第5話 時(2013お題:時)
それは怖い思いをしたね。
言って彼は指先で支えていたアゴを持ち上げた。テーブルの上には琥珀色の液体。いや、この部屋全てがそんな色だろうか。
それで君は、どちらへ行きたいのかな。
問いかけてくる。
どちらへ? 頭の中で繰り返して、彼がどんな選択枝を指しているのか見当がつかず目を凝らした。
前で彼は琥珀色の液体が入るグラスつまみ上げている。くい、と音が聞こえてきそうな間合いで飲んで、残りをグラスごと床へ叩きつけた。組み替えた足がこちらへ向けなおされる。磨き上げられた靴先はただそれだけで刃物のような光を放ってみせた。
大事にしなよ。
突きつけられて体を強張らせる。
足がないのに、選ばせてやろうって言ってるんだよ。
そんな靴が欲しいとしばし眺めて、確かに履かせる足は潰されてしまったことに気づく。そう、刻めない距離に何を大事にしろ、というのか。
これはぼくのポリシーなんだ。大事にしない奴は置き去りにするよ。
言う彼の指は、またつまむものをなくしてけだるそうにアゴを支えなおしてみせた。そんな彼が見せ付ける忍耐は、おおよそ他の言う忍耐の域には達していない。
具体的に教えてもらわないと選べないよ。
慌てふためき訴えるが、彼は飲みそびれた二口目をもう通りがかりのウェイトレスへ、愛想良さげと頼んでいた。その顔が向けなおされたとして、事細かに挙げて言い含める気はないらしい。証拠に、ついさっきの言い分を物珍しげと眺めてその後、閉じたまぶたへ祈りを捧げるような白さを滲ませる。
開いたところでウェイトレスが置いて行った新しいグラスをさらった。
まあ、一杯やってゆっくりしなよ。
含まずそれを押し出し笑う。
そのとき絡めていた足は振り回すように解かれて、刃物のような靴もまた目の前から失せていった。そうして席を立った彼の仕草は芝居がかっていて、体の前へ回した腕でうやうやしくも頭を下げる。それはまるでショーの終わりを告げる挨拶のようで、きびすを返し右、左と、立ち去る靴音を規則正しく鳴り響かせた。
そのとき確かと時は過ぎ、残された琥珀色の液体を前に初めてそうかと気づかされる。
僕はチャンスを逃したらしい。
そして二度と、その時は帰ってこない。
もう二度と、戻って来はしない。
大事にしなよ。
彼は言い。
僕にはまだ、その靴は似合いそうにないと思う。
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