一章 愚かな男の或る一日

ジョバンニの後悔 1

 目を覚ましたラットが1番はじめに理解したのは失敗した、ということだった。そして、床に敷かれたブルーシートと、パイプ椅子に縛り付けられて動かすことの出来ない手足によって、これから自身を襲うであろう状況を予想させられて思わず溜息が漏れた。


 裏社会で生きる人間を相手に商売をしているラットにとって、このような危険な状況は付きものだった。さほど珍しい状況でもないため、慣れているといえば慣れているが、今回は大きな勢力を持った相手を敵に回したという点がいつもと違う部分だった。侮っていたわけではないが、準備不足であったのは否めない。


 頭痛が酷かった。おそらく、意識を失う前に頭を殴られたことが原因だろう。

 同時に、頭の中でノイズ混じりの女の声が響き、ラットの脳内を揺さぶった。


『あ、繋がった。7200秒ほど信号が途切れてたわよ……時間にして2時間ね。接続に問題もなし。それにしても、久しぶりにトチっちゃったわね。原因はねー、私はクライアントとの意思疎通不足だと思うわ。仕事は選べないったって2つ返事で引き受ける仕事とそうじゃないものはちゃんと判断した方がいいって私いつも言ってるじゃない。や、百歩譲ってあなただけが危ないなら別にいいのよ。でもあなたと私は繋がってるんだからそうもいかないでしょ? というか、私の「本体」はどうなってるの? どこ? 私のシステムに問題が無いから無事でしょうけど、心配になるわねあなた——』


「……五月蠅い」


 ぼそりとラットが脳内でまくしたてる女の声に返事をした瞬間、束ねた長髪を掴まれ、上を向かされる。頭皮を引っ張られる痛みと共に、視界に配管や鉄骨がむき出しになった天井が飛び込んできた。


「よお、目ぇ覚めたかネズミ野郎が」


 派手な柄シャツと黒いスーツに身を包んだ厳つい男が吐き捨てるように言うと、ラットの顔をのぞき込んだ。

 ラットはこの男の顔に見覚えはなかったが、状況的に自分をここに連れてきた組織の構成員だろうと予想する。


『ひどぉい! 私はあなたのことを心配してたのに……悲しいわ……』


 ラットの状態も、柄シャツ男の存在にも興味が無い様子で女の声はわざとらしく悲しんでみせた。ラットの脳に直接接続された人工知能である彼女は、度々感情があるかのように振る舞う。

 そして、それがラットにとっては不快でしかたがなかった。


「白々しい。それよりクライアントの状況」


『それがねー、追跡切れちゃって私も把握できてないのよねぇ。まあ逃走ルートはもう送信済みだし、大丈夫じゃなくて?』


「……生存が確認できないと報酬が出ない」


「お前1人でべらべら何喋ってんだ」


 ラットの髪を掴んだまま、柄シャツ男が眉をひそめる。気味が悪ぃ、と呟くが、ラットはそれにも反応を示さなかった。

 女の声が聞こえない男からすれば、ラットが独り言を言っているようにしか見えない。


『この状況、お金の心配してる場合じゃないわよ、呆れるわね』


「今の状態だと損しか出ない」


『命の危機だから損なんてレベルではないと思うのだけれど』


 女がため息をついたと同時に、ラットの腹を柄シャツ男が蹴り飛ばした。身体の自由を奪われているラットは、そのまま椅子ごと仰向けに床に打ち付けられる。

 鳩尾に衝撃が走ったことによって息が詰まって声を上げることもできず、苦痛に顔を歪めることしか出来なかった。


「気が狂ったフリで見逃してもらおうってか? 巽会ナメてんじゃねーぞ!」


 柄シャツ男が声を荒らげ、ラットの左肩を踏みつける。皮膚が引っ張られたことで、昔から残っていた火傷跡がぴりりと痛んだ。


『巽会ねぇ、クライアントの敵対組織の中では1番大きかったかしらね』


 発端は、ラットのクライアントである新見会という小規模のヤクザが組織を拡大させたいがために、あちこちのヤクザに手当り次第喧嘩を売り始めたことだった。巽会もその内の1つだ。


 歴史も浅い組織が自身の実力を過大評価していたということだろう。上手く行くはずもなく、すぐに組織は崩壊寸前になった。仮に立て直せたとしても、今後裏社会での立場は無いものと思った方が良い。

 そこで、新見会の会長は自分だけでも海外に逃亡を目論んだ。孤立無援の新見会会長は、他の組織と接点のないラットを金で雇ったという訳だ。

 ラットにしても、成功しようが失敗しようがリスクが高く、普段なら確実に引き受けないタイプの依頼である。

 ただ、今回に関しては破格の報酬に釣られて引き受けることを決めた。


 その見通しが甘かったことは、今の状況で一目瞭然だが。


『この状況、最高の性能を持った人工知能の私の計算では打開の確率ほぼ0ね……でもあなたが私の能力を全部解放してくれるなら確率は100になるわよ』


「……勘弁してくれ」


 消え入りそうな声で呟き、ラットは目を閉じる。この被造物はいつだってこうだ。

 その提案が正しいということは、生み出した張本人である自分がよくわかっている。

 ラットの様子を見て、巽会の名前に恐怖を感じたと勘違いした柄シャツ男が嘲笑うように鼻を鳴らした。


『あら、そんなに難しいことじゃないでしょ? だって制限コードは私の名前よ? 一言呼んでくれるだけでいいの』


 煽るかの様に笑う女の声にラットは苛立ちを覚えた。奥歯を噛み締める。

 その様子が伝わったのか、脳内を這い回るように小さく女の笑い声が響く。こそばゆい様な、焦らされるような不快感が身体を走った。

 人工知能の制限解除が嫌な訳ではない、この女の「名前」を呼ぶことが嫌だった。

 

「それなら――」


 死んだ方がマシだ、と続けようとしたラットの言葉を、勢いよく開かれたドアが遮った。




☆☆☆


「こんにちはーっ!」


 場にそぐわない明るい声に柄シャツ男が驚いた表情で視線をドアの方へ向けた。ラットもそれに釣られるように、視線を変える。


 ドアを開けた人物は、20代前半程の青年だった。ヘアピンで留められた前髪が、活発な印象を与える。

 しかし、明らかに普通ではなかった。青年は頭の天辺から足の先まで真っ赤に染まっており、ぼたぼたと身体から地面へ落ちる赤い滴を気にする様子もなく、にこにこと目を細めて男に笑顔を向けていた。

 猫耳のついた小洒落たパーカーを羽織っているが、それも赤色に染まって見る影もない。鼻を覆いたくなるほどの生臭いような、錆び臭いような匂いでそれが血液だと言うことがわかる。

 何か重量あるものでぎゅうぎゅうに詰められたリュックサックを背負っており、そこからも滴る血液が青年の足下に水溜まりを作った。


「なんだ……お前、どうやって入ってきた!」


 突然部屋に入ってきた青年を見て、柄シャツ男はひるんだ様子を見せたが、それでも声を張り上げた。その様子に青年は不思議そうな顔で小首を傾げたが、ああ、と納得したようにまたにこりと笑った。


「にゃーん、僕は山猫、本名じゃないけどね。おじさんのボスから仕事を頼まれて、『イーハトーヴォ』から来たよぉ」


「『イーハトーヴォ』? 聞いたことあるな、確か代行屋だったか」


 山猫、と名乗った青年が両手を顔の横で丸め、招き猫のように上下に動かすのを見て、柄シャツ男は顔をしかめたが一応敵ではない、と認識したようだった。それでも、山猫との距離を詰めようとしないあたり、まだ警戒はしているのだろう。


『何その組織、この超高性能人工知能の私でも聞いたことないのだけれど。あなた、知ってた? マイナーなのかしらねぇ』


「……いや、聞いたことがないな」


 先程のやり取りを忘れたかのように軽い調子で聞く女に、声量を落としてラットが答えた。明らかに危険な雰囲気をまとう山猫を刺激するのは避けたかった。

 この人工知能の切り替えが早いのはいつものことだ。切り替えというより、興味を失うのが早いと表現する方が適切かもしれない。

 しかし、ラットの声が耳に入ったのか、山猫が視線をわずかに揺らし、床に転がされたままのラットを視認した。ラットと目が合う。目の端がつり上がり、瞳孔の小さな瞳は名前の通り猫によく似ているとラットは感じた。


「でね、お仕事が終わったから報告に来ました!」


 山猫は特に何も言うことなく、ラットから目を逸らすと、背負ったリュックサックを床に下ろした。そして、ジッパーを開けて中身を取り出すやいなや、柄シャツ男の顔に向かって投げつけた。

 山猫の狙い通り、投げた物体は突然のことで避けきれなかった柄シャツ男の顔面に当たって鈍い音をさせた後、部屋の隅に転がっていった。柄シャツ男が頬を押さえて小さく呻く。

 ラットも何を投げつけたのか目視することが出来なかったため、落ちた物体を目で追う。


 その先にあったのは、血塗れで胴体から切り離され、絶命した人間の首だった。

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