第68話「番外編その4『解放された巫女の願いと、師匠との出会い』」

今回は番外編です。

時系列は前回、第67話の後で、イリス視点のお話になります。


巫女の役目から解放されたイリスが、どんなことをしているかというと……。






──────────────────



「さようならお父様。

 今日までイリスのような化け物を育てていただき、ありがとうございました。

 イリスは愛する方の元へ参ります。巫女の役目もなくなったことですし、もうイリスに用はないでしょう。名残は尽きませんが、どうかお元気で……」


「待て。いや、待ってくれ。お願いだから待ってくれ! 話し合おう。な、イリス。イリス──っ!」


 あら、どうしたのでしょう、お父様?


 ご自慢の椅子にしがみついて、今にも崩れ落ちそうです。


 身体の具合でも悪いのでしょうか?


「は、話がまったく見えないぞイリス。いつの間にそんなことになったのだ?」


「正規兵隊長のダルスさまが説明をされたはずでしょう?」


 イリスがソウマさまたちと、中枢での儀式を終えたのは、一昨日おとといのことでした。


 あの一生忘れることのできないひとときのあと、イリスは町に戻りました。


 すると、町中が大騒ぎになっていました。


 数十年ぶりに、海竜ケルカトルが皆の前に姿を現したからです。


 もっとも、沖にいたせいで、小さな影にしか見えなかったのですけれども。


『祭りの形態を変える』


 町中に響く声で、海竜は言いました。


『詳細は巫女に聞くがよい。次回の祭りより彼女は必要ない。儀式の再演は為された』


 それだけでした。


 さすが神さま。なんてわかりにくいんでしょう。


 おかげでイリスが翌日、正規兵のみなさんをダンジョンまで案内しなければいけなくなりました。2日連続です。ソウマさま──魂のお兄ちゃんなら『働きすぎだー』って、素敵な声でぼやくほどです。イリスもお兄ちゃんと一緒にごろごろしたかったのに。ソウマさまがせっかく『お兄ちゃん』って呼んでもいいって言ってくださったのに……。


 そんなわけで、イリスはダンジョンの最奥についたあと、正規兵の人たちを大広間の外に待たせて、中枢の扉を開けました。


「あらびっくり、こんなところに海竜のメッセージがー」


「な、なんですとーっ!」


 正規兵隊長のダルスが叫びます。ノリのいい方ですね。


 中枢の扉をいっぱいに開けると、裏側を大広間の方から見ることができます。


『プレッシャー』の影響を受けないように廊下にいる正規兵でも、充分に目がよければ、海竜が刻んでいった文章を読むことができるのです。





『海竜ケルカトルが記す。


 今後、巫女を介した祭りは不要。加護は100年保証する。


 巫女が子孫を残さなかった場合、領主が祭りを代行せよ』





「ちっともきづきませんでしたー。で、でも、こんなことができるのは海竜ケルカトルしかー」


「もっともですイリスさま! さっそく領主様に報告を!」


 そう言って隊長のダルスは、すぐにお父様のもとへ部下を走らせたのでした。





 そして、現在にいたります。





「海竜ケルカトルは明確に『巫女による祭りは不要』とおっしゃいました。つまり、イルガファ領主家にイリスは不要ということです」


「だからなぜ! そんなことになったのだと聞いている!!」


 お父様は眉毛をつり上げてさけんでいます。


 仕方ないですね。


 これで納得してくれたなら、話は早かったのですけれど。


「実は、イリスは海竜に訴えたのです。愛する方ができたことを……」


 イリスはまっすぐ、お父様に告げました。


「そして、ここ最近の事件のことも伝えました。イリスが巫女であるために、争いが起きていること。その結果としてお兄さまと侯爵令嬢の事件を誘発してしまったことも。

 すべてイリスの、不徳の致すところです……」


「なにを余計なことを! イリス! お前という奴は!」


 だん、と、お父様が机を叩きました。


「思い上がるのもいい加減にしろ! お前にそんな権利はない! お前は儀式のためだけに生み出されたものだろう!? よくも余計なことを──っ!!」


「ですが、海竜ケルカトルはイリスの気持ちをわかってくださいました。あの文章が証拠です」


「ぐっ!?」


 お父様は苦いものを飲み込んだような顔になります。


 イリスは続けます。


「海竜は直接、儀式のかたちが変わったことを町の者たちに伝えてくださいました。それはお父様も知っているでしょう? 町のみなさんも不思議に思っているはずです。領主家としては、正確な情報を民に伝えるべきだと思いますが」


「それは私が判断することだ。時期を見て、必要な情報だけを……」


「でも、すでに民の間では噂になっているようですよー?」


 イリスは言葉を切って、耳を澄ます動作をします。お父様も思わず真似をしてくださいます。


 窓の外、屋敷の周りで声がしますね。吟遊詩人のようです。綺麗な声で歌っています。





『さても海竜ケルカトルは慈悲深く、苦悩する巫女に新たな道を示されん。


 竜の地位を捨て、愛に生きた海竜の娘のように、


 巫女の地位を捨て、愛に生きよと。


 かように告げた海竜は、扉に言葉を刻まれた。


 その驚くべき言葉を、わが歌に乗せて伝えよう──』





「ど、どこから情報が漏れたのだ!?」


うわさでは、海竜が刻んだ言葉の写しが、吟遊詩人ギルドに出回っているようです」


 お兄ちゃんが「働き過ぎだー」ってぼやいていたのはこのせいです。


 夜のうちに、海竜が残した文章の写しを作って、夜明け前に町中にばらまいたのですから。特に、吟遊詩人ギルドには念入りに。そうそう、冒険者ギルドにもばらまきましたから、今ごろ町の外でもうわさになっているかもしれませんね。


 いいことです。


 あら、正規兵隊長が吟遊詩人を追い払おうとしています。ずいぶん怒っていますね。「そ、そ、そ、そんなで、で、でたらめを流すとは! 許せん(ちら、っとこっちを見ています)。領主さまが許可された後ならともかく!」って。隠し事ができない人ですね。


「海竜は言いました。イリスの愛する人への想いを貫いてみせよ、と。それを『初代儀式の再演』と見なす、と。その証拠に、これをくださったのです」


 イリスはふたたび、お父様に説明を続けます。


 話しながら、気がつくと──首に巻かれている、鱗のついた首輪に触れていました。


 背筋に、ぞくん、と震えが走りました。お兄ちゃんとの繋がりを感じます。


 深いところから、勇気が湧いてくるようです。


「その相手とは誰だ!? イリス!」


「『海竜が認めた者』以外の名前が必要でしょうか」


「私はお前の父だぞ」


「家族が本当に信頼できるものなら、ノイエル=ハフェウメアがイリスをさらおうとするはずはないでしょう? 『情に流されて機会を逃してはいけない』──このことわざを教えてくれたのはお父様では!?」


 ここが正念場です。


 イリスは正面から、お父様を見つめ返します。


 小さい頃から、イリスを見ようとしなかったお父様。


 ノイエル=ハフェウメアのように、イリスを『鱗のある化け物』と呼び、祭りのための道具としてだけ扱ってきた方。


 それが今は、ずいぶんと、怯えていらっしゃいます。


 イリスにでしょうか。それとも、後ろ盾になっている海竜にでしょうか。


「どうしてもと言うなら『契約コントラクト』してくださいますか、お父様。イリスがその方について話す代わりに、その方を傷つけるようなことはしない。許可なく情報を他に漏らしたりしないと」


 ゆっくりと、告げます。一語一句、間違いがないように。


 小さな身体が震えてしまいます。


 どうしてイリスはこんなにちっちゃいのでしょう。


 リタさんやアイネさんくらい大きければ、ひとりでも怯えることなんかないのに。


「イリスが愛するその方は、海竜ケルカトルが認めた方です。もしもお父様がその方を傷つけるようなら、イリスがお父様を海竜の名において罰します!」


「それが領主に言うことか!?」


「儀式についてはイリスに発言権があります。そして、海竜が認めた方のものになるまでが、イリスにとっての儀式です!」


 イリスは『契約のメダリオン』を取り出します。


 お父様も……しぶしぶ、ですが、応じてくださいます。


「イリスは『愛する人』が誰なのかを伝えます。お父様はその方に危害を加えるようなことをしない。許可なく情報を他に漏らさない。彼を束縛しないことを約束する──それでいいですね」


「わかった……『契約』」


「『契約コントラクト』」


 かちん、と、イリスたちはメダリオンを打ち鳴らします。


 イリスは気づかれないように、ほっと一息つきます。


 ここまでの流れについてはソウマさま──お兄ちゃんと打ち合わせをしました。


 お兄ちゃんは問答無用でイリスを受け入れてくださると言ってくださいました。


 けれど、お兄ちゃんの家は隣です。たとえイリスが姿を変えて移り住んだとしても、いつかは領主家の者たちが気づいてしまうでしょう。


 冒険者が巫女をさらい、奴隷にしているなどという話になってしまったら、お兄ちゃんに迷惑がかかります。


 それに、イリスには他の奴隷の方々のような戦闘能力はありません。


 今のままでは足手まといになってしまいます。それでは奴隷失格です。


 なので、決めました。


 イリスは、領主家に残って、お兄ちゃんたちの生活のサポートをします。


 領主家が巫女など必要としなくなってから、改めてお兄ちゃんとの生活に入ります。


 それが、今のイリスにできる精一杯の恩返しでしょう。


 もちろん、お兄ちゃんとの繋がりを維持することは決定済みなのですけどね。


「イリスが愛しているのは、誘拐されかけたイリスを助けてくれた冒険者の方です」


 だからイリスは自信を持って、お父様と向かい合うことができます。


「その方は、祭りの儀式にも同行してくださいました。そして海竜ケルカトルが、その方を認めたのです。イリスとともに、儀式を執り行うことを。そうしてそれが『初代儀式の再演』と認められました。ゆえに、海竜は今後の儀式を不要とされたのです」


「──っ!?」


「つまり、イリスの愛する方は海竜によって『海竜の勇者』として認められた方です。その方に手を出したらどうなるか……お父様ならおわかりでしょう?」


「お、お前は、冒険者などを愛したと? そして、その者もお前に応え、海竜がそれを認めたというのか!?」


「ええ、海竜ケルカトルの目の前で、イリスとあの方は愛を証明いたしました」


「!?」


「あの方は、まっすぐにイリスの(心の)深いところに入ってきてくださいました」


「!!!!????」


「(過去の記憶の)痛みに涙するイリスを、優しく抱きしめてくださいました。あの方がイリスの一番深いところに入ってきてくださるのを感じました。大変でしたけど……最後には、イリスはあの方を受け入れることができたのです。

 恥ずかしい姿を(脳内イメージで)……いっぱい見られてしまいました。生まれたままの姿のイリスも、いけない想いにふけるイリスも。イリスはもう、あの方のものになるしかないのです……」

 イリスはまた、海竜が飾ってくれた首輪に触れています。


 それはまるでイリスの器官のひとつのようです。指をはわせると、お兄ちゃんに抱きしめられているようで、胸の奥がきゅん、と、切なくなります。熱くなる頬を、イリスは押さえます。


「というわけですので、イリスは家を出ます。お父様も、イリスのような化け物がいない方がいいでしょう。巫女の必要もなくなったようですし、家のことはお姉さまと、分家の方にお任せします。さようなら、お父様!」


「待て! 頼むから待ってくれ! この通りだ!!」


 初めて見ました。


 お父様が、イリスに向かって頭を下げています。


「ノイエルの件でこの家は動揺している。この上、お前までいなくなったらイルガファ領主家の権威は失墜する! 正規兵たちも、屋敷のものたちも大騒ぎになるだろう。それに……民になんと説明すればいいのだ!?」


「イリスは、巫女の役目を果たすためだけにここにいたのです。使命が必要なくなった以上、ここにいる必要はありません。それは……これまでお父様が何度もおっしゃったことでしょう?

 イリスの望みはただ、普通の服を着て、大好きな方のそばで生きていくことです。それが許されないなら、イリスはイルガファ領主家を捨てるしかありません!」


「……時間をくれないか。イリス」


 返ってきたのは短い言葉と、長いため息でした。


「ノイエルの代わりを分家から迎え、その者がこの家に落ち着くまで。いや、お前の姉が学園から戻ってくるまででいい。この家にいてくれ……頼む」


「イリスを、歴代巫女のように幽閉ゆうへいするおつもりですか?」


「そんなつもりはない! 海竜がお前とその冒険者を認めたのだろう!? それに、もう巫女が必要なくなったのなら、幽閉に予算をかける必要などないし、おまえたちの邪魔をしたら海竜の加護が……いや、そうではない。巫女を幽閉していたのは過去の話だ! 必要なくなったお前を閉じこめておくつもりはない! 私は海竜の意に背くつもりなどないのだ!」


「では、自由を認めていただけますか?」


 信じられません。お父様が、イリスの提案を受け入れようとしています。


 ……そういえば、お兄ちゃんは言っていましたっけ。


『ブラックな雇い主が一番恐れるのは、力を持つ第三者に相談されることと、こちらが逃げ場を持つことだ』と。その2つを準備しておけば、譲歩を引き出しやすくなる、と。


 その通りになりました。


 さすが、イリスのご主人様です。


「自由に、イリスだとわからないくらい地味な服を着て、外を出歩くことを許していただけますか?」


「……護衛はどうするのだ?」


「イリスが選んだメイドを雇うことにいたします。腕利きの冒険者です」


「……もう、すべて、準備しているのだな」


「海竜の祭りは、かたちを変えたのですよ、お父様」


 イリスの言葉に、お父様はがっくりと肩を落とします。


「お前の望み通りにしよう…………不要となった巫女、イリス=ハフェウメアよ」


 まるで巨大な重荷を背負っているようです。


 それはそうでしょう。


 海竜のメッセージには「巫女が子孫を残さなかった場合、領主が祭りを代行すること」とあるのです。


 今後は巫女と同じ責任を、領主が背負うことになるのですから。


「……せめて……名前くらいは聞かせてくれないか。お前の愛する者の名前を」


「ソウマ=ナギさまです」


 言葉が自然と流れ出ました。


「『ちぃときゃら』を従えた冒険者にして、イリスの『魂のお兄ちゃん』ですよ、お父様」







「お世話になるですー」


 1時間後、イリスの元にメイド姿のエルフさんがやってきました。


 綺麗な桜色の髪に、革の首輪をつけています。ほわほわした優しそうな方です。


 名前は、ラフィリア=グレイスさん。


 ソウマさまが連絡役兼護衛としてつけてくれた、イリスの奴隷仲間です。


「今日からこのお屋敷でお仕事をすることになった、ラフィリア=グレイスですぅ。イリスさまのメイドとして、一生懸命働きますので、お願いするです」


「と、いうのは表向きでしょう? ラフィリアさん」


 ここはイリスの自室ですから、遠慮することはありません。


「ラフィリアさまとイリスは対等です。ふたりとも、お兄ちゃんの奴隷なのですから」


「はい。でも、報酬はイルガファ領主家からもらうので、メイドとしての礼儀は守りますー」


 そう言ってラフィリアさんは笑いました。


 つられて、イリスも笑っていました。


 不思議です。お兄ちゃんの仲間と一緒にいると、すごく落ち着きます。


 まるで年相応の子どもになったみたい。


「あたしはこの役目に自分から志願したのですから。仕事をして、報酬を積み立てて、それでマスターに奴隷から解放していただくのですよ!」


「そうなのですか?」


 てっきりお兄ちゃんの奴隷の方たちは、好きでお兄ちゃんと一緒にいると思ったのですけれど。


「ラフィリアさんも、お兄ちゃんをおしたいしているのでは?」


「はい。ですから、なんやかんや理由をつけて、再び主従契約してもらうのですっ!」


 ……はい?


 なんでしょう。それはすごい二度手間というか苦労というか。


 ラフィリアさんが目を閉じて背筋を震わせているのは、どうしてなのでしょう?


「マスターと主従契約することは、ラフィリアにとって無上のよろこびなのです。あのときの感覚は忘れられません。ラフィリアの奥深くから心地よい振動がわきあがってきて……頭が真っ白になってしまいました……確信したのです。ラフィリアはマスターのものになるために生まれてきたのですぅ…………」


 うっとりと語るラフィリアさんを見ていると……なんだかどきどきしてきました。


 すごいです。これが大人の女性というものなのでしょうか。


 ラフィリアさん、胸は大きいですし、肌は真っ白ですし、とても綺麗。やっぱり、お兄ちゃんに愛されるためには、これくらい大人でないと駄目なのでしょうか……。


「なんだかラフィリアさんに申し訳ありません……。そこまでお兄ちゃんをおもっていらっしゃるのに、イリスのメイドになっていただくなんて」


「マスターといつも一緒にいたいと思ううちは、おこちゃまなのです」


 ちっちっちっ、と、ラフィリアさんは指を振ります。


「なかなか会えない相手ほど、想いは強くなるものなのですよぅ」


「大人なのですねぇ」


「これを俗に『放置プレイ』と言うのです!」


「大人すぎませんでしょうか!?」


 いえ、意味はよくわかりませんけど。


 くねくねしてるラフィリアさんを見てると、いけないことのような気がしてまいります。


「それで、イリスさまはマスターの奴隷であることを隠しているのです?」


「はい。海竜ケルカトルが、そのように首輪を飾ってくださったので」


「いいですねぇ。うらやましいです」


「はい。イリスも海竜ケルカトルに感謝しています。お兄ちゃんに迷惑をかけずに、こうして普通にしていられるのですから」


「そうですねぇ。

『みんなに尊敬されている領主の娘が実は奴隷。すまし顔しているけれど身も心もご主人様のもの。心の中ではご主人様に寵愛ちょうあいされるときのことを想像してよろこびにひたっている』というのは、とても素敵なシチュエーションだと思うのですぅ」


「ひたってませーん! そんなことしてませんからーっ!」


 イリスは妄想が趣味ですけれど! お兄ちゃんにいっぱいいけない妄想を送ってしまいましたけど!


 けれども奴隷仲間のラフィリアさんは、小さく「ますたぁ。すきすきすき」とつぶやいています。お兄ちゃんのことを考えているようです。離れていてもいつもお兄ちゃんが隣にいるかのように。


 これが大人ということなのでしょうか。


 考えてみれば、エルフは人間よりも長寿命。ということは、ラフィリアさんはイリスでは想像もつかないほど人生経験が豊富なはずです。


 ……この方からは、色々学ぶことがありそうですね。


「気を取り直して、これからのことですぅ」


「はい」


 お互い、真面目な顔になります。


 ここはこれから、お兄ちゃんを助けるための拠点となるのです。


 だから、イリスがしっかりしないと。


「あたしはこのままイリスさまのメイドとして、護衛と、マスターとの連絡役を務めるです」


 ラフィリアさんは、すっ、と手を差し出してきます。


 イリスはその手を、ぐっ、と握りしめます。


「イリスは、領主家が落ち着くまでここで暮らすと、お父様に約束しました」


 もちろん、お兄ちゃんがイルガファを出て行くなら、問答無用でついていきますけどね?


「自由に外に出られるようになりましたから、その時の護衛をラフィリアさんにお願いすることになります。他には、お兄ちゃんたちがこの町で平和に暮らせるように、町の情報や、クエストの情報などをお伝えする役目を果たします」


 本当なら、イリスに領主家の予算が動かせればいいのですけれど。


 祭り関係以外では、イリスにそこまでの権限はありません。


 まぁ、領主家の仕事もこのまま手伝うことになっていますから、少しずつ、お兄ちゃんの有利になるように物事を動かしていくつもりではありますけど。


「それで、マスターからのお願いについてですが……『彼女』の件はどうなったですか?」


 ラフィリアさんの口調が真剣なものになります。


「牢獄の見張りの交替時間にちょっと細工して、15分の空白を作りました」


 イリスは答えます。これは、とても重要なことですから。


「では、マスターたちが動くのはその間ですぅ」


「『彼女』は明後日には魔法研究都市の牢獄に送られます。接触するのはそれまでに」


「了解したです。あとでマスターと打ち合わせをしましょう」


『あとで』……素敵な言葉です。


 イリスはもう、自由に屋敷を出られるのです。


 目の前が、ぱぁ、と開けたような気分です。こんなの、はじめて。


 巫女だったことは、イリスには辛いことばかりでしたけど。


 巫女でなければ、お兄ちゃんに──ソウマさまに出会えなかった……。


 それだけは、海竜に心から感謝したいです。


「……それでは、ラフィリアさんにお願いがあります」


 さて、これからは普通の女の子として──


「奴隷の先輩として、お兄ちゃんの好みの服を教えていただけませんか?」


 イリスはクローゼットを開けました。


 服は、そんなに持ってはいません。儀式用・外出用のドレスが数着と、あとは部屋着くらい。


 外出は基本的にはお忍びということになりますから、ドレスを着ていくわけにはいきません。目立ちすぎです。


 ここはお兄ちゃんの前に出ても失礼にならないような服を──できれば「かわいい」って言ってくれるようなものを──奴隷の先輩であるラフィリアさんに、選んでもらうべきでしょう。


「……ちがうです。順番が間違っているのです。イリスさま」


 けれど、ラフィリアさんは首を横に振りました。


 厳しい顔をして、イリスを見つめています。


 まさか……イリスは……なにかとんでもない間違いを……?


「服から選ぶなどというのはなまっちょろいのです。選ぶべきはまず、下着からなのです!」


「!?」


「奴隷たるもの、すべてをマスターにゆだねる覚悟が必要です。また、人前で下着を脱ぐことがあるかもしれないですぅ。その時にみっともない下着をつけていたら、マスターに恥をかかせることになってしまうです!」


「そんな!? お兄ちゃんが人前で奴隷の下着を脱がせるなんてこと──」


 ……ありましたねー。


『神命騎士団』にダンジョンで襲われた時、目の前のラフィリアさんはためらいなく下着を脱いで、スライムに食べさせていました。


 そうでした。


 ラフィリアさんは、それだけの覚悟を持ってお兄ちゃんの奴隷をやっているのです。


「……ラフィリア=グレイスさん……なんてすごい……」


 弓の達人で、スライム使いで、勇気もあって、おっぱいもたゆんたゆん──いえ、それはどうでもいいのですけれど。


 そんな方が、イリスを助けてくださるなんて……。


師匠ししょうとお呼びしてもいいでしょうか……?」


 イリスは、思わずつぶやいていました。


「お願いですラフィリアさん。お兄ちゃんのために働けるように、イリスを導いてください!」


「いやぁ照れるですねぇ」


 真っ赤な顔でほっぺたを押さえるラフィリアさん。


 イリスはいつも学んできました。巫女としての知識も、海竜の伝説のことも、策謀も、会計学も、経営学も。学ぶことは得意です。この方からも、きっと学べることがあるはずです。


「わかりました! イリスさまがマスターの立派な奴隷となれるように、ラフィリアが責任をもって指導するです!」


「はい、お願いします!」


「ではまず下着からですが……こんなこともあろうかと、アイネさま秘蔵ひぞうの『しょうぶしたぎ』を借りてきたのです。フリーサイズですので、これをイリスさまに……」


 どきどきします。


 まるで、新しい世界が開けていくようです。


 瞳を輝かせたラフィリアさんの説明に、イリスは真剣に耳を傾けるのでした。







 そして──


「遊びに来ました! お兄ちゃ──いえ、ご主人様!」


 イリスはソウマさまの家をたずねます。


 お兄ちゃんはリビングで本を読んでいました。ちょうどアイネさんがお昼ごはんを準備したところで、セシルさん、リタさんも手伝っています。


 イリスも手伝おうとしますが「大丈夫なの。イリスさんは、なぁくんとお話してて」と言われました。お客様あつかいは「ぷんすか」ですが、ここはお言葉にしたがいましょう。お兄ちゃんにお話することもありますからね。


「お邪魔します、お兄ちゃん」


 イリスは椅子に座っているお兄ちゃんにお辞儀します。


 つっかえずに言えました。


 お兄ちゃんを見た瞬間に、胸がきゅん、となってしまったので、うまく言えるか心配でしたけど。ほっとします。胸を押さえてため息をつきます。顔が赤くなってるのが自分でもわかります。


 ……お兄ちゃんに気づかれてしまったでしょうか。


「いらっしゃい、イリス」


 お兄ちゃんが隣の椅子をすすめてくれるので腰掛けます。


 リビングの壁際にはお兄ちゃんの黒い剣と、革のよろいが置いてあります。今日はクエストの予定はないって聞いていますけど、どうしたのでしょう?


「領主さんから許しをもらったみたいで、よかった」


「はい。ソウマさま。それで、報告なのですけれど──」


 話すことはたくさんあります。


 まずは『彼女』についての情報から。『彼女』が魔法研究都市に移送されること。会えるように手はずを整えたこと。それから……。


 話すことがいっぱいで、頭が真っ白です。


 お父様のことを話しましょうか。どんなふうに許しを得たか。 


 それとも、イリスがお兄ちゃんの生活をサポートすることを話しましょうか?


 あとは、『しょうぶしたぎ』が意外とすーすーすることもお伝えしておかないと。


 それから、それから──


「ごはんができたのー」


「イリスさんも食べていってください」


「リタお姉ちゃんの膝の上に座ってもいいのよ?」


「師匠たるあたしの膝の上でもいいですよぅ?」


 ──でも、その前にごはんにしましょう。


 セシルさん、リタさん、アイネさんに師匠。もちろん、お兄ちゃんも一緒に。


 そういえば、好きな人と食卓を囲むなんてはじめてでした。


 不思議ですね。お兄ちゃんと一緒にいると、イリスははじめてがいっぱいです。


「で、領主さんの反応は? ラフィリアとはうまくやっていけそう?」


 お兄ちゃんの言葉に、イリスはなぜか真っ赤になってしまいます。


 海竜に、願っておけばよかったですね。


 ソウマ=ナギさまと、ずっと一緒にいられるように。


 ちゃんと、いつでも、想いを伝えられるように──。


「はい。ラフィリアさんはイリスの師匠になってくださいました」


「ですぅ!」


 ラフィリアさんと顔を見合わせて、笑います。


 これからラフィリアさんにいろいろな事を教えてもらって、お兄ちゃんのこともたくさん知って、役に立てるように頑張って──いつか、お兄ちゃんと……。


 でも、それはまだ先のお話。


 いまは、優しい仲間のひとたちがいて、大好きなお兄ちゃん──ご主人様がいて。


 それだけでイリスは充分です。


 ──ありがとうございました。海竜ケルカトル。


 遠い海を回遊しているはずの守り神──遠いご先祖様に、イリスは今日も祈ります。


 イリスを、ソウマさまのものにしてくれたことへのお礼と──


 こんな日が、ずっと続きますように……って。




 イリスがお兄ちゃんのとなりで願うことなんて、それだけなのですから。

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