003
梅雨の時期に入って、ここ最近はジメジメと雨が多い日が続いていた。だが、久しぶりに天気予報キャスターが「傘を持たなくても平気」とのたまった日の放課後のことだ。
俺は帰り支度をしていると、相変わらず、すばやく準備を済ませ、転校生は即、教室を出ていった。帰宅部は、俺のクラスでは俺を含めて四人ほどしかいないので、直帰する姿は目立つのである。誰も座っていない彼女の机を見定めた後、教室に居座っている理由は特にないので、俺も帰路についた。
その日はそのまま家に帰ることを少し躊躇いがあった。下校路を見るのも嫌になるくらいに。毎日同じ時間に、同じ道を通って、何事もなく帰宅することに嫌悪した。その気持ちを抑えることはできず、校門を出ていつもとは反対の方向に歩を進めた。
こういう気持ちになることは時々あった。小学校の頃も、違う道で帰ろうという気持ちに駆られて、そして何度も迷った憶えがある。その経験もあってか、周辺の道は、大体見覚えがある。自分の知らない場所を、ゲームの地図を埋めていくようにしていく。その感覚が好きなのかもしれない。
歩くのは嫌いじゃない。小学生の頃、家に帰ってから、よく目的のない散歩に出かけてることがあった。いつもと異なる風景を見ることが、自分の心に安らぎを与える行為であったようで、頻繁に知らない場所を歩いた。
散歩は、俺にとって唯一の趣味だともいえるだろう。
だが、中学に入ってからは、妹のことも手伝って、行っていなかったことに気づく。ただ今日は、その溜まっていたフラストレーションがついに頂天に達してしまった、ということだろう。
ああ、ここは何度か迷った場所だ。
でも大丈夫。
もうここは、知っている道だから。
最初はどこから通っても、元の道に戻ってしまうような迷路のような場所だって、正しい道を行けば大したことのない場所になる。それでも右往左往して迷っていたのも懐かしい。
(ここは……? 知らない道だ)
冒険心が芽生えてしまい、これまでに通ったことのない道を見つけると、衝動的に向かってしまう。勇ましく歩いていくと、ある場所に出た。
「ん?」
小さな空き地のような空間がある。入り口前に名称が記されているプレートらしきものがあるようだが、汚れていて文字を認識することはできなかった。よく見ると寂れた遊具があるので、空き地ではなく公園であることがわかった。
この道は何度か通ったことがあるが、こんなところに公園があるのは知らなかった。
そんな古の雰囲気を持っているにも関わらず、手前には小奇麗なベンチがあった。周りとの均衡を崩すような存在感をしている。
(せっかくだから座るか)
ベンチに腰を下ろすと、自然な流れで空を仰いだ。雲は非常に穏やかに動いている。それに乗じて、時間もゆったりと流れていくような心地がする。最近、舞はとても大人しいから、無理に早く帰らなければならない心配もない。なにも考えずに、ゆっくりと時間に身を任せられた。
周りには、子どもの姿はない。
今、この公園には自分しかいないのだ。
小さな公園を、まるで自分が支配したのように思えて、一人でニヤついてしまった。大きく深呼吸をして、目を閉じる。遠くからは車の音や鳥の鳴き声、部活動に励む生徒の声が聞こえる。それを聞いているうちに、俺は知らぬ間に眠りについてしまった――。
ふと我に返って、上体を起こす。公園の古びた時計を見ると――古くてちゃんと動いているかわからないが――まだ、あまり時間は経っていないようだったが、雲がかかり、先ほどよりはどんよりとした天気になっていた。
視線を前に戻す。まさか、ベンチで眠ってしまうとは……。
「ずいぶんと眠っていたね」
「ああ」
すぐそばから聞こえた声に、無意識に反応する。声の方向を見やると、そこには見たことのある横顔。
「……えっ」
思わず身じろいだ。いきなり声をかけてきたということよりも、隣にいた意外な人物に、驚いたからだ。
「そんなに驚くことかな」
持っている本に視線を送りながら、クスリと含みを持って笑う。開いていたページに栞を挟んで、こちらに顔を向けた。
その人物は、あの転校生だった。
「初めてだよね、こうやって話をするのは」
何事もないかのように、彼女は話を続ける。
「なんでこんなところにいるんだ?」
負けじと俺は、平静を装って問う。
「ふと通ってから、お気に入りの場所なんだ。静かだから、本がゆっくり読めるし」
持っている本を軽く振ってみせ、再び笑ってみせる。
「いつもさっさと帰っちまうのは、そのせいなのか?」
「そういうわけじゃないけれど……確かに、そうでもあるかも。家に一度帰って、ここに来るんだ」
そういわれて見れば、彼女は制服ではない。しかし、どこかに出かけるような服とは思えない、地味な服だが、スカートの丈は短い。
「ビックリしたよ。この公園に人がいるなんて。しかもクラスメイト!」
転校生は目をキラキラと輝かせて、両手を合わせた。
「だからボクは、ついつい君に声をかけてしまったんだ」
『ボク』? 今、『ボク』って言ったか?
「ん? ボクの顔になにかついているかな?」
また言った。どうやら、彼女の一人称は『ボク』であるようだ。ボクっ娘っていうんだっけ。本物を初めてみた。実在したのか……。
「それに君は、ボクが引っ越してきたときに、家の前で会ったよね?」
頷くと、彼女は顔に笑みを重ねて、
「あの時は、急に目が合ったから、ビックリしちゃったんだ。ごめんね」
ぺこりと頭を下げた。別にそんなことを、謝らなくてもいいと思うのだが。
今になってようやく、彼女がメガネをかけていないことに気づいた。
「メガネは掛けなくても見えるのか?」
「ああ、メガネかい。あれは伊達だから」
伊達メガネ。視力矯正のないメガネ。
「人に直接目を見られるのが、得意じゃないんだ。視力は両目1.5だよ」
俺より良いじゃねえか。
彼女はゆったりと脚をぶらつかせたり、伸ばしたりする。しかし落ち着きがないとは思えない、可憐な動きだ。
「初めて男の子と話した気がするよ。ふふっ」
「そうなのか?」
「学校の時のボクを考えてくれれば、想像するのは容易いと思うのだけれど」
確かに、いつもの学校のあの雰囲気ならそうかもしれない。
だが、今の彼女からは、学校での雰囲気とはまるでかけ離れていた。
「どっちが本物なんだ? 今のお前と、学校のお前と」
「なんだか面白い質問だね。今のボクと学校のボクか……ふふっ、どちらも、ボクはボクだよ」
天気とは裏腹に、晴天のような、晴れ晴れとした笑顔。
「
同い年とは思えないほど、達観しているように見える。
それにしても、聞き慣れない口調だ。俺が生まれてきてからこんな口調の女には出逢ったことがない。まるで未知数の存在だ。
「ふふ、おかしいだろ。ボクって」
乾いた笑い声を上げて、彼女は空を見上げた。
「小学生の頃、前の中学でも、友達なんていなかったんだ」
爽やかな微笑みだ。均整な顔立ちは、曇った天気には映えなかった。一度目をギュッと閉じて、彼女は立ち上がった。
「急に話しかけたりして、申し訳なかった。話すのもこれっきりだ」
本を小脇に抱えて、ベンチから立ち上がった。
「これから一年間、『クラスメイト』として、よろしくね」
彼女は改めてニコッとして、俺に深くお辞儀をし、そのまま公園を後にしようと出口に向かっていく。
この言葉の意味は、すぐにわかった。
彼女はもう、俺と関わらないようにしようとしている。
『周りと同じように、腫れ物に触るような扱いをしろ』
そう宣告しているのだ。
「待てよ」
歩き出していた彼女の背中に向けて、感情に任せて声を出す。その声を聞いて、彼女はこちらの方を向く。とても不思議そうな顔だ。
「なってやるよ、友達に。……お前の友達に、さ」
彼女は驚いたような顔をして、俺の顔色を窺った。綺麗な瞳が、俺に注力されている。じっと見つめられているが、こっちはどうしても照れくさくて彼女の目を見ることはできなかった。
「……ボクはどうしようもない、変なやつだけれど、いいのかい?」
さっきよりも怯えたような低い声だった。本を胸に抱えて、上目遣いをしている。
「そんなこと気にしねえよ。そ、それに、家も隣だしさ」
最後に言葉を付け加えたのは、自分の言ってる事が、あまりにもクサく感じて、恥ずかしく思った。それに、誰かさんのお節介に近しいもの感じたのだ。
すると、彼女は目を丸くして、
「……君、お隣さんなのかい?」
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