第20話 死因、暴走、出会い
おねえちゃんが死んで以降、あの家を逃げ出すまで、八尋に心が安まる場所はなかった。
ただひたすらに、両親からの暴力と蹂躙に耐えるだけの毎日。それでも、少しでも殴られるリスクを減らそうと、八尋は殴る口実を与えてしまう失敗をしないよう、細心の注意を払って生活するようになった。
結果として、確かに失敗は次第に減ったが、副作用として八尋はどんどん臆病になっていった。
両親からするとそれが癪に障るようで、いつしか失敗をしなくても「態度が気に入らない」とか「顔色を窺うな」といった理由で殴られるようになっていた。八尋の努力は無駄だったが、臆病になった心は元には戻らなかった。
他に変化があったことと言えば、身体の成長だ。どんどん身長が伸びて、十歳の頃には母親の背丈を追い越していた。母は相変わらず八尋を暴力で従えていたが、自分を殴りつける母の目が時折怯えの色を宿していることに、八尋は気づいていた。腕力で敵わなくなりつつあることをわかっていたのだろう。
ただ、それまでずっと支配されてきていた当時の八尋には、逆らうという選択肢は考えることすらできなかったのだが。
十一歳になった年、おねえちゃんの死因が自殺だったと八尋は偶然知ることになる。彼女の死について両親が話している場面にたまたま出くわしたのだ。
──ご近所の○○さんの旦那さん、亡くなったって。
──ああ。病気が判ってからあっという間、あっけないもんだ。
──こうなるとわかってたなら、あの子も自殺なんてしなかったかもねえ。
──奥さんの連れ子だったからな。血が繋がってないから余計に暴力が酷かったみたいだ。
──旦那さん、愛想良く挨拶もするし、見た目は全然そんな感じじゃなかったんだけど。
──虐待なんてするような人間に限って外面はいいもんさ。
──でも、再婚してからずいぶん経ってたじゃない。その間、ずっと暴力はあったわけでしょう。それが、中学上がった年に今さら死んじゃうって、何かきっかけでもあったのかねえ。
──そうかもな。でも俺が思うに、自殺なんかするようなやつはそもそも心が弱いんだよ。きっかけの有る無しに関わらず、遅かれ早かれ精神的に病んでただろうさ。……あ? おい、なに盗み聞きしてんだよ。ふざけた野郎だな。
八尋は父親に激しく折檻されながら、頭の中は身体の痛みよりも今聞いた話の衝撃でいっぱいになっていた。
おねえちゃんは自殺してしまった。おねえちゃんも八尋と同じように、親から虐げられていた。それが原因となって、死を選んだ。
八尋は何も知らなかった。知らないままに、自分だけおねえちゃんに慰められていた。
自殺したおねえちゃんは心が弱かったのか?
心が弱かったから、おねえちゃんは死んでしまったのか?
違う。おねえちゃんは殺されたのだと八尋は怒った。だが、おねえちゃんを殺した彼女の義父は既に死んでしまっている。生きていたなら、殺してやりたかったのにと歯噛みした。
湧き上がる怒りを、無神経な発言でおねえちゃんを貶めた父にぶつけたいと考えながらも、父を恐れる八尋の理性がそれを許さなかった。それは力で敵わない相手に対する判断としては全く正しかったのだが、当時の八尋はそれを自身の意気地の無さに原因があると理解し、そんな自分が腹立たしくて仕方が無かった。
そうして、八尋の怒りは次第に、無知だった自分自身へと向かっていく。
ぬけぬけと生きている臆病な自分が許せなかった。おねえちゃんじゃなくて自分が死ぬべきだったのにと日々考え続けた。
この頃には既にギフトが発現していたらしい。らしい、というのは、〝吸収〟は周囲にホルダーがいなければ効果が得られないので、八尋には自覚がなかったのだ。
八尋の身体に初めに異変として現れたのは、ペナルティの発作だった。
その日、八尋は学校に忘れ物をした。何を忘れてきたのかはよく覚えていない。鉛筆一本だったり、プリント一枚だったり、いずれにせよ大したものではなかったように思う。
だが、両親にとっては許せない出来事だったようだ。夜になって八尋の失態を知った彼らは烈火のように怒り出した。いつものようにしこたま殴ったあと、今から取りに行けと八尋に命じた。
当時の八尋は気づかなかったが、夜の学校に子供が入れるわけがない。両親はそれをわかっていて、八尋に命令したのだろう。校門が閉まり学校に入ることができず、手ぶらのまま帰らざるを得ない八尋はきっと、この後行われるであろう折檻を想像して恐怖に怯えながら夜道を心細く歩くだろう。そして、帰ってきたところを満を持して出迎えるのだ。八尋が想像した以上の暴力を振るうために。
八尋は痛む身体を引きずるようにして玄関を出ると、外は真っ暗だった。
ふと、どうして自分はこんなことをしているのだろうと、暗い世界をぼんやりと見ながら考えた。
何気なく浮かんだ思考は、枯れ草に付けた火のように一気に燃え広がって脳内を埋め尽くし、気づいた時には八尋を突き動かす瞋恚の炎と化していた。
踵を返して家に駆け戻り、怪訝な表情で八尋を見る父親の顔を、テーブルの上に置いてあった大きな灰皿で殴りつけた。
加減も躊躇いもなく、ただひたすらに八尋が父母を痛めつける時間がしばらく続いた後、唐突に正気を取り戻したところで家族との思い出は終幕を迎える。あとは恐ろしくなった八尋が逃げ出すという、いつもの夢で見る光景があるだけだ。
家を飛び出したあとの記憶は曖昧で、八尋が覚えているのはいつのまにか病室のベッドにいる自分と、傍らにいて語りかけてくる花の顔だ。
「家に帰りたいかい?」
花の問いかけに、八尋は絶望的な思いになった。連れ戻されると思ったのだ。戻ったら今度こそ殺されてしまうと考え、その未来を恐れた。
しかし、答えに窮している八尋に対し花が重ねた言葉は全く予想外のものだった。
「君はどうしたいのかな」
八尋はしばらくの間、彼女が何を訊ねているのかわからなかった。八尋の意思や希望を考慮される経験がこれまでほとんどなかったので、自分がどうしたいのか考えるという習慣がなく、ましてやそれを他者から確認されるとは思いもしなかった。
「家に帰ることもできる。このままここで生きることもできる。どうするか、選ぶのは君だよ。君の人生なのだから」
君の人生なのだから。新鮮な響きを持ったその言葉は、八尋に不思議な感覚をもたらした。ふわふわとして、足元が覚束ないような、それでいて胸の内が温かい妙な気分だった。
八尋はようやく「家には帰りたくない、です」とだけ口にすることができた。
「そ。じゃあわたしとおいで」
なんでもないことのように告げられた言葉。実際、花にとってはたいしたことでもなかったのかもしれない。だが、彼女の言葉は確かに八尋の精神を救った。
ここにいてもいいんだ。
八尋は生まれて初めて湧いた感情に戸惑い、そして同時に、張り詰め続けた心が緩んで、気づけば涙を流していた。
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