそうになった(らしい)けど、僕の位置からは見えない。ただ、その時のふたりのあわてっぷりから考えると──


 ……まぁいいか。


「それじゃ、服を着て外に出ようか」


「は、はい……ひゃぁっ!?」


 ぴと。


 ん……?


 僕のふとももに、柔らかいものが触れたような……。


「な、なんでもありません。かがんだひょうしにイリスの肌がお兄ちゃんと……いえいえ」


 イリスが首を振り、僕の背中に彼女の髪が当たる。


 冷たい感触がするのは……これは、水滴かな。


『イリスおかーさん、まだ髪が濡れてるよー』


「シロさま? だ、大丈夫です。あとで拭きますから」


『もー。シロだって働きたいんだよ? 遠慮するのは、めっ、だよ?』


「今はだめなのです。お兄ちゃんとふれあったところがぴりぴりして……ふわふわ……」


『まずは前髪からねー』


「だ、だめでしょうシロさま! わ、わわわっ」


「わぁっ。イリスさんっ!」


 背中を向けてるから見えないけど、なんとなく、どんな状況なのかはわかる。


 イリスの髪を拭こうとして、シロ(りとごん)が彼女の顔にダイブして──


 バランスを崩したイリスが、後ろ向きに倒れそうになって──


「……っと。あぶない」


 そのイリスの腕を、僕がつかんで──


 それを支点に、ぐるっ、と回って、僕の前にやってきたイリスの姿は……。


「「……あ」」


 目が合った。


 イリスの顔が、真っ赤になって──






「ひゅわああああああああああんっ!」







「なぁくん? 大きな声が聞こえたけど、大丈夫なの?」


 天幕の入り口が開いて、アイネが顔を出した。


「……えっと」「その……」


「貧相なものをお見せして申し訳ございません。お兄ちゃんに見ていただくときはもっと成長してからと思っていたのに申し訳ございません。一緒にお風呂に入ったときからまったく変わっておりませんのでいっそお兄ちゃんにしていただけたらもっと大人になれるのではないかと──」


『アイネおかーさん。イリスおかーさんがー!』


 詳しい描写をすると、イリスは僕の後ろに座り込んでぶつぶつとつぶやいてて、セシルが必死になぐさめてる状態。シロはそのまわりをぱたぱたと飛び回ってる。


 ……こういうとき、なんて言ったらいいんだろう。


 声をかけようにも、イリスの服は目の前にあるカゴの中。着てたものが一枚残らず入ってる。イリス、真面目だから。『りとごん』に入ったシロに、仕事をさせてあげたかったんだろうな……。悪いことしたなぁ……。


「とりあえずアイネ、イリスに服を着せてあげてくれるかな?」


「……あららー」


 アイネはしばらく、天幕にいる僕たちを眺めてから……。


「イリスちゃん、そこまでがんばったのならもう一押しなの。ふぁいと」


 ──そっと天幕を閉じたのだった。


 って、ちょっと待ってお姉ちゃん。







『たのしかったねー!』


「……そうだね」「……シロさまに、喜んでいただけたなら」


 それから数時間後。


 後のことは正規兵に任せて、僕たちは一足先に港町イルガファに戻ってきた。


 イリスとラフィリアは、僕たちが保養地にいる間も、残って領主家の仕事をしてた。


 だから、できるだけ早く休ませてあげたかったんけど……イリスは、


「お兄ちゃんに、ひとつご提案があるのです」


「そういえば、『巨大陸ヘビ』を倒したあとも、そんなこと言ってたね」


「はい」


 イリスは小さくうなずいてから、


「よければイリスと一緒に、町までお出かけしませんか?」


 そんなことを提案したのだった。







 そんなわけで、今、僕とイリスとアイネは、出かける準備をしてる。


 セシルは魔力を使いすぎたのでお休み中。ラフィリアは──


「師匠は『アイネさまのごはんを食べて、お腹いっぱいになったので寝ます』とおっしゃっておりました」


「……本能に忠実だよね。ラフィリア」


 さっき部屋をのぞいたら、お腹を出して爆睡ばくすいしてたし。


「そういう方だから、イリスは『師匠』とお呼びしているのですよ。お兄ちゃん」


 イリスは僕を見て、笑った。


「イリスは考えすぎるくせがありますから、本能に忠実でありながら、現実を生き抜いていく師匠の在り方を尊敬しているのです。だから師匠が側にいると、安心するのでしょうね」


「そっか」


「あと、体型的にも」


 ……そこはいい話のままで終わらせようよ。


「今日だって、師匠ほどの胸囲があれば……胸が重しとなって、イリスが後ろに倒れるようなことはなかったはずでしょう。……いえ、そうなるとお兄ちゃんと肌と肌をふれあわせることもなかったわけで……それは痛恨の極みで……しかし、そうなると……」


「イリスちゃん、考えすぎ考えすぎ」


 メイド服のアイネが、イリスの背中を、ぽんぽん、と叩いた。


「アイネも役割にとらわれるところがあるから、わかるの。そういうときはなにも考えずに、したいことを口に出すといいの」


「なにか僕たちに言いたいことがあるんだよね? イリス」


「わかっちゃいますか……」


 そりゃもう。


 ずっと緊張した顔してるし、そもそもイリスが自分から、町を歩きたいなんて言い出すこと、ほとんどないからね。


「……イリスはもっと『現実処理能力げんじつしょりのうりょく』を持ちたいのです」


 イリスは叫んだ。


 ……現実処理能力?


 つまり、現実的な問題を、的確に処理していく能力のことだよね。


「イリスは充分、現実処理能力あるだろ?」


「確かに、経済や外交、領地運営などについては処理できます。イリスが欲しいのはあたりまえの日常を生き抜いていく力なのです。さきほど天幕テントの中で……その、お兄ちゃんにはしたない姿を見せてしまったのもそうですけど……イリスはちょっと、日常的な能力に欠けているところがありますので……」


「……天幕テントの中で……」


「お、思い出さないでくださいねお兄ちゃん! イリスがお兄ちゃんの前で、恥ずかしい姿をさらしてしまったところを。絶対ですよ!」


「う、うん」


「思い出して欲しくないところを具体的に言いますと! イリスがお兄ちゃんの──」


 それは思い出して欲しくないのか、欲しいのか。どっちだ。


 アイネも、そこは止めるところだから。目を輝かせて話の続きをうながすところじゃないからね?


「──と、とにかく、イリスはもっと現実的な能力が欲しいのです。そういう訓練をしたいのです!」


 イリスはなにかを決意したように、宣言した。


「……なるほど」


 イリスの言いたいことは、わかる。


 彼女は海竜の巫女として、ずっと領主家に閉じ込められていた。ひとりで外を出歩いたこともなかった。今はもう自由な立場だけど、そういえばひとりで買い物ってのはしたことがなかったかな。


「じゃあ、訓練してみる?」


「ぜひお願いいたします! 『イリス、ひとりでお使い』という感じで!」


 イリスが、ひとりでお使い……。


 ……なんだかすごく危険な感じがするけど、本人はやる気になってる。


 新しいことに挑戦しようとしてるのに、水を差すようなことはしたくないな。うん。


「わかった。まずは短距離のおつかいを試してみよう」


「はい、お兄ちゃん!」


 そんなわけで。


 港町イルガファの大通りで『変装イリスの、はじめてのお使い大作戦』が実行されることになったのだった。









 ──イリス視点──




 髪を結んで、『革のよろい』に着替えて、ダガーを装備して。


 イリスは『謎シーフメロディ』に変身しました。


 ちなみにこの名前は、お兄ちゃんがくださったものです。


 音符のように軽やかに、曲のようになめらかに、世界を渡っていく──という意味があると、イリスは解釈しております。この名前は、イリスにとっての宝物です。本名もこれに改名したいくらいです。


 さてさて。


 イリスは今、港町イルガファの大通り、その入り口に立っております。


 人……多いです。たくさんです。


 大きい人がいっぱいです。イリスは思わず、通り過ぎる人の顔を見上げてしまいます。イリスはちっちゃいですからね。体格のいい人の群れに、気後れしそうになります。


『だいじょうぶ? おかーさん』


 イリスの腕の中で、ふわもこシロさんがつぶやきます。


 聖女デリリラさまが作ってくださったゴーレム『りとごん』に入った、シロさまです。


 イリスひとりでは心配だからと、お兄ちゃんが預けてくださいました。


『それでは「ひとりでおつかい」になりません』と、抗議したのですが、お兄ちゃんは『今のシロは人の姿を取ってないから、「ひと」には数えないだろ。つまり、イリスはあくまで「ひとりでおつかい」になるわけだよ』と、おっしゃいました。


 むむむー、です。


 お兄ちゃんの理屈にはかないません。愛情たっぷりですから。


 ほれた弱み、というものですね。


 おまけに『意識共有マインドリンケージ・改』まで、していただきました。思わずほおがゆるんでしまいます。やる気も出ようというものでしょう。


「イリスは大丈夫ですよ。シロさま」


 ふわふわもこもこのシロさまを、イリスは、ぎゅ、と抱きしめて、応えます。


「シロさまも一緒なのですからね。イリスに恐いものなどございません」


『がんばろーね。おかーさん』


「はいっ!」


 イリスは力強くうなずきます。


 さて、そろそろ行かなければ。


 イリスの今回の使命は、ふたつ。


 通りの中央にある屋台で、串焼きのお肉を3つ、買うこと。


 そして冒険者ギルドに寄って、クエストボードを確認することです。楽勝です。


 人混みにさえ慣れれば、なんということもありません。


 お兄ちゃんにいいところをお見せするチャンスです。さぁ、行きますよ。海竜の巫女の名にかけて、使命を果たして見せま──




「おや、メロディさんではありませんか?」


「ひぇぅっ!?」




 不意に声をかけられて、イリスは思わず飛び上がりました。


 振り返ると、背の高い女性が立っていました。背中に長剣をかついでる冒険者です。鋭い目つきに、見覚えがあります。


「……冒険者のナタリアさま?」


「覚えていてくださったのですね。メロディさん」


「はい。一緒に、巨大ザリガニを退治しましたから」


 あれはほんの十日ちょっと前のことです。


 イルガファの冒険者ギルドの信用を取り戻すためのクエストがあり、そのついでに、イリスたちは『巨大ザリガニ』と戦うことになったのでした。ナタリアさまは、そのとき手伝ってくれた冒険者さんです。子ども好き──特にちっちゃい男の子が大好きな、腕利きの女性です。


 確かイリスこと『メロディ』のことは、男の子だと思っているはずです。


「ご、ごぶさたしております」


 イリスはやっとの思いでお辞儀します。


 お兄ちゃんが一緒なら、落ち着いてあいさつできるのに、今は緊張でがちがちです。


 それに、イリスの変装も、まだ慣れてはいません。謎シーフメロディの正体が、イリス=ハフェウメアだとばれたら、面倒なことになります。


「ちょうどよかった。メロディさんにもお伝えしておかなければいけません」


 ナタリアさまはイリスをじっと見て、言いました。


「お伝え、ですか?」


「ええ。冒険者ギルドに出ているクエストのことなのです。町にいる冒険者すべてに参加して欲しい、というものがありまして──」


「まさか、クエストボードの内容を教えてくださるつもりですか!?」


「はい」


 ナタリアさまは少しつり上がった目を見開いて、言いました。


 なんということでしょう。


 まだ大通りに踏み出してもいないのに、「はじめてのお使い」がひとつ、片付いてしまいます。


 これはいけません。


 楽をして生きる、というのはお兄ちゃんのパーティのモットーですが、今回のこれはイリスの修業です。セシルさまに教わり、イリスが毎晩行っている『胸を大きくする体操』と同じです。途中経過をはぶいてはいけないのです。


「ナタリアさまのお気持ちはうれしいのですが、聞かなかったことにいたしましょう」


「……え?」


「イリ──いえ、ぼくのことを大切にしてくださることには感謝いたします。その想い、うれしく思います」


「い、いえ、私はたしかにちっちゃな男の子が好きですが、恋愛的な意味では……というより、あなたとナギさんの取り合わせに尊さを感じて──ではなく!」


「メロディの……いえ、ぼくのお兄ちゃんへの想いに気づいていたのですね」


「は、はぅ!?」


「ならば、わかってくださるはずです。ぼくがお兄ちゃんと並び立つためにも……今日、お見せしてしまった恥ずかしい姿を……打ち消すためにも、ぼくは一人で試練に立ち向かわなくてはならないと!」


「は、恥ずかしい姿?」


「あとは想像にお任せします。今、お兄ちゃんのぬくもりを思い出してしまったら、歯止めがきかなくなりますので……」


「はぅっ!!」


 ナタリアさまは鼻血を噴いてのけぞりました。


 イリスの想いを、わかってくださったようです。


 この「ひとりでおつかい」は大切な使命なのです。他の方の手を借りるわけにはいかないのですから。


「それでは失礼いたします。ナタリアさま」


 イリスはお辞儀じぎをして、彼女の横を通り過ぎました。


 ナタリアさまは、鼻血をおさえてうずくまっていらっしゃいます。イリスを心配してくださっているのでしょう。悪いことをいたしました。


 けれど、イリスには『冒険者ギルドのクエスト』を自分の目で確認するという使命があるのです。そのためなら、心を鬼にいたしましょう。己の中の甘えを断ち切るのです。


 お兄ちゃんに与えられた使命を果たすためにも……全力で……。




『送信者:ナギ


 受信者:イリス


 本文:大通りの入り口でナタリアさんに会ったよ。


 商人さんの子どもが飼ってた「ゴールデンラビット」が逃げ出したから、見つけたら捕まえて欲しいんだってさ。冒険者ギルドの最優先クエストらしいよ。イリスも気をつけておいて』




 そんなことを考えていたら、メッセージが届きました。


 ……お兄ちゃん、イリスに甘過ぎです。


 それでは訓練にならないですよ? 愛してますよ? まったくもう……。







『おかーさん、串焼き屋さんって、ここ?』


「そうですよ。シロさま。いいにおいがするの、わかりますか?」


『わかるよー。「天竜の卵」越しに、においを感じるよ』


「さすがシロさま。イリスの自慢の子どもです」


 イリスが『天竜シロの腕輪』をなでると、シロさまはうれしそうに喉を鳴らします。


 目の前には、串焼き屋さんの屋台があります。


 年配の女性が、串に刺したイノシシ肉と野菜を焼いています。串焼きは一本2アルシャです。これを3本買っていくのが、イリスの使命です。


「ここは銀貨でお支払いすれば……よいのでしょうか」


 イリスはおさいふから、銀貨を6枚取り出します。


 実は……銀貨を出して取引するのは、はじめてです。パーティのおさいふはいつも、アイネお姉ちゃんが預かってくださってました。


 保養地でせっけんを買いに行ったときもそうでした。イリスは計算専門でした。領主家にいた頃は、書類上の取引ばかりでした。


 なので、実際にお店に銀貨を出すのは、はじめてなのです。


「だ、だ、大丈夫でしょうか」


 緊張します。


 イリスは、手のひらに銀貨を6枚……出しました。


 大きさが微妙にふぞろいです。いいんでしょうか。銀の含有量がんゆうりょうは、統一されているはずです。貿易などでは金貨を、本物かどうか取引前にチェックをいたします。そのとき、精度の悪い金貨が混じっていたときなどは、トラブルになることがあります。


 この銀貨は……大丈夫でしょうか。


 トラブルになったら、どうすればいいのでしょう。


「そもそも、串焼き3本に銀貨6枚というのは、正しいのでしょうか?」


 肉の切り身を買って、アイネさまに調理していただけば、半分以下のお金で済みます。いえ、そもそも無理にお肉を食べる必要もございません。お兄ちゃんが求めるのは、安定した生活です。将来、働かないで生きるためには、ここは我慢をするところではないでしょうか。


 いえ、イリスの使命はおつかいであり、そこまで考えても仕方がありません。どうも緊張のあまり、思考が暴走しているようです。お兄ちゃんとの安定した生活から、みなさんと一緒のらぶらぶな生活──さらにはみんなで最初の子どもの名前を考えるところまで想像してしまいました。


 いけません……目の前のお仕事に集中しなければ……。


 ………………女の子なら『シャル』という名前もいいですね……天竜ブランシャルカの名前を一部いただいて。そうしてシロさまと仲良しに……。


『イリスおかーさん?』


「……はっ」


 いけませんいけません。


 お仕事中でした。計算しましょう。


 記憶を呼び覚ましましょう。所持金とお肉の相場を思い出すのです。


 できるだけお金をあまらせて、お兄ちゃんにほめていただくことを考えると……。


「今の値段の2割引であれば……迷うことはないのでしょうが」


「なんだいおじょうちゃん。値切りたいのかい?」


 気づくと、屋台の女性が、イリスを見ていました。


「値切ってもよろしいのでしょうか」


「それはまぁ、話次第だね」


「……そうですか」


 イリスはシロさまを抱きしめながら、考えます。


 相手は屋台で肉を焼いている年配の女性。油のしみついた服を着ているところから考えると、長期間この仕事をしているのでしょう。となると、屋台のプロです。甘く見るわけにはいきません。


 そもそもこの場所で屋台をやっているということは、仕入れは港の倉庫でしょう。街道を通る荷も、海から来る荷も、いったんあそこに集められます。長期間仕事をされている方なら、あそこで行われている朝市にも出向いているはずです。ならば、相場にも詳しいでしょう。


「でしたら、3割引。3本で4アルシャというのはいかがでしょうか?」


「おいおいお嬢ちゃん。いくらなんでも値切りすぎじゃないかね?」


「そうでしょうか?」


「最近、肉の値段だって上がってるんだ。それじゃ商売にならないよ」


「いえ。おととい、肉運びのキャラバンが3隊来たせいで、イノシシ肉は余っているはずです。仕入れは3割ほど安くなっているのではないでしょうか」


「…………は?」


 串焼き屋の女性が、思わず口をぽかん、と開けています。


 イリスに呆れているのかもしれません。


 交渉です。ここはこちらが知っている、正確な情報を出すべきでしょう。


「海路の荷物は確かに遅れておりますが、陸路は通常通り動いております。ちょうど狩りの季節ですからね。イノシシ肉は多く仕入れられているはずです。現在の流通価格と、串の材料費、串焼き肉のたれの製造費を考えると、3割引でも利益は出るはずです。

 もちろん、そちらさまの利益を奪うつもりはありません。3割引は、こちらが情報を持っているという裏付けのために提示したものです。ですので、商売としては1割5分の値引きが妥当でしょう。ただし、そこに残ってる野菜串──『ニギリウカ』の串焼きをつけて銀貨5枚。それでいかがでしょうか?」


「お……おぉ?」


「野菜串を売るというのは名案だと思います。明日以降、西の街道より野菜売りのキャラバンが来るはずですから。今日のうちに客を集めておいて、明日から安くなったものを売るというのはいかがでしょう」


「明日……野菜キャラバンが?」


「そうなのかい? でもねぇ……」


 串焼き屋さんの隣から、声がしました。


 横を見ると、露店ろてんで野菜のスープを売っている方が、困ったような顔をされていました。


「なにか気になることでも?」


「最近、香辛料が高くなってきてねぇ」


「香辛料は海路から届くはずですが……問題がございますか?」


「なんだかいつもより流通が遅いような気がするんだよ」


「詳しい話を聞かせてくださいませ……」


 これは貴重な機会です。


 領主家は人々の支えがあって成り立つのです。


 せっかくの、生の声を聞く機会を逃すわけにはまいりません。この港町が安定していた方が、お兄ちゃんとの『いちゃらぶ生活』を楽しめるというものです。


「……なるほど。船便が……ふむふむ……」







「……アイネ」


「……うん。なぁくん」


「イリス、まわりのお店の人を巻き込んで、話し込んじゃってるね……」


「串焼き屋さんってば、商品がこげてるのにも気づかないの……」


「イリスに『意識共有・改』のメッセージ、送った方がいいかな」


「もう少し様子を見るの」


「……どきどきするね」


「……はらはらするの」


 なんだろう……自分がクエストをやってるときよりも、不安になってる。


 僕たちとイリスの距離は数メートル。話に夢中のイリスは、こっちに気づいてない。


 屋台のおばちゃんたちはいい人みたいだ。まわりには怪しい人影もなし。


 僕は鞘に入ったままの魔剣レギィを、アイネは『はがねのモップ』を手に警戒態勢。いつでも飛び出せる状態だ。


「見てるだけって緊張するよね……」


「イリスちゃん、そろそろ動いて欲しいの……」


「通りの屋台のおすすめメニューの話になってるもんな」


「イリスちゃんとってには目新しい情報だから、しょうがないの」


「……あ、イリス、歩き出した」


「シロちゃんが注意してくれたの。さすが『天竜の幼生体』」


「イリス、大量に串焼きをもらったみたいだ」


「『はじめてのお使い』で食べ歩きとは、イリスちゃん、なかなかのチャレンジャーなの」


「でも、ふらついてるな……しょうがない。アイネ、先回りしてくれる?」


「わかったの。さりげなくイリスちゃんの前に回って『動体観察どうたいかんさつ』で人波の動きをコントロールするの」


「お願い。僕は背後からイリスをサポートする」


「がんばるの」


「よろしくね」




 がしっ。




 そして僕とアイネは手を握り合い、二手に分かれたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る