第22話 兄妹(2)
電車を乗り継いで職場の最寄り駅を降りる。時間は十二時を回っている。相変わらずの曇天で気分まで暗くなりそうだが、しゃんとしろと八尋は自分を鼓舞して歩いた。
勤務先のシェルターへの道中、同僚職員の一人とすれ違った。昼休憩だろう。
「お疲れさまです」
八尋が挨拶すると、その職員は少しだけ驚いた顔を見せたが、睨みつけるだけで返事をせずに通り過ぎてしまった。いつものことだ。
就いている職務の特性上、同僚の仕事を増やすことになる八尋は常に煙たがられている。彼らにとって、シェルターの利用者はいないに越したことはない。たとえそこに保護を必要とする人がいたとしても、だ。彼らは本気で「自分には関係ない」と考えている。
だが一点だけ気にかかったことがある。先ほどの職員は何故あれほど驚いた顔を見せたのだろう。
何かが起きていると八尋が気づいたのはシェルターに到着した時だ。
正面玄関を入ってすぐ左に、受付を兼ねた事務室がある。ガラス越しに入館者を確認できるのだが、そこにいたとある職員が八尋に気づくと、顔を歪めて八尋に指を向けながら他の職員に何かを言っている。すると、その話を聞いたのだろう他の二名も八尋を見て、一様に悪意のある表情を向けてきた。敵意と言ってもよく、ここまであからさまに反感をぶつけられることは珍しかった。
やがて彼らのうちの一人、五十代の女性職員が憤懣やるかたないといった様子でのしのし歩いてきて、事務室を出るなり「おめーどの面下げてきてんだよぉ」と罵倒してきた。「立場利用すんのも大概にしろよぉ」
八尋にはもちろん寝耳に水の話だ。「落ち着いてください」となだめながら、ふと廊下の先に目が行った。突然響いた怒声に何が起きたのかと、通りがかったシェルターの利用者が何名か遠巻きに見ていた。
「見られてますよ。みっともないですよ」と伝えたい気持ちに駆られたが、怒りの火に油を注ぐだけになるのがわかっているので口には出さなかった。同僚たちは、自分が利用者からどのように見られているかなど気にも留めない。
「話は聞きますから。大きな声を出さないでください。お願いします」
「お願いできる立場かよおめー。話聞くのは当たり前だろうがよー」
女性職員は鼻息荒く肩を上下させて怒っているが、ほんの少しだけ声量が落ちた。
「ええ。おっしゃる通りですね。ごめんなさい」
「ふざけんなおめー。何様なんだよぉ」
「わかってます。ごめんなさい。どうか落ち着いて」
どれだけ罵られても八尋が殊勝な態度を見せ続けたことで、少しは後ろめたい気持ちでも湧いたのだろうか、段々と相手の怒りのボルテージが下がっていき、ほどほどに鎮まったところで何を怒っていたのか聞き取った。
それは再び寝耳に水の内容だった。八尋がシェルターでの勤務から外されていたのだ。今朝、本部から辞令があったらしい。
誰の仕業かは八尋にもすぐに察しがついた。花だ。
それは同僚たちにとっても同じだったようで、「監督官と親しいからって特別扱いされてんじゃねーよ」というのが彼らの怒りの原因だった。
いつの間にか事務室にいた残りの職員も加わって、「ふざけるな」とか「ありえない」とか口々に八尋を非難していた。
その時、彼らの後ろにある廊下を進んできた、恐らく施設内の巡回をしていたのだろう中年の男性職員と目が合った。彼は八尋を取り囲む人々の剣呑な様子を察して、くるりとUターンして離れていった。巻き込まれたくないのだろう。正しい判断だと思った。糾弾の輪に加わらないだけ、まだ良心的かもしれない。
「少ない人員でなんとか回してんのに、おめーが抜けたら誰がその仕事すんだよぉー。あたしらにてめえの仕事押しつけて、その間おめーは遊んでるってかあ? いいご身分だなあ」
先ほどの女性職員が汚い言葉で八尋を攻撃する。止まり木の職員となって長い彼女は俗に言う、お局様というやつだ。こうして、『監督官と親しくて特別扱いされている八尋』を激しく責めることで、『臆せずもの申す自分』を同僚にアピールし、自分の立場を優位にしようとしている。くだらない。
反論したい感情をぐっとこらえる。ここで言い争っても徒労で終わることはわかっている。無駄な時間が増えるだけだ。
花の意図は理解している。八尋には夜空の件に集中させるつもりなのだ。
現場人員は圧倒的に人手不足なので今後も八尋が従事するだろうが、施設の運営職員については「人余り」の状態だと花たち監督官は認識しており、八尋も同感だった。同僚たちの言う「人が少ない」というのは、「自分たちがサボっている間に仕事を片付ける下働きが減る」という意味だ。
そもそも、現場人員の八尋が施設の運営業務まで行う必要はない。ではなぜ携わっているかと言えば、八尋が志願したからだ。止まり木に怠惰な職員が多い実情を知っていたので、利用者が少しでも過ごしやすい環境を作ってあげたいという想いからだった。
その話をしたら、花には「自分を嫌ってる人たちの群れにあえて飛び込みたいなんて、マゾだねえ」と笑われた。「現場が忙しくなったら引き上げさせるよ」とも言われていた。今回がその機会だったということだろう。だから、決定自体に不服はない。
心残りなのは、この無責任な連中に後を任せるしかないことと、わずかにいる心ある同僚にしわ寄せがいくだろうことだった。
いいご身分なのはどっちだ。八尋が運営職員を希望したのは、決して目の前にいるような種類の人間に楽をさせるためではない。怒りをこらえ、手を固く握りしめる。
ひとしきり罵って満足したのか、八尋を取り囲んでいた職員は包囲を解いて事務室へと引き上げていく。様子を見ていた利用者たちもそそくさと立ち去っていき、廊下には八尋だけが取り残された。事務室の薄い扉越しに、同僚たちの下品な笑い声が聞こえてくる。
八尋は目を閉じて深呼吸をひとつした。気を取り直そう。自分に言い聞かせるように呟いて、廊下を進んでいく。
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