六章 相談
「ごめん。日記は書かないようにしてるんだ」
大学に入って初めて付き合った彼は私の反応に残念そうに、お揃いで買った日記帳をカバンに仕舞った。
毎日日記を書いて、それを会った時に交換しよう。
そんな初々しくも痛々しい提案をしてきた彼とはそれほど長くは続かなかった。
告白されたから一応付き合ったけど、痛々しい所以外、あまり魅力があった人でもなかった。
けれど、別れる時次に彼が付き合う人があの交換日誌に応じてくれる人ならと願った事だけは何故か鮮明に覚えている。
「琴音さん聞いてます?」
関さんは私の目の前でシックな手帳を振った。
「……うん。聞いてるよ」
「本当ですかぁ?」
彼女は手帳を広げる。
彼女のキャラクターにあるまじき、しっかりと書き込まれたものだった。
週ごとに几帳面に予定やあった事が色分けされ書かれている。
「それで、誰かに見られているように感じたのが、この印をしてる日で……」
先日行われた誠治の歓迎会、その時彼女が不意に口走った「相談」が本日のメインテーマだった。
場所はいつもの喫茶店。またも半休を取ったという彼女と平日の昼下がりに待ち合わせて二人だけのお茶会だった。
彼女は可愛らしいパンケーキをフォークでつついている。
手帳を見る限り、彼女がその被害に気付いたのは九月末から。
まだ一月も経っていないのに、彼女の手帳に書かれた印は十を超えていた。
「これって、絶対気のせいじゃないよ」
「琴音さんもそう思います?」
「警察とかには行った?」
「一応行きましたけど、ああいうとこって何か証拠とかないと動かないですよ」
自分の事と言うのに、彼女はどこか他人事のようだった。
「犯人の心当たりとかないの?」
「うーん」
「昔付き合ってた人とか」
「元彼たちって線はないと思うんですよねぇ。別れるの上手いんですよ私」
自慢にならなそうな事を自慢げに彼女は言う。
「会社帰り、誠治に送ってもらうようにお願いしようか?」
「えー、悪いですよ。大川さんにはそれじゃなくても迷惑かけてますし」
誠治が彼女の言葉を聞いたら、迷惑をかけている自覚があったのかと驚くだろう。
「羽美ちゃんの事が心配だし。誠治には私から言っておくから」
「琴音さん本当に優しいですね」
彼女は小さく分けたパンケーキの上にフルーツと生クリームを綺麗に盛り付け、それを口に運んだ。
もぐもぐとパンケーキを咀嚼し、お冷やを少し飲み、ナプキンで口元を軽く拭く。
一連の所作は手慣れたもので、そういう女の子らしい可愛さがとても似合っていた。
一息吐いた彼女は、手帳を手提げに仕舞う。
「でも、いいですよ。流石に悪いです」
「誠治ならきっと普通に引き受けてくれると思うけど」
「琴音さんが大川さんを信頼してるのはわかるんですけど、そういうのって事情を知らない人が見たら良くないって思うんですよねぇ」
確かに、彼女の言うことも一理あった。
世間一般的に考えたら、年の近い既婚の男性と独身の女性が一緒に帰ると言うのは、あまりいい見方はされないだろう。
「っていうか、私の事が気になって後を追うくらいなら話しかけてくれって感じじゃないです?」
納得したのもつかの間、彼女は声のトーンを変えて、茶化すように言った。
「今ちょうどフリーだし、条件次第じゃ普通に付き合ってもいいかなぁって」
「ストーカーと付き合うの?」
「条件次第ですよ。最近、出会いもあんまりないし、好かれてるならいいかなぁって」
どこまで本心かわからないけど、彼女なら本当にそうしてしまいそうな気もした。
「ストーカーは辞めた方がいいと思うけど……ほら、付き合うならあの中原さんとか」
曖昧な記憶を頼りに、先日の会で辛うじて顔と名前の一致した人物を挙げてみる。
「えー、あの人はないですよ。そもそも社内恋愛とか面倒ですし」
彼女は残ったパンケーキを切り分けはじめた。
「なにより、一軒家既に持ってるとか、めっちゃ重くないですか?」
「安定してそうでいいと思うけど」
いつの間にか彼女の相談は恋バナへと変わっている。
「琴音さん結婚してるからそう思うんですよ。だって、家があったら他の所に行くって選択肢がなくなっちゃうじゃないですか、ずっとここで生きていくって決められるみたいで私は嫌だなぁ」
「上京したいとか?」
「そんな真剣に考えてないですけど、でも、選択肢は多い方がよくないです?」
「選択肢かぁ、あんまり考えた事ないかな」
誠治と結婚して、私の人生の選択肢は少なくなったのだろうか?
「異動するって時に付いて行くって、結構大きな選択じゃないです?」
「うーん。誠治とは結婚するんだろうなぁって思ってたし、なんかタイミングも丁度良かったから」
「いいなぁ。運命って感じ。私もそんな人と出会いたいですよぉ」
こうなると会話はある程度の定型を描きはじめ、彼女の恋愛遍歴やいかにモテないか、男運が悪いかという話に私は適度に相槌を打つだけになる。
暇になった私の頭はいつの間にか記憶の再生をはじめていた。
「やっぱり、僕たち別れた方がいいと思う」
最後のデートの日、彼は別れ際そう切り出した。
「今井さん、僕の事好きじゃないでしょ」
私はなにも言わなかったと思う。事実だったから。
「今日だってあんまり楽しそうじゃなかったし、未だに僕たち苗字で呼び合ってるし」
彼の名前は思い出せない。
「それに、日記だってさ」
「日記?」
意外な言葉に、私は聞き返す。
「書いてくれなかったから」
もし、私が日記を書くという選択を取っていたら、彼と続いたのだろうか?
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、そう考えると、私の選択肢は誠治と結婚する前、あの夏に決まってしまったのではないかとすら思えた。
私が日記を書かなくなったのは、あの夏のせいだったから。
「酷いと思いません?」
「そうだね」
「ですよねぇ」
私の適当な相槌に彼女は満足そうに頷いた。
このところ、よく昔のことを思い出す。
あの夏に限らず、これまで忘れていた小さな事を色々と。
心当たる理由は一つ。
日記帳を読んでいるから。
日記を書かない理由を、これまで、あの夏の苦い思い出のせいだと思っていた。
なにも知らず記した拙い文字達が、その無知のまま私に牙を剥いたあの日。
しかし、こう度々やってくる思い出の波に溺れるようにして思うのは、私は過去を顧みない為に日記を書かなかったのかもしれないと言うことだった。
そして、今日も私は日記を捲る。
書かなければ忘れてしまえていたのかも知れない記憶を捲る。
『八月四日 晴れ
今日はみんなで図書館に行った。
話をするには不便だったけど、小声で囁き合うのって秘密の話をしているみたいで面白かった。
文ちゃんたちに勧められた本を何冊か借りてみた。
今年は読書感想文に困らなくてよさそう。』
毎日少しずつ読み進めた日記は遂に八月に突入していた。
うだるような暑さの中、陽炎立つアスファルトの道を自転車を押して歩いている私たち。
風は吹いても、その中に涼しさは感じず、和泉君が何度目か知らない「暑いねぇ」を口走る。
そうして辿り着いた図書館の空調は控え目で、下敷きを団扇にして汗が引くまでロビーのソファーを私たちは占領していた。
築何十年かわからない、古い市立図書館だった。
夏休みの学生がまばらに居て、その中で私たちは小声でなにか話し合う。
今年の夏、気まぐれに行った図書館は既に廃館となっていて、街の中心に倍以上の規模の真新しい現代的な図書館として生まれ変わっていた。
私はそれに寂しさすら覚えなかった事を思い出す。
古い図書館になんの思い出もないと感じていたから。
そして、今更、新しくなってしまった図書館に少しばかりの寂しさを覚えた。
明るく、綺麗で、空調がよく効いていて、夏休みの子供たちでごった返している真新しい図書館ではなく、少し薄暗く、壁に所々ひびが入っていて、あまり空調の効かない古い図書館。
そここそが、私の過ごした図書館だったと。
その時借りた本の名前すら思い出せないのに、その時話した事すら思い出せないのに、背の高い書架の間をまるで隠れんぼのように歩き、隙間から見える彼の姿をそれとなく追った事だけがありありと思い出された。
非日常のどきどきと、足音さえ響きそうな異常に静かな空間。
ささやき声で話す言葉はそれだけで特別のような気がした。
あの夏はどこを切り取っても、今の私には眩しすぎる程の青春で満たされていた。
最後の一頁を除いて。
「ただいま」
誠治の声が私を十年後の晩秋へと連れ戻す。
「おかえり」
時計を見るといつもより三十分ほど遅い帰宅だった。
「なにかあったの?」
「仕事が少し立て込んでてさ」
息苦しそうなシャツを脱ぎながら、誠治は首を鳴らす。
「そっか、お疲れ様」
私たちは家で仕事の話はそんなにしない。
ルールを決めたわけじゃないけど、二人とも働いている時は、どちらも大変って事がわかっていて、暗黙の内にそういう話題は避けていた。
「今日関さん半休取ってたけど大丈夫だったの?」
「まぁなんとか」
だから、私が切り出した話題に誠治は少しだけ驚いた顔をして、曖昧に暈かす。
誠治は優しい人だから嘘を吐くのは苦手だ。
きっと今日の三十分は彼女が抜けた穴を埋めるためのものだったのだろう。
「そっか」
だからと言って、誠治は彼女を責めたりしない事を知っている。
それは他の誰に対しても同じである事も。
だから、話を切り出すか少し悩んだ。
「もしかして今日も一緒に居たのか」
私の言葉から勘付いた誠治が「仲いいなぁ」と軽く笑う。
「うん。それで相談受けたんだけどね……」
彼女が望んだ通りに、もしくは望まなかった通りに、私は誠治にそれを伝える。
彼女がなぜ私に相談したのか。
行動の裏を考えたりするのは苦手で、だから、これが正しいのかどうなのかはわからなかった。
「そっか、俺も気をつけてみるよ」
私の話を聞いた誠治は真面目な顔で頷く。
「ごめんね、仕事から帰ってすぐにこんな話で」
「いや、むしろ有り難いよ。彼女も直接職場の人間にこういう話はしにくいだろうし、琴音が仲良くなってくれて助かる」
誠治は文句も言わず、いつもより既に一時間近く遅くなってしまったお風呂へと向かった。
その姿を見届けて、テーブルの上に出しっぱなしだった日記帳を片付ける。
一人の時ならまだしも、誠治と過ごすこの部屋で日記帳は異物に見えた。
誠治がお風呂から上がってくる時間を計算しながら、予め作って置いた料理を温める。
今日の料理は肉じゃが。
よく食べる誠治の為に、鍋ごと食卓に運ぶ。
「いいお湯だった」
いつも必ず言うセリフを誠治が言う。
それを証明するように、肌着姿の誠治からは湯気が立っていた。
「おっ、肉じゃがか、いいね」
そして、いつものように晩ご飯が始まる。
大盛りのご飯を、山を切り崩すようにして食べる誠治を見ると、同じ生き物なのかと少し疑わしくなる。
私は小食で、なんなら、おかずだけでお腹がいっぱいになる程なのに。
「琴音、最近料理上手くなったよな」
不意に、誠治はそんな事を言う。
「そうかな?」
「そうだよ、今日の肉じゃがなんて今までで一番美味いぞ」
よく褒めてくれる誠治だけど、ここまでの大絶賛は珍しい。
「お腹空いてただけじゃない?」
「空腹は最高の調味料ってヤツか? まぁ腹は空いてたけど、それでも美味しいよ。いつもありがとうな」
「どういたしまして」
ふと、こんな日の出来事なら日記に書いてもいいような気がした。
誠治との日々は、あの夏のように私に牙を剥くことはないだろうから。
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
日々は順調に過ぎていき、気温は順調に下がっていく。
いつの間にか、今月も最終日となっていた。
「あと一枚毛布買ってもいい?」
朝ご飯を食べる誠治に相談してみる。
家計に関しては私に任されてはいるけど、二人のお金だ。
今月から私の自動車学校の為の貯金もはじめたので、生活費も考えると自由に使えるお金の範囲は限られている。
「いいと思うぞ。週末にでも買いに行くか? それまで大丈夫か?」
「無理なら誠治に抱きついて耐えるから」
「このくらいの気温ならそれもいいかもしれないな。琴音寒がりだもんな」
「誠治が暑がりなんだよ」
つい二日前まで誠治は毛布すら被らず、夏用のタオルケットだけで寝ていた。
「それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
そうして、今日も一日がはじまる。
「あら、こんにちわ」
一通りの家事を終わらせて、外に出たタイミングで藤井さんと鉢合わせた。
「こんにちわ」
「いいお天気ね」
「はい。このくらいの気温が丁度いいですね」
「そうねぇ」
なんてことない世間話。
彼女の話題はワイドショーで最近騒がれている政治の話。
聞きかじったような話題で、「ちゃんとして欲しいわよね」と熱心に彼女は語る。
結論が出るわけでもなく、それに詳しいわけでもなく、とりとめもなく、私は藤井さんの言葉に「そうですね」と返事をするだけ。
これが井戸端会議と言うものなのかもしれない。
ともすれば、少しだけ大人の段階が上がったように感じた。
こんな事で上がる大人の段階ってなんだろう、とも思ったけど。
「そう言えば、お宅の旦那さん」
ふと、話題が変わる。
「はい」
ここまでの藤井さんの話から、よからぬ話題が出るのではないかと一瞬身構えた。
「いい人ねぇ」
「えっ」
「すれ違う度に、ちゃんと挨拶してくれるし、爽やかでいいわ」
「……ありがとうございます」
不意打ちのような褒め言葉に、反応が少し遅れる。
「それに、ほら、身体が大きいから、これからの季節活躍してくれそうよね」
「雪かきですよね」
「期待してるわよ」
「はい。伝えておきますね」
なんてことない世間話。
藤井さんは大きな身体を揺らして去って行く。
一瞬身構えるもなにも、誠治によからぬ話題があるはずもないと、後になって気付いた。
あのどこでも、どこまでも、優しい彼が。
「誠治って、どうしてそんなに優しいの?」
付き合って、半年が過ぎた頃、私は一度聞いたことがある。
なんとなく同棲の話が出始めた頃でもあった。
一緒に暮らしはじめたら、彼が豹変するのではないかと、そんな不安込みの質問だった。
今となっては完全に杞憂だとわかるけど。
「優しいか、俺?」
私の質問に誠治は不思議そうな顔をした。
「これまで会った人の中で一番優しいと思うけど」
そして、その認識は結婚した今でも変わっていない。
「そうか?」
それでも、誠治は納得しないようだった。
注文を間違えた店員にも、強引に割り込みしてきた車にも、重大なミスを犯した後輩にも、待ち合わせに遅れて来た私にも、彼は怒らず、それを受け入れ、適切に対処をする。
甘いってわけでもなく、常に冷静ってわけでもない。
誠治を表すとき、誰もが使う言葉が「優しい」だった。
「優しいよ」
「琴音が言うならそうなのかもな」
「なにそれ?」
「優しいかどうかなんて、自分じゃわかんないって、俺は自分が後悔しないように生きてるだけだからさ」
「なんか哲学みたいだね」
「おっ、そう言うとなんか格好いいな。後悔しない人生哲学」
「自己啓発本にありそうなタイトル」
「確かに」
思い返すと、誠治はなにかを誤魔化しているようにも感じた。
彼のやり方で優しく。
そして、これは私の突き止めたい謎の一つになった。
同棲して、結婚して、彼と過ごす時間が長くなってもその謎は一向に解けない。
誠治の優しさが一向に変わらないのと同じように。
今晩は寒くなるらしい。
この世で一番優しい抱き枕に甘える事にしよう。
夕食の準備をしていると、玄関の開く音がした。
不思議に思って、玄関を見ると、誠治が居た。
普段の帰宅時間から考えると随分早い。
「あれ? 早いね」
声をかけて、その様子がおかしいことに気付く。
「どうしたの?」
いつもは「ただいま」と明るく言って、息苦しそうなシャツを脱ぐ彼が、玄関で立ち尽くしていた。
今まで見た事のないような暗い表情で。
「……喪服ってあったか?」
ようやく口を開いた誠治はやっとそれだけ言った。
「誰か亡くなったの?」
「……」
「誠治のは確かあったはず」
「……」
「私のも必要になる?」
「……琴音は来ない方がいい」
「私の知らない人?」
「…………」
誠治は俯いていた顔を上げた。
ゆらりと、誠治の巨躯が頼りなさげに揺れ、次の瞬間私を抱きしめる。
いつもはどうしようもなく大きく思える誠治が、とても小さく思えた。
「大丈夫?」
泣いてはいないけど、堪えるように、誠治は息を止めていた。
「琴音、落ち着いて聞いてくれ」
やがて、息を吐いた誠治は私を離し、視線を合わせる。
とても悲しそうな、辛そうな、そして優しい目だった。
誠治の口がゆっくりと開く。
唇が少し震えていた。
言葉を喉の奥から絞り出そうとしているのがわかった。
そして、それに苦労しているのが伝わる。
誠治が言おうとしている言葉が、なぜかわかったきがした。
「……関さんが死んだ」
だから、その言葉を聞いても、それほど驚かなかったのだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます