第3話 失敗(1)
「お客さあん! ここでいいんですかあ!」
唐突に聞こえた野太く大きな声に八尋はびっくりして飛び起きた。
天井に頭を思いきりぶつけ、鈍い音とともに「痛っ」と思わず声を漏らす。
「大丈夫ですかあ」と、さっきの声が前方からする。白髪に制帽を被った初老男性とミラー越しに目が合う。あれはバックミラーで、彼はタクシーの運転手。
そうだ、タクシーに乗っていたんだ、と自分を取り戻す。寝入ってしまっていた。
八尋は左を向き、ドアウィンドウ越しに外を確認する。窓の外側には雨粒がついていた。目印にしていた交差点名の入った標識が見えたので、「ここで大丈夫です。ありがとう」と伝えるとドアが開いた。
料金を支払い車外に出ようとしたところで、肩越しに振り返った運転手が「大丈夫ですかあ」と再び口にした。
ぶつけた頭のことを聞かれたのかと思い「全然大丈夫です。ちょっと打っただけなんで。ごめんなさい、すっかり寝ちゃって」と答える。
すると運転手は「いえ、そうではなくて」と否定し、「その吊ってる右腕。骨折ですか」と訊ねてきた。「あと、ずいぶんとうなされていましたよ」
右腕はナイフで刺されたのだ。八尋はヘマをして、その失敗を取り返すためにここにいる。
「……ええ。実は悪夢を見てしまいました。たぶん痛みのせいですね」と、曖昧に笑いながら答えた。
「それは大変ですねえ。お大事に」という彼の声に礼を返して、車を降りる。
十月下旬にしてはずいぶんと寒い日だった。そこへきてこの雨だ。八尋の吐息が白く漂い、雨に打たれながら宙を昇っていく。
八尋は黒いレインジャケットのフードを被り、合流地点へと歩き出す。時計を見ると、午後三時半ばを過ぎようとしていた。
時計の日付が目に入り、先ほど見た夢のことを考える。日数的にそろそろ発作の周期だ。あの夢を見たということは、恐らく今夜にもくるだろう。時間をかけてはいられない。
路地には人通りどころか車の通行もほとんどなかった。
八尋はこれまで訪れたことがなかったが、この辺り一帯は古くからの問屋街だそうだ。普段は業者向けに卸営業をしているため一般客はあまり立ち寄らず、更に今日は問屋街共通の定休日のようで、シャッターが閉まった通りは全く閑散としていた。これがこの地域の日常風景なのだという。
「お、きたか」
そのことを教えてくれたのが、八尋が待ち合わせをしていた青年、
宗一郎は近くの建物の軒下で雨を避けながら、八尋を見つけると陽気な笑顔を見せ、「んじゃ、行こうか」と言って八尋に背中を向けて前を歩き出す。傘も持たずに、ブラウンのミリタリージャケットのポケットに手を突っ込んで「寒くなってきたなあ」なんて言いながら雨に濡れている。
背中を見ていると、宗一郎の身体の大きさを改めて感じる。身長は184cmで、それより6cm低い八尋とそこまで大きな差があるとは感じないものの、そのがっしりとした骨格と、トレーニングで膨れ上がった筋肉が彼を一層巨大に見せていた。
「風邪引くぞ。傘ないのか。それか俺みたいにフード付きのレインコート着るとか」
八尋は宗一郎の左隣に並んで歩きながら訊ねた。
「俺の場合は、仕事する時に邪魔になっちゃうからな。なに、平気だよ。俺、雨好きだし」
そう言って宗一郎が天を仰ぐ。顔の全面で雨を感じようとしているらしい。
「好き嫌いは風邪の引きやすさとは関係ないんじゃないか」
「髪短いから乾くのも早いしな」
「それはなんとなく関係ありそうではある」
ふと宗一郎の頭を見る。すっきりと刈った短髪で、前髪を上げて左に流すスタイルが、彼をさらに精悍な青年に見せている気がする。年は八尋の一つ上で二十二歳だが、そうとは見えない貫禄のようなものがある。八尋は水滴のついた自分の前髪を上目で見ながら、自分も少し切ろうかな、などと考える。
前髪を上げているため、左の生え際のあたりにある大きな傷痕が見えていた。昔、事故で大怪我をした時の痣だと本人から聞いた。
「それより、どうしたんだよ」
宗一郎は歩きながら身体を折って、八尋の右腕を覗き込むような姿勢を取った。
「傷は深いのか」
「まともに動かせない」
さすがに宗一郎の表情が曇ったので、八尋は慌てて「大丈夫。何か吸収すれば治る」と付け足した。「それもそうか」と宗一郎もすぐに気を取り直してくれたのでほっとする。
「すまない。手伝ってもらって。元は俺のミスが原因なのに」
「水くさいこと言うなよ。一緒に仕事ができて俺は楽しいぜ。それに、八尋もミスするんだなってわかったことが嬉しくもある」
「俺がミスすることがなんで嬉しいんだよ」
八尋は苦笑する。
「だって、おまえがしくじるところ、今まで見たことなかったからな。でもやっぱりおまえも人間なんだなと思ってさ。より親しみが湧いたよ」
「失敗くらいするさ」再び苦笑する八尋。「むしろ失敗ばかりだよ、俺は」と続けたのは本心からの言葉だったが、自分を卑下する色が出てしまったのではないかとはっとする。
幸い、すでに目的地に着いていたようで、宗一郎はそれ以上話題には触れずに「あそこだ」と言って立ち止まった。
彼が指で示したのは、道路を挟んで対岸にある、軒を連ねたビルのうちの一棟だった。
間口は狭く、高さも四階程度のさほど大きくない建物だ。そこだけ周囲と異なっていたのは、一階の通りに面した箇所に建設現場でよく見るような仮囲いが設置されていることだった。
「あいつらはあそこに入った」
宗一郎が顎を動かして示す。
八尋が取り逃がした連中を、宗一郎が捜して尾行してくれたのだ。彼は無事に相手のアジトを突き止めてくれていた。
「子供たちも一緒か?」
八尋にはそれが何より気がかりだった。
「ああ。小さな男の子と、それよりさらに幼そうな女の子。二人を確認した。特に怪我をしている様子はなかったよ」と聞いて、心底安心する。
「あいつらにとっては大事な商品だからな。無闇に傷つけたりはしないか」と、軽蔑と憤りが混ざったような口調で宗一郎が言う。八尋も同感だった。
子供を誘拐し、人身売買の商品として扱うような連中を野放しにしておくわけにはいかない。八尋は改めて気を入れ直す。次こそは絶対に失敗は許されない。
「ほかは何人いた」
「三人だ。一人は女、残りは男だった。出迎えはいなかったが、中に仲間がいる可能性はあるかもしれない」
「その三人は俺が会った連中だろうな」
自分がミスをしたシーンが八尋の脳裏に甦る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます