第6話 アジサイの森(2013お題:紫陽花・水溜り)


 アジサイがお辞儀して、花弁から溜まった滴は降り注ぐ。

 かき分け、彼を追って分け入れば、体はすぐにもびしょ濡れになった。

 アジサイの森は独特の匂いで満たされている。薔薇や百合とは違った、青い香りだ。まるで雨の匂いだと思い起こす。

 なら泣けと囁かれているようで歯を食いしばった。

 どこへ行きたいかと彼がたずねたのは、何もこちらの意思を確かめたかったからではない。そのチャンスを与えてやろう、と彼は提案しただけだった。だが気づいた時にはもう遅く、彼は尖った靴先をこの森へ向け姿をくらましている。どうしてすぐに彼女に会わせてくれと言えなかったのか、間抜けた自分が許せない。

 もう一押し、入道雲のようにひときわ背の高いアジサイをかき分け、その下をくぐり抜けた。開ける視界に地平線は横たわって、手入れしたばかりのような草原が突如と目の前に青々広がる。

 上を風は撫で渡っていた。

 だがその果てまで、彼の姿を見つけることこそできない。

 諦めるしかない。

 と、思う。

 ままに一歩、踏み出した。

 聞こえた音にうつむけば、靴先が水溜りを踏んでいる。今にも泣き出しそうな顔はそこに映るとあやして手を振り、水溜りもゆるくそよいでみせた。ならなおさら悲しくなって目を閉じる。涙は一粒、絞り出したようにそこからこぼれて、靴先で弾けたそのときアジサイの森は揺れていた。揺れて「およし」と囁きかける。空も「かわいそうに」と嘆息した。慰めぐうん、と空から風は吹きつけて、その出所を示して雲も裂けてゆく。

 大きな何かは、やがてそこからぬう、と姿を現した。

 滴だ。

 空の涙か。

 そこに景色は逆さと映り込んで、ままに草原へ落ちてくる。上で重みにゆったりたわむと、弾けて四方へ飛び散った。

 その大雨のような飛沫に身を叩かれる。アジサイもかぶってばたばた音を立てた。果てに草原の真ん中に大きな水たまりは出来上がって、目を見張る。

 けれど驚かされたのはその光景に、ではないだろう。何しろ水たまりの真ん中に立っているのは彼女だ。信じるかどうかは常にゆだねられていて、なら消えぬ前にと信じて彼女へ走り出す。広げた両手で抱きしめた。その体はびしょ濡れだったけれど、彼女も同じでびしょ濡れなのだからお互い様というものだ。

 そんな体を預け合い、大きく息を吸い込んでゆく。雨の匂いはしない。重く頭を揺すってうなずくアジサイが、その香りが、抜けてきた森のように僕らをそっと包み込んでいた。

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