第89話「番外編その8『リタと見回りと「完全獣化(ビーストモード)』」

今回はリタ視点のお話です。

セシルにまわりの状況を報告して、ふたたび見回りに出たリタは……。


──────────────────




「……このあたりなら、誰にも見られないよね」


 いったんセシルにまわりの状況を報告して、洞窟を出て──


 そこから少し離れた木のかげで、リタは足を止めた。


『気配察知』を発動──危険な反応はなし。


 感じるのは、洞窟の入り口にいるセシルとレギィの気配だけ。そして今いるこの場所は、そこからも死角になってるはず。よし、いいかな。


 リタは木に寄りかかって、深呼吸。


 日はとっくに暮れて、あたりは薄暗い。


 鳥の声も、獣の声も聞こえない。たぶん、自分たちを警戒してるんだろうな。


 空気はひんやりしてる。


 ちょっとだけ手をこすり合わせてから、リタは気合いを入れるみたいに、ぱん、って手を叩く。


 洞窟のまわりの安全は確かめた。


 でも、万が一ってこともある。大切な仲間とご主人様を守るために、もう少し広い範囲を調べておきたい。


 ──だって、夜の間になにがあるかわからないもん。


 今だって、ご主人様ナギはイリスちゃんとラフィリアの『再調整』をしてるはず。それは奴隷にとって必要なことで、大切なことで……祝福みたいなもの。自分だって、いつナギが『能力再構築』してくれる──じゃなかった、されるかわからないから。


 できるだけ周囲の安全は確保しておかないと、ね。


 でも、獣人とはいえ、人の足で行ける範囲は限られてる。山すべてを駆け回るには、この姿では不向きだ。もっと、適したかたちにならないと。


「……だから、ナギがくれたスキルを使わせてもらうね」


 リタはもう一度深呼吸。


 しつこいって思うかもしれないけど、もう一回『気配察知』を発動。


 ──問題なし。右見て、左見て……いいよね? 誰も見てないよね?


 どうしよう。こんなところで……裸にならないといけないなんて。


 恥ずかしい。ナギが見たらどう思うかな。


 獣人だから、そういう趣味があるのかって思ったりしないかな?


 嫌いには……ならないよね? むしろ「ぐっじょぶ」って言うよね。でもでも、今度からリタは、ふたりっきりのときはその格好で……って言われたら──断らないけど断れないけど……。


「ああもう。私ってばなに考えてるのよぅ。ナギがそんなこと言うわけないじゃない!」


 ぶんぶんぶんぶんっ!


 リタは金色の髪を振り乱す。なんだろうこの一人遊び。


 もういい。覚悟決めた。みんなの安全のためだもん。


 リタは服のボタンに手をかけた。


 背中に腕を回し、ひとつひとつをゆっくりと外していく。


 リタが着ている『格闘系神官の服』は動きやすさ重視だ。背中のボタンを外して帯を解けば、すとん、と足下に全部落ちてしまう。


 そのあとはもう勢いのまま。リタはためらいを振り切るみたいに半分目を閉じて、胸をおおう下着を外す。最後の一枚をしゅる、と足から下ろして──夜の空気に肌をさらす。


 薄闇に浮かび上がる白い肌。誰も見てないのはわかってるけど、思わず胸を押さえてしまう。


 早いところ──別の姿にならないと──


「は、発動……『完全獣化ビーストモードLV1』……」


 ぽつり、と、ないしょ話をするみたいに、リタはつぶやいた。


 声に出した瞬間。白い肌がかすかに火照っていく。


 これは、ナギと『魂約エンゲージ』したときに生まれたスキル──いわば、自分が未来永劫ナギのものになった証拠──そのときのことを思い出しているから──。


「ちがうもんちがうもん! 寒いだけだもん!」


 思わず口走ったリタの姿が──変化していく。


 純白の『神聖力』が身体を包み込む。


 金色の尻尾が伸びていく。純白の『神聖力』が金色の光に変わる。


 その光の中で、まるで影絵のように、人型だったリタの姿が、四本足の獣へと変わっていく。白い身体を金色の体毛が包み込む。身体の感覚を確かめるように、影絵のリタが身を震わせる。


 やがて光が消えると──リタの姿は、金色の体毛を持つ狼に変化していた。


『……成功、かな?』


 獣のリタは首をまわし、自分の姿を確かめた。


 うん。うまくいった。


 まぁ、失敗なんかするはずないけどね。ナギがくれたスキルなんだから。




完全獣化ビーストモードLV1』


 リタが完全な獣の姿に変わる。


 獣に変化している間は筋力、瞬発力、五感が上昇する。


 移動能力は通常の数倍。


 また、この状態でも『神聖力掌握』が使えるため、身体強化効果は継続する。上半身に『神聖力』を集中することで、文字通り弾丸のような体当たりを喰らわせることもできる。


 使用回数は1日1回。


 なお、起動する時に服を着てると破れます。ご注意を。





『……ナギ、見てないよね?』


 声は聞こえないけど、気配だけは感じる。


 大事な大事なご主人様は、洞窟の奥にいるみたい。


 よかった……と、リタは小さくため息をついた。


 ナギはまだ『完全獣化』を使ったリタを見ていない。とっても綺麗な獣のはず……とは言ってくれたけど、実際に見たらどんな反応するのか……少しだけ不安だった。


 ううん。不安というより、心の準備ができてないだけ。弱虫だなぁ、私って。


 リタは獣の前脚で地面をかりかりと掻いた。


 身体を曲げて、伸ばして、後ろ足を上げて、下ろして──身体は自由自在に動きそう。スキルを発動してるおかげで、この身体の使い方が、ちゃんと頭に入ってくる。


 なによりこの姿だと、まわりの状況がよくわかる。


 地面の温度。風の動き。山をおおう木々の位置。すべてが。


『それでは、リタ=メルフェウスは見回りに行ってきます。ご主人様』


 心の中でそうつぶやいて、リタは走り出した。


 風が、耳元で、ごぅ、と鳴った。


 獣人の姿をしてるときとは、比べものにならない速度だった。


 速い。一度地面を蹴るたびに、まわりの景色が後ろに飛んでいく。


 土の感触。草のにおい。木のにおい。


 それらすべてがリタに道を教えてくれる。どこをどこを通ればいいのかわかる。木が生い茂る山の中でも、ぶつかるなんてありえない。走りたい──って思っただけで、身体が勝手に動き出す。すごい。本当の獣になったみたい。


 四本の脚がしっかりと地面をつかんでる。


 蹴る。跳ぶ。走る──じゃない。はしる。


 リタはあっという間に、崩壊した『霧の谷』のそばまでたどりついていた。


 獣の耳を澄ます──気配は──あった。


 上空だ。


 月が輝く空の上を、飛竜が舞っている。大きな翼を広げて、旋回してる。


 向こうはこっちに気づいてない。それに、敵意は感じない。


 飛竜は哀しげな声で鳴いてる。まるで誰かをとむらっているよう。というか、あの声はどっかで聞いたような。よく見ると、翼がちょっと傷ついてる。焦げてるところがわかる。


 あの飛竜なら、こっちに攻撃してくることはない。ご主人様に『ブラッドクリスタル』くれたから。あれは誓いのようなもの。安全だ。


 頭上から地上へと視線を戻し、リタは崩れた『霧の谷』を見た。


 霧に包まれていた谷は、ごろごろした岩に埋め尽くされて、影もかたちもなくなってる。


 あの下にいたという飛竜のミイラが守っていた宝は、ご主人様の手の中だ。


 うまく使えば、飛竜や、竜の眷属たちに影響を与えることができるかもしれないのに、ナギにはそんな気はまったくなさそう。イルガファ領主家の別荘をしばらく借り切って、そこに『天竜の卵』を置いて、あとは放っておくつもり。誰にも秘密は漏らさないし、誰かに自慢するつもりもない。


 ナギは元の世界で苦労してるからか、基本的には『なまけもの』でいたいって思ってる。


 でも、お人好しで苦労性だから、ついつい「しょうがないなぁ」って、誰かを助けちゃう。


 そんなご主人様が──大好き。そのセリフを聞くたびに抱きしめたくなっちゃう。


 私を支配してるご主人様が、愛しくて愛しくてしょうがないもん。


 ふるふる、ってリタは獣の身体を震わせる。


 全身を覆う体毛のせいか、寒さは少しも感じない。むしろあったかいくらい。


 獣人は、野生の獣と人の中間を生きている。ナギはたぶん、その獣の方の力をリタの中から引き出してくれたんだ。全力疾走してきたのに、息も切らしてないこの身体。まだまだ余裕はありそう。


 きっと、このまま走り続ければ、どこまでも行ける。


 たとえば、あの山を越えて、どこまでも。街道を走り抜けて、地平線の向こうまで。


 もしかしたら、この国の境界線を越えて、誰も知らない土地まで──


『……なんてね』


 獣の姿のまま、リタは笑った。


 そんなの無理。わかるもん。


 ナギから少し離れただけなのに、すっごくさみしくなっちゃってる。


 ここからは見えない、山の上の洞窟。そこにいるはずのナギの気配を探してる。


 まるで見えない鎖があるみたい。


 それが自分の深いところに繋がってて、ぴん、と、伸びきってる。


 わかるもん。


 獣の姿になってるせいか、今の自分は本能優位。


 普段ならできないことだって、今ならできそうな気がしてる。


 戻りたい。


 帰りたい。ナギを抱きしめたい。くっつきたい。鼻をくっつけてふにふにしたい。


『でも、もうちょっとだけ』


 安全確認は大事だから。


 リタはくるりときびすを返し、山の斜面を走り出す。


 しばらく進むと、獣の耳が、ぴくん、と、別の気配をとらえた。


 ほらいた。魔物発見。


『GURUUUUUUUU!』


 視界に入ったのは、黒い獣。ぎらぎらと燃えるみたいな赤い瞳。


 あれは、ブラックハウンド、だっけ。




『ブラックハウンド』


 犬に似た獣。


 ただし、サイズは3メートル弱。野犬が魔物化したものとされる。


 武器は牙と、高速移動による体当たり。


 初心者は戦闘を避けた方が無難。




『GUUUUUUUAAAAAA!』


 このあたりがナワバリだったのだろう。


 ブラックハウンドはリタに向かって走ってくる。木の間を抜けて、ジグザグに。巨大な口を開いて、金色の獣を噛み裂こうとするように。


『……遅い』


 しゅん、と、リタの身体がぶれた。


 金色の獣──リタに食いつこうしていた牙が、がりん、と宙を噛む。


 目標を見失ったブラックハウンドが左右を見回す。


 すん、と鼻を鳴らす。目を見開く。黒い犬が顔を上げる。


 金色の獣は、ブラックハウンドの頭上・・にいた。


 獣の姿になっても、リタの『神聖力掌握』は健在。その力を利用して木を蹴り、空中に舞い上がることくらいどうってことはない。ブラックハウンドにも同じことはできるかもしれない。でも、戦闘経験が違う。発想が違う。獣になっても、中身は獣人。


『ソウマ=ナギの奴隷を、なめるんじゃないわよっ!』


『GU、GUAA……』


『ワゥウウウウウウウウウオオオオオオオオ──────!』


 ブラックハウンドの声を打ち消すほどの、リタの遠吠え。


 頭上の優位を取られたブラックハウンドが、思わず硬直する。その胴体を、リタの前脚が薙いだ。ブラックハウンドの身体が吹っ飛んだ。ぐるぐると回転しながら、草を潰し、枝を折り、木に叩き付けられる。


 そして口から泡を吹いて崩れ落ちた魔物は、完全に戦闘意欲を失っていた。


『A……GU……Aa』


 尻尾を丸めて、必死に命乞いをする黒い犬。


 リタはふん、と鼻を鳴らした。


 いつの間にか、他の魔物が近づいているのを感じる。でも、このあたりで危険なのはこいつだけだ。あとはリタに手出しもできないような小物ばかり。みんな怯えて近づいてこようとはしない。


 ブラックハウンドは腹を見せて完全服従のポーズ。身体には木の枝が刺さって、前脚が一本、変な方向を向いている。どのみち、この怪我ならば人に害を及ぼすことはない。とどめを刺した方が楽になれるはずだけど、ブラックハウンドは生きたがってる。


 リタは『行け』と首を振って、重傷の魔物を追い払う。


 鼻にかすかな血のにおいを感じる。いやだな。魔物の血が身体についちゃったかな。


『……帰りたいな……』


 なんだか、すごくさみしい。


 安全は確認した。


 帰りたい。いますぐ帰って、ナギにほめてほしい。


 リタは獣の姿のまま、地面を蹴った。


 金色の獣が山の斜面を駆け上がっていく。『神聖力』を上半身に集中。向かって来る敵がいたら、問答無用で吹き飛ばす威力。だけどもう、リタに近づいてくる者はいない。さっきのブラックハウンドが、このあたりの魔物の親玉だったみたい。


 それを一瞬で倒したリタを恐れて、あっちこっちで魔物がひれ伏してる。


 でも、リタはそんなことは気にも留めない。


 考えているのは、ご主人様のことだけ。一秒でも早く、まっすぐに帰る。それだけ。


『……あれ?』


 ナギの気配を目指して走るうちに、いつの間にかリタは洞窟を通り越していた。


 おかしいな。ナギ、さっきの洞窟にいないよ?


 リタはさらに山の上の方へ走る。


 ナギのにおいが近づいてくる。


 しばらく進むと、小さな洞窟の入り口があった。


 さっきリタが見回っていたときに見つけたものだ。魔族と古代エルフの『福利厚生』のためのお風呂、だっけ。


 かすかに水のにおいがする。あったかい、湯気のにおい。


 本能優位になったリタは、まっすぐに洞窟へと飛び込んでいく。


 ぼんやりと明るい穴の向こう。ご主人様がそこにいる──


「リタ? 見回りは終わり?」


 いた。


 洞窟の奥にある泉のほとりに座って、ナギが水をかき回してた。


 背中には人の姿になったレギィがくっついて「まだかな、まだかなー」ってつぶやいている。


 家の廊下くらいの長さがある洞窟の奥には、小さな小部屋。


 そこには家庭用お風呂サイズの泉があった。古代の技術で岩をくりぬいて作られたらしい。まわりの壁のあちこちにはオレンジ色に光る線が走っている。ナギがそこに触れると、光が強くなり、泉から湯気がたちのぼる。泉には壁から水が絶え間なく注いでいて、あふれた水は洞窟の隙間から流れ出るようになっている。自然を利用した『沸かせる泉』だった。


『そういえばラフィリアが言ってたっけ。この泉は、魔族と古代エルフが沐浴をするためのものだって』


『霧の谷』の残留魔力を使っていて、魔力を注ぐと、ちょうど人肌くらいの温かさになるらしい。


 谷本体が崩壊しちゃったから、やっぱりそのうち使えなくなるみたいだけど。


『……ナギってば、ほんっとにお風呂好きよね』


 でも、そこがいい。


 きれい好きなのはいいことだもん。私やセシルちゃんの分も、ちゃんとお風呂を用意してくれるもん──って考えたところで、リタは自分がまだ獣の姿だということに気がついた。


 思わず身体が震え出す。


 本能のまま「ナギに会いたい」って駆けてきたから、忘れてた。忘れちゃってた。


 どうしよう。


 ナギにこの姿を見られちゃった。


『完全獣化』で変化した、私の獣の姿。金色の獣。敵と戦ってきて、森の中走ってきて、土も木の枝もくっついてるのに。恥ずかしい。どうしよう。おかしいって、変だって言われたら──


「リタ、もふもふしていいかな?」


『……わぅ?』


「すっごくきれいだから、背中、もふもふしてみたいんだけど、駄目?」


 わきわきと手を伸ばしてくる、リタの大好きなご主人様。


 リタは思わずためいきをつく。ばかみたい。なに心配してたんだろ……って。


 気弱な自分を振り払い、リタは反射的に『伏せ』の体勢を取る。


 ナギがどうして一目でリタだってわかったのか、それは簡単。首輪がついてるから。


『主従契約』で生まれた首輪は、リタが獣の姿になっても変わらない。自由に伸び縮みして、リタの首をかざってる。


 ナギの手で触れられて、リタはやっとそれを思い出した。


 ──ばかみたい。私はナギのもので、ナギは私のご主人様なのに。私がどんな姿でも、それは変わらないのに。なに心配してたんだろ。


 ──私はナギの側で、こうして一緒にいればいいだけなのに。


「そっか。リタは『完全獣化ビーストモード』使って、見回りしててくれたのか。お疲れさま」


『……わうぅ』


 リタの声は言葉にならない。


 獣と人は発声器官が違うから。でも、発した言葉は甘えた音になる。


 ナギの指で背中をもふもふされながら、獣のリタは喉を鳴らす。なんか、このまま眠っちゃいそう。


「むー。我はもう我慢できーん!」


 ざぶん


 突然、おっきな水音がした。


 びっくりして顔を上げると、人の姿をしたレギィが泉に飛び込んだところだった。


 洞窟の中では、もくもくと湯気があがってる。


 魔族と古代エルフが作った『沐浴システム』はナギの魔力で発動して、泉をほどよくお湯にしたのだ。


「んー。くわー。たまらんっ!」


「レギィ、お前さ。僕たちが話してるのに、問答無用で飛び込むなよ」


「なにおー。主様は『霧の谷』で、一緒にお風呂に入ってくれると約束したではないかー!」


 景気よくすっぱだかになった人型のレギィは、泉の中でばしゃばしゃとお湯を跳ね上げてる。


 状況がよくわかってないリタに、ナギは説明をはじめた。


 リタが『沐浴の洞窟』を見つけたことを聞いたナギは、様子を見に来たらしい。


 セシルは魔力の使いすぎで疲れ気味。アイネは料理の準備中。イリスとラフィリアは『再調整』のあとでぐったりしてたから、ナギの護衛は魔剣のレギィの役目になった。


 お風呂があるなら、疲れた奴隷を休めるために、ナギが起動しようって思うのは当然で。でもその前に自分もお風呂に入りたいって考えるのも必然。ついでに『霧の谷』を攻略するときに、魔剣のレギィに「ごほうびとして一緒に買い物かお風呂」って約束してたそうで、お風呂を選んだレギィはお湯があったまるなり裸になって飛び込んだ──ってことらしい。


「まわりの安全はリタが確認してくれてるから。みんなは食後に、僕とレギィは食前にお風呂、ってことにしたんだ」


『ナギらしいなぁ……』


 ナギにもふもふされながら、リタはのんびり喉を鳴らす。


 ──疲れてるはずなのに、こうして奴隷のために──それともナギってば、自分がお風呂に入りたかっただけなのかな? どっちなのかな……どっちでもいいよね。


 ナギの手が気持ちよすぎて、リタはうとうとしそうになる。


 野生の本能はどこいったのかって思うけど、ご主人様の側にいるのが幸せすぎるからしょうがない。気持ちよさに目を閉じかけて「ほらほら、さっさと主様も入らぬかー」ってレギィの声に目を開ける。


「心配せぬとも、疲れてる主様に変なことしたりはせぬ。それに、一緒にお風呂に入る楽しさを教えたのは主さまじゃろう? 責任とれー!」


 肩までお湯に浸かったレギィは、ぶんぶん、って手を振ってる。


「はいはい」


 リタの背中をもふもふしてたナギの手が離れた。


 レギィが素直に背中を向けてるから、リタだってナギの裸を見るわけにはいかなくて、獣の顔を壁の方に向ける。でも気配で、ナギがなにしてるかわかる。今、上着を脱いだ。下着を首から、しゅる、ってして、下も脱いで──じゃぽん。


「んくーっ」


「くわーっ」


 お湯の中で背伸びする、ご主人様と魔剣の二重奏。


「古いシステムだから作動するか心配だったけど、大丈夫そうだな」


「持って帰りたいぞ、これ」


「システムの構造がわかればなー」


「『お風呂を作るスキル』とか、主様は作れぬのじゃろうか?」


 なんだか、むずむずしてきた。


 ナギとレギィはすっかり仲良し。背中合わせで、お湯に浸かって楽しそう。


 リタは泉に向かって踏み出しかけて、自分が獣の姿なのに気づいて、止まって。


 獣の手足には土がついてる。金色の体毛にも、葉っぱや小枝が絡まってる。お風呂に入って洗いたいけど……恥ずかしくて言い出せない。リタは獣の姿のまま「むむむーっ」、って頭を抱えてしまう。


「…………よかったら、リタも一緒に入る?」


 ご主人様の声が、リタの迷いを断ち切った。


 というか、断ち切られたのは迷いというより理性かも。


『う、うしろ向いてて! ナギ』


 獣の声でうなってみたけど、ナギには意味がわかったみたい。


 もう引っ込みはつかない。リタは『完全獣化』を解除。


 ふたたび『神聖力』が、獣の身体を包み込む。ゆっくりと身体の構造が変わっていく。


 金色の体毛はどこかに消えて、白い肌が姿を現す。


 リタは桜色の瞳をぱちくり。人の身体を再確認。


 そして金色の長い髪が、リタの首と胸にからみつく。


 レギィの「おおー」という声はどうでもいいとして、ナギはちゃんと後ろを向いてくれてる。優しい。大好き。いやいやそうじゃなくて──っと。


 リタは泉のふちに腰掛けて、手のひらでお湯をすくった。


 獣の姿で走り回ってきたせいで、手足に土がついちゃってる。それを洗い流してから、リタは温かい泉の中に、ちゃぷん、と、身体をしずめた。


「わぅーっ。んーっ」


 魔力で温めたお湯が、疲れた筋肉をほぐしていく。


 白い肌が火照っていく。それはたぶんお湯のせいと、ナギのせい。


 ちょっとだけ後ろに体重をかけると、肩がナギの背中に触れる。反対側の肩は、レギィの頭のあたり。そんなわけでご主人様と獣人と魔剣は、お湯のなかで三角形を描くみたいに座ってる。さすがに脚を伸ばすほどの広さはないから、3人で膝をかかえて。


「はぅ……」


 どうしよう。


 思い切って一緒に入っちゃったけど、緊張して言葉がでてこない。


「……『ごほうび』もらっちゃった」


「あのさ、リタ」


「は、はいっ」


「これは『リタにあげる時間』には含まないから。今回の仕事の報酬とは別ってことで」


 ……え?


 時間? 私に……?


 あ、そういえば『霧の谷』で仕事のごほうびに『ナギと一緒の時間が欲しい』って言ったっけ。


 でも、一緒にお風呂に入ってるこの時間はイレギュラーだからノーカウント。


「…………ぷっ」


「なんだよ」


「だ、だってぇ、ナギってば、わざわざそんなこと言うんだもん」


 リタは肩越しに、大好きなご主人様の顔を見た。


 お湯のせいか、ナギの顔もちょっと赤い。なんだかほっとする。


 どきどきしてるのは、自分だけじゃないのかな、って。


「別に気にしなくてもいいですー。私は今、こうしてるだけで十分。私の時間はアイネにあげてもいいくらいだもんねー」


「じゃあそれで」


「ごめん嘘やめてっ!」


「……あほか獣人娘よ。自分で墓穴を掘ってどうするのじゃ」


 首のあたりまでお湯に浸かったレギィが、くっくっくっ、って笑ってる。


「…………なによぅ。えっち魔剣のくせに」


「ふっ。ほめ言葉として受け取っておこう!」


 むん、と、後ろでレギィが胸を張る気配。


「それより主さまよ。明日からの予定はどうなっておるのじゃ? 山を下ったあとは、イルガファ領主の別荘に戻るのじゃろう?」


「うん。今度こそ、本格的なお休みだ」


 ぱしゃ、と、水音をさせて、ナギがうなずいた。


「仕事としては、イリスに手紙を書いてもらって、領主さんに別荘をしばらく借り切るって伝えるくらいだよ。あんまり使われてないみたいだから、2、3年くらいは誰も近づかないようにできるみたいだ。『天竜の卵』は床下に祭壇を作って隠しておくつもり」


「卵のことを知ってるのは、ミイラ飛竜さんだけだものね」


「セシルの『魔力探知』にもほとんど引っかからないからな。問題なく隠せるはずだ。孵化したあとは野生的に生きていけるって言ってたから、僕たちにできることはそこまでだよ」


「竜の遺産を探す話は、どうするのじゃ?」


 いつの間にかナギの背中にくっついてたレギィが聞く。くっつくのずるい。


「それはおいおい、かな。天竜の伝説についても、もうちょっと調べたいからね。できれば『魔法実験都市』の図書館の資料を使えないかなって思ってる。どっちにしても、すぐに解決できることじゃないからなぁ」


「そうよね」


「じゃよなぁ」


 そしてご主人様と獣人と魔剣は、そろってゆったりと息を吐き出した。


 泉のお湯はあったかくて、優しくて、ここが山の上だってことも忘れそう。


 リタはいつの間にかお湯の中でナギの手を握ってる。反対側の手には、レギィが触れてる。というか、背中をすりすりしてきたから捕まえて拘束した。じゃあレギィの反対側の手はなにしてるの? って思うけど、ナギが怒らないのを見ると、なんにもしてないみたい。意外とこの子は、ナギには素直。まぁ、魔剣と一緒にお風呂に入ってくれるご主人様なんて、他にいないもんね。


 もちろん、こんなふうに奴隷と肩を並べてお風呂に入ってくれるご主人様も、珍しいんだけどね。


「……気持ちいいなぁ。ナギが沸かしてくれたお風呂……」


「うん、僕もだ。家族と一緒にお風呂って、元の世界でのあこがれだったからね……」


 湯気の中、ぽつり、とナギは言葉をこぼした。


 ──ナギの「家族」……。


 リタの胸が、きゅん、と切なくなる。言わなきゃ。大切なこと。今がチャンスだから。


 自分にとってナギは「ご主人様」で「大好きな人」で、そして──


「あ、あのね。ナギ。あたしも──」「むーっ! さすが主さまじゃ。いいこと言うのぅ!!」


 ──レギィ────っ!


 言いかけた言葉をかき消され、リタは隣にいる赤毛の魔剣少女を横目で睨む。


「よし。それならば明日から順番に『主さまと一緒にお風呂の日』を作ろう!」


「また変なこと言い出したよレギィは……」


「ナ、ナギ。私──あの、私は──」「よーっし! 日付ごとに奴隷が主さまとお風呂に入るのじゃ。例えば、3で割り切れる日はつるぺた魔族。2で割り切れる日は獣人娘。そして1で割り切れる日は我の番じゃ! どうじゃ。これなら公平じゃろう!」


「公平って言葉を学び直してこい! というか、1で割り切れる日って毎日じゃねぇか」


「わ、私は2で割り切れる日? それって──えっとえっと」


 言葉はさえぎられたけど、でもすっごく魅力的な提案をされて、リタは指折り数え出す。そうすると、ナギと一緒の日は毎月何日──ひとつふたつ。たくさん? それって──


「はぁ」「ふぅ」「ふわぁ」


 でも、3人がいるのはあったかいお湯の中。


 身体も心もゆるみはじめて、頭があんまり回らない。今日は結構働いたから、難しいことは明日考えよう。なんとなく3人うなずいて、それからまた、お風呂でふわふわしはじめる。


「……あったかいなぁ」


「だよねぇ」


「じゃよなぁ」


 ふわふわ。ほわほわ。


 ずっとこうしていたいけど、リタもそろそろ頭がぼーっとしてきた。


 お湯に浸かりすぎたのかな。それに、セシルちゃんも待ってるから。


「そろそろ戻ろう。みんな待ってる」


「ど、どうぞお先に」


「うん」「じゃあ遠慮なく──」


「レギィはナギが服を着てからでしょ!」


 さりげなく一緒に上がろうとするちびっこを、リタは両腕で抱きしめる。


 ちっちゃい。でも、この子はえろす魔剣。セシルちゃんやイリスちゃんみたいに、なでなですりすりするのは危険かも。


 そんなわけでナギが服を着るのを気配で確認してから、人型のレギィを解放。


 レギィは素直に布で身体を拭いて、いつもの服に着替える。


 さて、次は自分の番。


 ナギとレギィは後ろを向いてくれてるから、今のうちに──


「そういえばリタ、服は?」


「だいじょうぶ。また『完全獣化』で獣の姿になるから……」


 リタはスキルを起動しようとして──





完全獣化ビーストモードLV1』


 使用回数は1日1回・・・・まで。





「あ──────────────────っ!!」







「…………ナギぃ。こっち見ちゃやだよぅ…………」


「見ないからゆっくりついてきて」


 どうしてこんなことに。


 さっきまでかっこよく決めてたのに、どうしてこうなっちゃうのよぅ。


 リタは半泣きで、ナギのあとをついていく。


 洞窟までは歩いて10分くらい。月明かりのおかげで、足下ははっきり見える。でも、はっきり見えるのが大問題。リタは涙目で、腰に巻いた布を押さえた。


『完全獣化』が使えるのは1日1回。今日はもう使えない。


 そして、服はスキルを起動したとき、洞窟の近くに置いてきた。


 だから今のリタが着てるのは、ナギから借りたぶかぶか下着(上)だけ。ちょっと長さが不安だから、腰にはナギとレギィが身体を拭くのに使った布を巻き付けてある。それでぎりぎり、大事なところは隠せてる。でもすっごく歩きにくい。さっきまで山を駆け回ってたのが嘘みたい。


「なにをいまさら恥ずかしがっておるのじゃ」


 ナギと手をつないで歩きながら、レギィが「ふっふーん」って鼻を鳴らした。


「お主、さっきまで全裸で山を駆け回っていたのじゃろう?」


「そ、それは別の話だもん! 別の姿だもん! おんなじだけど違うんだもん!」


 そう、違うのだ。おんなじように思えるけどなんか違う。


 笑うレギィに、べーっと舌を出して、またおぼつかない足取りで歩き出す。


 ああもう。かっこわるいなぁ。


 おまけにちょっと両脚がいたい。ふとももが突っ張るような感じ。まさか、これって筋肉痛? 


『完全獣化』の副作用? 普段とは違う身体の使い方したから?


「リタ、あとでアイネに見てもらって。明日の出発は時間を遅らせるから、ゆっくり休もうよ」


「ううううう。リタ=メルフェウス、一生の不覚ぅ……」


「スキルの弱点がわかっただけでも収穫だろ?」


「もう使わないもん。ほんとに絶体絶命って時じゃない限り『完全獣化』なんかしないもん」


「……せっかく綺麗な獣の姿だったのに」


「ナギのいじわる」


 どっちみちナギにスキル使ってってお願いされたら断るわけにはいかなくて、再び獣化するのは確定してるようなもの。今度は服のところに戻るまで、絶対獣のままでいるんだから、ってリタは自分に言い聞かせる。


 その決意がふわふわしてるのは、着てる服と、腰に巻いてる布のせい。


 どっちもさっきまでナギが使っていたもので、まだふんわりとにおいがしてる。


 獣になって走り回ってたときの「さみしさ」は、すぽーんとどっかに消えちゃったけど、かわりに物理的な圧力をもった「どきどき」に、リタは飲み込まれそうになる。顔は真っ赤。心臓はばくばく。おまけに深いところがきゅんきゅんして、歩くのも大変。


「しょうがないなぁ」


 ナギが立ち止まる。しゃがむ。


「……おんぶ?」


「恥ずかしいなら我慢──じゃなくて、見ないから」


 今、我慢ってゆった。絶対ゆった。


「それに、『完全獣化』が1日1回だって忘れてたのはお互い様だからさ」


「わぅ…………」


 リタは濡れた髪をくるくると指先にからめて、それから意を決したように、ナギの背中に身体を預けた。よっ、とナギが立ち上がる。全身が、ナギにぴったりとくっつく。思わず首筋をすんすんして「今日はナギの日だもん……」って、よくわからないことをつぶやいちゃう。


 でも、気にしない。レギィが「主さまの背中は我の定位置じゃ。ゆずってやるのは今日だけじゃぞ」って言ってるけど、それも無視。


 でも、アイネには悪いかな。ナギの時間をもらう約束したのは同じなのに、特別にナギをたくさんもらっちゃってる。においも、体温も、素肌をおおう服だって、ひとつ残らずナギのもの。リタのまわりはナギでいっぱいで──やっぱりここがいいなぁ、って再確認。


 たとえ完全な獣の姿になっても、夜の間に山を駆け抜けることができたとしても、結局リタは、ここに戻ってきてしまう。安心できる、一緒にいたいって思える人のところに。


 でも、それでいい。それがいい。


 パーティがこれからどこに向かっても、たとえ目の前で『天竜の卵』が孵化して、巨大な竜が空をおおっても、リタの居場所はここだから。


「…………あれ?」


 ふと、ナギが腰に結びつけている袋が、リタの脚に触れた。


 丸くて固いもの。あったかいもの。これは?


「ナギってば、なんで『天竜の卵』持ち歩いてるの?」


「勝手についてくるんだ。なんだか、気に入られたみたいで」


「そーなんだ……」


 リタは──拒否されてるような気がしなかったから──『天竜の卵』にさわってみた。


 孵化がいつになるかはわからないけど、生まれて来る天竜は、リタたちよりもずっと長い時間を生きるもの。強くて大きくて、はるか遠くまで飛んでいく。神話的な存在。リタとナギがここにいることなんかちっぽけで、すぐに無関係になってしまうんだろうけど──


「…………私、リタ=メルフェウスは、ご主人様のことが大好きです」


 ちょっとだけ覚えていて欲しかったから、唇を近づけて『天竜の卵』にささやいてみる。


 もちろん、ナギには聞こえないように、口の中だけで。


「私がどんなに強くなっても、『4概念チートキャラ』になっても、この忠誠はゆるがないもん。『天竜の卵』さんが、いま、ナギのことが気に入ってたって、私の想いにはかなわないんだからねっ。それだけは、覚えておいてね……」


『天竜の卵』は応えない。


 まぁ、最初から期待なんかしてないもん。というか、なんで卵に話しかけてるの、私。


 真っ赤になって顔を上げると、いつの間にか洞窟のすぐ近くまで来ていた。


 さっき脱いだ『格闘系神官の服』は木の下に、きれいにたたんで置いてある。


「着いたよー」ってナギが言うから、リタはあったかい背中から降りた。


『完全獣化』の副作用はまだ残ってて、リタの手足はやや筋肉痛。それでもリタは気をつけの姿勢で、自分をここまで運んでくれたご主人様をまっすぐ見つめる。なんだか照れくさいし、心臓がどきどきしてるのわかるけど、お礼はちゃんと言わないと。


 横でにやにやしてるレギィのことは置いといて、リタは胸を押さえながら、一言。


「ありがとうございました。ご主人様」


 そして深々と一礼。


 獣耳はぴこぴこ、尻尾はぱたぱた。


 獣人の身体が、全身で忠誠と感謝を表してる。


「え、えっと。それから、一緒にお風呂に入ってくれてありがとう。こ、今度から『完全獣化』は気をつけて使うから。身体の筋肉痛も、明日にはよくなってると思うから。それと、それと──」


 まだまだ足りない。ずっとこうして話してたい。


 気づかないうちに尻尾の動きが加速してる。ぱたぱたから、ぶんぶん。自分でも制御できないくらい。


 その勢いはすさまじく、ナギから借りてる下着(上)を、お腹の上まで巻き上げて、腰に巻いてた布なんか、あさっての方向に吹き飛ばして──





「「「──────あ」」」





 ナギ、リタ、レギィの声が重なった。


 最初にそれに気づいたのは誰なのか──下半身がすーすーするリタだったのか、正面に立ってるナギだったのか、隣で「なかなかやるな」って顔してるレギィだったのか……。


 気づくとリタは、身体を抱いてうずくまってた。


 レギィはレギィで「ぐっじょぶ」って親指を立ててるけど、それはナギに言って欲しいセリフ。ナギはやっぱり「しょうがないなぁ」って、リタの大好きなセリフをつぶやいて、木の下に置いてたリタの服を差し出してくれる。


 でも、見たよね。しっかり目に焼き付けてるよね。わかるもん。


 私がどれだけご主人様の視線を目で追ってるか、気づいてないでしょ?


 ナギってば……もぅ。もうもうもうもうもうっ!


「わぅううううううん。もう、『完全獣化』なんか二度と使わないんだからぁあああああ!」


 そんなわけで、どんなすごいスキルを手に入れても、『チートキャラ』になっても。


 ご主人様の側では、甘えんぼのうっかりさん。


 そんな自分を再確認した、リタなのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る