第15話 実車

 今日子が第一見極めを見事合格したその夜。市内の繁華街から少し離れた場所にある寂れた居酒屋に、島崎ら二人の姿があった。

「全く……聞いてみりゃあの爺さんに出会ったのって偶然らしいじゃねぇか。ヒヨっ子のくせについてるというか何というか」

 島崎は日本酒をひと口呷り愚痴をこぼす。カウンターの隣の席に座る長い黒髪の女性は笑みを浮かべ、おでんの大根を箸で食べられる大きさに切り揃えていた。

「そんなこと言って本当は悔しいんじゃないの? 一番彼女が大変な時に教えてあげられなかったことが……」

 島崎はその女性の指摘に少なからず思い当たる部分はあったので、ばつの悪い表情をして話をすり替えた。

「ケッ……なあ、本当にお前その爺さん知らねぇのか? 小柄で眼鏡かけてて、定年過ぎてもしばらく運転士してたと思うんだが……」

〝お前〟と呼ばれた女性、若月礼子は微塵も表情を変えることなく答えた。

「さっきから何度も言ってるでしょ? 本当に知らないわよ。いくら私だって本社の……それも二課長になる前のことなんていちいち情報が入ってくるわけ無いじゃない」

 それを聞いた島崎は唇を尖らせて残念そうに呟く。

「そうか……そうだよなぁ……すまん」

 項垂れる島崎の様子に苦笑いしながらも若月はフォローを入れた。

「そりゃその元運転士のお爺さん、あなたよりずっと長く生きてるんだろうから……教育の引き出しも多いわよ。張り合ったところで勝てるものでも無いだろうし」

 フォローのはずが更に島崎は落ち込んだ。

「け、けどあくまでそれはあなたが彼女を教え込んだ下地があってのことでしょう? あなたが拵えた花壇に、お爺さんは花を植えただけとも言えるんじゃない?」

 慌てて若月はもう一度フォローをし直した。それを聞いた島崎は僅かながらの笑みを見せたものの、まだどこか納得が行って無い様子だった。

「……それよりも……あの話本気なの?」

 若月は話題を変えた。島崎は何のことかすぐに分かったが、敢えて若月の方は見ずに答えた。

「ん……あぁ。女房もいなくなって〝ここ〟に俺がいる理由も無くなっちまった。今度は実家の親がいよいよ怪しくなってしまってな……帰ってこいって言ってんだ」

「田舎って、群馬……だったっけ?」 

 大根をつついてた若月の箸が止まる。

「あぁ。定年にはまだもう少しあるんだが、そうも言ってられねぇ。東京へ飛び出して次は島根だ……散々わがまま通させてもらったんだ。いい加減親孝行もしねぇとな」

 島崎は自重気味に苦笑いした。若月もいたたまれない表情になったが覚られないように前だけを見ていた。

「所長も随分頭抱えてたわよ ? 定年まで何とかならないの?」

 島崎はゆっくり首を振る。

「あのヒヨっ子を送り出すことが最後の大仕事だって決めたんだ。それを世話になった会社への恩返しとしたい」

「……そう」

 島崎らしいと若月は思った。

「なぁ? いつも不思議に思ってたんだが」

「なぁに?」

「お前って職場とプライベートとキャラ変えるよな? なんでなんだ?」

 島崎の質問に若月は笑う。

「十五年の付き合いで今それ聞くの?」

「いや、無理にとは言わねぇけど」

 若月は首を振り、ふっと息をついて言った。

「仕事をバリバリこなす総務二課長の若月礼子……男相手に怯むことも無く、思ったことは即実行! ……そんな強い女に見える?」

 若月の問いに島崎は横から大根をつまみ食いしながら答えた。

「……いや、無理してるように見えてた」

 その答えに若月はどこか満足そうだった。

「そうよ。本当の私とは違う。スーパーウーマンでどこかお茶目な若月礼子を演じてないとやって行けなかったから。

 男連中には強引で押しが強く、部下には厳しいけど時には優しくてどこか抜けてる上司……上手くやろうとすればするほどあんなキャラクターになっちゃった……本当はただの弱い女なのにね。笑っちゃうでしょう?」

 若月はお猪口を両手で弄びながら少し恥ずかしそうにそう言った。

「笑ったりなんかするかよ。人の上に立つってのは大変な苦労があるって……それくらい俺でもわかる。佐伯ちゃんもそうなのかも知れねぇな」

「そうかもね……純粋に仕事が楽しいって、高梨さんみたいに思えてた頃が懐かしいわ」

 若月はじっと遠くを見つめていた。

「今のうちだよ。明日からは嫌でもこの仕事の〝負の部分〟に触れることになる。まだアイツはこの仕事を〝楽しいもの〟とばかり思ってるからな」

 島崎の意見に概ね若月も賛成だった。

「願わくば、どうかそれを乗り越えて尚……楽しいって、言って欲しいわね……」

 再び島崎が日本酒を呷る。

「……全くだ」

 今夜の飲み会の誘いは島崎からだった。誘いを受けた時に大方岩田への探りだろうなと予想はしていたのだったが、島崎と飲めるのもおそらく今夜が最後だろうと思い付き合った。

 理解ある戦友がいなくなるのは寂しい。だが今のこの男の頭の中はこんな美人を前にして感傷に浸るよりも、弟子を育てることで頭がいっぱいなようだ。些か失礼だとは思ったが仕方がない。それが島崎俊夫という男なのだから。


「ちょっと! 大根全部食べないでよ。もう……おじさんごめんなさい。大根追加で」



 次の日。いよいよ実車訓練が始まる。今日からは日替わりで先輩の乗務するバスに乗り込み、最初は片道から実戦練習を行う予定だった。

 島崎の手からも一時的に離れることとなる。教育中は休みも同じだったが、今日からは別々だ。少しずつだが一人立ちの準備が進んでいるようで、今日子も身が引き締まる想いだった。

「え~と……〝二九四〟長谷川さん長谷川さん」

 早朝。本日世話になる予定の車番と乗務員の名前を、復唱しながら事務所から駐車場へ出ようとした時だった。ちょうど入れ代わりで入ってきた柴田と鉢合わせしてしまい今日子は絶句してしまう。

「……」

 柴田は無言で今日子を見据えていた。その気まずい空気に耐えられず今日子は口を開いた。

「お……おはようございます……」

 柴田は無言のままだったがやがて――

「なんだ。まだ辞めてなかったのか」

 開口一番がこれである。今日子も内心うんざりだったが、大先輩である以上そんなこと言えるわけも無かった。しかし、毎度毎度言われっ放しも余りに癪なので――

「しぶとさだけはあるみたいで……柴田さんには申し訳無いですけど、私辞めませんから」

 そう言って今日子は形だけの礼をする。柴田は一瞬眉根が動いたようだったが、全く意に介さない様子だった。

「それは何よりだったな。まぁ最も、この仕事の厳しさを知るのはこれからだ。精々今の内に楽しんでおくことだ。いずれ尻尾巻いて逃げ帰ることになるだろうからな」

 今日子はその言葉に何か言い返そうとしたが、柴田は『じゃあな』と言って行ってしまった。廊下に一人残された今日子は黙って拳を握り締める他なかった。



 駐車場に出た。早朝ということもあり辺りはまだ薄暗い。見習いの頃は毎朝9時出勤だったのだが、これからはそうは行かない。気を取り直して乗務予定のバスを探した。

 やがて一台のバスを見つける〝294〟今日乗務予定のバスだ。良く見ると誰かがもう点検を始めていた。マズい。今日子は駆け足でバスへ急ぐ――

「お、おはようございます! 今日側乗させてもらいます高梨です。よろしくお願いします」

 タイヤを点検していた男に後ろから挨拶をする。男は振り返り笑顔で今日子と向き合った。

「おはようございます。高梨さんね……長谷川です。こちらこそよろしく」

 長谷川は今日子に会釈をした。三十代後半と言ったところか。痩せ型のとても背の高い男性だった。

「す、すいません。ちょっとバタバタしてて点検遅れてしまいました。か、代わります」

 今日子は内心柴田を呪いながら長谷川から点検ハンマーを受け取ろうとする。

「あぁ、そんなに気を使わない。礼儀は大切だけどそんなんじゃ持たないよ? とりあえず側乗初日でしょ? 見ていてください」

 長谷川は今日子を手で制し、点検の続きを始める。そんなこと言われても気を使わないわけにも行かず、手持ち無沙汰な今日子は所在無くバスの周りをうろうろするしかなかった。

「……へぇ」

 バスの周りを一周して見た。教習車と似ているけどより洗練された感じがする。良く見るとヘッドライトの形も違っていた。

「教習車よりひとつ後の型です。後でまた教えるけど〝フィンガーシフト〟なのでちょっと慣れが必要かも知れないね」

 今日子の様子を横目で見てた長谷川は、灯火類の点検をしながら簡単な車両の説明をした。

「フィンガーシフト?」

 聞き慣れない単語に今日子が首を傾げていると長谷川は今日子に運転席に入るよう促した。運転席を見ると機器類の配置は同じだが、ひとつひとつ見てみると教習車とはタイプが違う機器もある。やはりこれも教習車より新しい物を使っているのだろう。

 一番変化が良くわかったのは長谷川の言う〝シフトノブ〟だった。教習車のシフトノブは床からニョキっと長く伸びているのに対して、この車両はインパネ(計器盤)の左斜め下に乗用車と同じくらいの長さのシフトノブが取り付けられてあるだけだった。

「普通シフトノブってクラッチを通じて変速機と繋がってるでしょ?」

 長谷川の質問に教習所で習ったことや過去の経験を思い出す。

「はい。シフトチェンジをミスするとガリガリ! って嫌な音が聞こえます」

 長谷川は頷く。

「うん。このフィンガーシフトって言うのは、実はクラッチや変速機とは直接繋がっていないんだ」

「え? どういうことですか?」

 教習所の教本に書かれていた図解とあまりにも違うことを長谷川が言うので、今日子は心底驚いた。

「シフトから送られる電気信号によって変速されるようになってるんだ。わかりやすく言うと……そうだな、乗用車のオートマ車でもたまにマニュアルシフトって+や-で変速出来るタイプの物があるでしょ?」

「あ、それなら友達のお父さんが乗ってたの見たことがあります!」

 今日子はポンと手を合わせる。

「じゃあ話は早い。あれにクラッチが付いた物と思ってもらっていいよ。

 一応ドライバーの精神的安心のためにマニュアルシフトっぽいノブが付けられてるけど、機構的にはセミオートマに近いってこと。まぁ細かい仕組みはとりあえず覚えなくていいんだけど、とにかく〝フィンガー〟って名の通り指先で動くくらいシフトフィールが軽いから注意してねって話。

 三番から勢い余って六番へ……とか最初はやっちゃうから気をつけて」

 これは大事な情報だと今日子はメモを取ったが、考えて見ればバスごとに様々な癖や使い方があるだろう……自分に対応出来るのだろうか? と、不安は尽きなかった。


 点呼も終わり後は発車時刻を待つのみとなった。

「とりあえずこの時間は松江駅を中心に見て〝上り〟は非常に混み合うけど〝下り〟はそうでも無いから気楽に行きましょう。最初は自分が運転するので見ててね。ひとまず駅まで〝回送〟で10分ほど。それから実車ね」

 制帽を被り、マイクを取り付けながら長谷川は言った。傍らで緊張した面持ちの今日子が返事する。

「は、はい。よろしくお願いします」

 長谷川は苦笑いする。

「だから緊張しすぎだって。と言ってもするなって言う方が無理か……じゃあ、発車します」

 とにもかくにも長谷川の運転するバスは発車した。


 松江駅に着いた。発車時刻まで三分前。中扉を開け待機していると八名の乗客が乗り込んで来た。サラリーマンや学生だった。

「ま、朝の下りはこんなもんですわ」

 長谷川が小声で教えてくれた。やがて発車時刻が来る。他に乗客がいないことを確認して長谷川はドアを閉める。そして――

「お待たせしました。八雲支所揖屋駅経由下意東連絡所行きです。発車します」

 感情のこもってないアナウンスと共にバスはホームを滑り出した。



 長谷川の運転は非常に滑らかな印象を受けた。先輩の運転にあれやこれや今日子が口を挟む立場でもないのだが、今日子があれほど苦労したシフトチェンジ時や停車間際のショックもほぼ皆無だった。

 その代わり長谷川のアナウンスはやけに事務的で少し冷たい印象を受けたのだが、長年やってるとこんなもんなのかな? と、今日子はあまり気にしないようにした。

 運行中、乗客の数は入れ代わりがあったものの、大体十名程度と少なく、乗客が降りる度に今日子は先に降りてガイドさながら「ありがとうございました」と言って乗客を見送った。ただ、乗客のリアクションは非常に薄く、今日子の挨拶に対して何か言ってもらえた客は一割にも満たなかった。

 やがてバスは終点に到着する。長谷川は大きくため息をつきほんの一時沈黙した。

「お、お疲れ様でした」

 今日子が言うと長谷川は今やっと気が付いたかのように今日子の方を向いて薄い笑みを浮かべた。

「……どうも。さ、二十分後にはもう発車です。トイレに行って準備してください」


 いよいよ今日子の実車デビューの時が来た。緊張は頂点にまで達しており、隣で長谷川が何やら説明をしてくれてはいたのだが、あまり耳には入ってこなかった。

「とりあえず教育中にはあまり習わなかったこと〝時間〟が加わってくるからね? 右手にある〝運行表〟を良く確認して、絶対〝早発〟だけはしないように……高梨さん聞いてる?」

 運転席右手に運行表が貼り付けてあった。その日自分が運行する各便のタイムスケジュールが記されている。基本的に運転士はこの記された時間通りにバスを走らせなければならない。特に早発は御法度で、遅れることは許されても絶対その時間より早くなることだけは厳しく禁止されている。

「……あ、は……はい! き、聞いてます」

 今日子は緊張し過ぎて嫌な脂汗をかきはじめていた。手に嵌めた礼装用の手袋も湿ってるように感じる。

「大丈夫だから。隣でアシストするからとにかく落ち着いて。事故だけしなければそれでいいから」

 何とか緊張をほぐそうと長谷川も必死だったが、今日子にはどこか遠くからの声にしか聞こえていないようだった。

 時間が来た。腹を括るしかない。

「良し。行こう!」

 乗客はまだ乗っていなかった。長谷川の合図で中扉を閉める。今日子の初乗務のバスがついに走り出した。

「は、はい! 発車します」



 午前十時前。今日子と長谷川のバスは松江営業所に無事到着していた。

「……」

 運転席で放心状態の今日子に長谷川が苦笑いしながら声をかける。

「とりあえず初乗務お疲れ様でした。なんとか帰って来れたね」

 長谷川の言葉にとりあえず事故を起こさず帰って来れたことに感謝しつつも、とても納得出来る内容では無かったことは今日子自身一番良くわかっていた。

「はい。長谷川さんの細かな指示が無ければ、とても無理でした。実際ふわふわして地に足が着いて無いような感じがして……自分が何をしてるのかさえ良くわかっていませんでした。すいません……」

 そう言って今日子は頭を下げた。いや、項垂れたと言った方が近かった。

「そうだね。運行表もまともに見れていなかった。早発をしかけたのが二回。停留所の確認も出来てなかったから、乗客の積み残しをしかけたのが三回。それと光電がついていたから良かったけど、お客さんがまだ扉の所にいたのに閉めようとしたのが一回。実際にやってれば始末書が六枚書けてた。

 フィンガーシフトへの慣れもまだまだ必要だし、アナウンスもほとんど喋れて無かったねぇ」

 口調は穏やかだったが長谷川の指摘は厳しいものだった。今日子は更に項垂れた。

「けどまぁ、最初はみんなこんなもんだよ。だから……はい。デビューおめでとう」

 長谷川は一枚の整理券を取り出し今日子に渡した〝3〟と印字してある。

「? ……これは」

 この整理券が何を意味するのかさっぱりわからず、今日子は首を傾げた。

「わからない? 一番最初のお客さんの整理券。記念にと思って降りる時貰っておいた」

 長谷川はニヤリと笑って見せた。

「……あ! いつの間に……」

「前に島根県を舞台にした新人電車運転士の映画があったでしょ?」

 この時点で長谷川の言いたいことが今日子にはわかった。

「あの映画なら何回も見ました〝あのシーン〟ですよね!」

 中年会社員が憧れていたローカル線の電車運転士を目指す映画が一時期流行ったことがあった。島根が舞台のその映画の中で、主人公が初乗務の後に先輩から最初のお客さんの切符を貰うシーンがあった。長谷川はそれを真似たのだった。

「映画みたいにかっこ良くはいかなかったみたいだけど」

 長谷川は意地悪く笑って見せた。

「ど……どうも」


 何はともあれ、今日子のほろ苦初デビューは無事終わったのだった。

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