第14話 第一見極め

 楽しかった福寿会との特訓もいよいよ終わろうとしていた。岩田のアドバイスが功を奏し、日を追うごとに内容を増やしていったアナウンスもそれなりの水準に達したようだった。運転技術の方も島崎が教えたことを下地にして、更に習熟度が上がったのは言うまでもなく、乗客を乗せたことを想定した練習は他に代え難い今日子の財産となった。

 ただ、楽しい時間というのは通り過ぎて行くのもまた早く、今日子と福寿会の面々は別れの時を今まさに迎えようとしており、川津モータースの正面……夕焼けに赤く染まる空を背に今日子が――その対面に福寿会のメンバーと西崎が横一列に並んでいた。

「……よう頑張った。わしが教えることが出来るのはここまでじゃ」

 岩田がいつものように正面に杖を突き立て言った。違うのは今まで見たことが無いくらい優しい顔つきだったことだろう。

「せっかく新しい孫が出来たと思ってたのにもうお別れなんて……ねぇ」

 雪が涙ぐんでいた。

「何今生の別れみたいなこと言ってんだい! ま、またバス借りて行くんだからさ。そうよね?」

 雪を嗜める初枝も泣きそうな顔をしていた。

「また飯を食うぞ! モゴモゴ」

 わかってるのかわかって無いのか源治が叫ぶ。

「正直どこかぶつけて帰ってくるかと思ってたんだが、痩せても枯れても運転士ってことだな。お疲れさん!」

 西崎が激励する。


「……」

 今日子は下唇をきゅっと噛み、黙ってみんなのお別れの言葉を聞いていた。何か口に出すと泣いてしまいそうだったからだ。

「試験も大事だけど、身体にだけは気をつけるんだよ? 倒れてしまったらなんにもなんないんだから……ほら」

 久子が今日子の手を取る。何か手渡された……いつか今日子が久子に美味しいと言った飴だった。


「辛かったか……?」


 岩田が静かに、そしてまっすぐな目で問いかけてきた。特訓のことを言ってるわけでは無いと、岩田の目を見れば今日子はすぐにわかった。ご近所なのだ……ここにいる人達は〝あの時〟何があったか知っている。その後母と自分がどんな暮らしを送ってきたかも知っている。

 それでもみんな何も言わないでいてくれた。腫れ物を触るようなこともしなかった。ただ純粋に……本当に純粋な温かい心で受け入れてくれた。なんて気持ちの良い人達だったろう。

 笑ってさよならするはずだったんだ。なのにずるい……最後の最後でそんなこと言うなんて――

 今日子は下の瞼に今にもこぼれ落ちそうな涙を浮かべていた。身体が震える……嗚咽が漏れそうになるのを必死で堪えて首を振った。

「……つ、辛くなかったかと言えば嘘になります。けど……けどそれ以上に私は今日までたくさんの人達に支えられて来ました。

 回り道ばかりして来たけど、その分たくさんの経験をしたし……より多くの人達と出会えたと思っています。多くの人達に支えられたということは、それだけたくさんの想いを受け取ったということだと思います。

 だから、これからも後ろは向かずに……前……だけを見て……なのに、なのに……なんでこんなに苦しいのかな……胸が締めつけられ……る……のかなぁ」

 限界だった。抑えていた感情が波となって押し寄せる。両手で顔を覆う。

「今日子ちゃん……」

 久子が今日子の背中をさすった。 


 いつか久子にも言った言葉――

『私がバスマンになってお母さんとお婆ちゃんを守るんだ。強くなるんだ!』


 そうだ。強くならなくてはいけない。ずっとそう思って生きてきた。甘えたことも言ってられないし、泣き顔も見せるわけには行かない。

 強くなるんだ。強く……だからお願い。それ以上優しくしないで――

「!」

 気がつくと今日子は久子に抱きつき泣いていた。身体中を震わせ子供のように……

 二十年。小さかった手のひらを力いっぱい握りしめ、強がり閉じ込めていた少女の想いが今……零れ落ちようとしていた――


 源治が言う。

「バスマンとやらになるんじゃろ」


「――!」

 瞬間、今日子は久子の肩越しにくしゃくしゃの顔を上げる。


 雪が言った。 

「バスマンになって約束を果たしに行くのよねぇ」


 ――そうだ。二本の足で立ち上がる。


 初枝が続く。

「お父さんとの約束を」


 ――そうだ。涙を拭う。


 久子が今日子の頬を撫でる。

「胸を張って行ってきなさい。お父さんが見た景色を貴女も……」


 ――そうだ。お父さんの見た景色を――


 大きく息を吸う。負けないように、力強く……今日子はみんなを見つめ返した。

 岩田は満足気に頷き敬礼する。

「そうじゃ。お前は良い運転士になる。わしが保証する!」


 ありったけの想いを込めて今日子も敬礼した。


「ありがとう……ございました!」


 楽しくて温かかった福寿会との特訓が、たった今……終わった。



 今日子を先に帰し、福寿会の面々は散り散りに家路についた。薄暗くなり始めた川沿いの土手を、少し冷たくなった風を受けながら岩田はゆっくりと歩いていた。

 やがて小さな橋の袂にこちらを見ている一人の女性の姿を認めた。長い黒髪を後ろで束ね、事務服にカーディガンを羽織ったその女性は、互いの距離がある程度近づくと岩田に深々と頭を下げた。

「お疲れ様でした。会長」

 顔を上げると同時に女性は縁無しの眼鏡の位置を片方の手で整える仕草を見せた。

「おぉ。若月か御苦労さん」

 岩田は宍道湖交通松江営業所、総務二課長〝若月礼子〟に手を挙げ挨拶をした。

 

 二人は橋の中央に並び、互いに前だけを見て会話を進めた。

「如何でしたか? 高梨今日子は」

 若月は敢えて感情を込めず抑揚無く聞いた。

「うむ……良い娘じゃった。ちいと不器用じゃがの。まっすぐな心、人を思いやる心、ひたむきさ……強力な武器を三つも持っておった」

 岩田は満足気だった。

「はい。その点では近年稀に見る逸材かと……ただ運転技術については些か心配な面もあると、教育担当者から聞いております」

 若月の返答に岩田はいたずらっ子のように笑って見せた。

「島崎と言ったかその教官は……ククク……まだ甘いのぅ化けるかも知れんぞ? あの娘は」

 岩田の意外な反応に若月も少々驚く。

「そうなのですか?」

「なあに。可能性の話じゃよ。身分を隠し隠居生活に入って十年、久しぶりに良い想いをさせてもらった。

 くれぐれも、わしの正体が明るみに出んよう、頼んだぞ? 若月」

 岩田の上々な反応に、若月もようやく能面を崩し微笑む。

「お任せください。福寿会の皆様も誰一人気づいておりません」

 岩田は軽く頷く。やがて静かな面持ちとなり正面を見据えて言った。

「〝あの親子〟は苦労し過ぎた。今わしの身分を明かしたところで、傷痕に塩を塗るようなもんじゃ。わしの老い先もあと少しじゃからな……このまま、近所の爺としてあの親子の近くで見守っていてやりたい」

「承知しております」

 二人の遥か先に見える県道に、夕闇に染まる空の下一台の〝しじみバス〟が通り過ぎて行くのが見えた。

「娘の父親な……良い運転士じゃったと聞いておる。決して甘やかしてはならん。ならんが……大事にしてやってくれ若月」

「……はい」

 若月はもう一度深々と頭を下げた。宍道湖交通株式会社会長、岩橋四郎……またの名を岩田六郎は若月の肩をポンと叩き、六畳一間の我が家へと帰って行った。


 その夜、久しぶりに高梨家の食卓は会話に花が咲いた。島崎のこと。西崎のこと。福寿会のこと。今日子は寂しさと不安をかきけすかのように幸枝に話し続けた。

 明日はいよいよ見極め……今日子が眠りに落ちたのは、もう日付けが変わる頃であった。



「先日は大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした!」

 謹慎明けの今日子の第一声はこの台詞から始まった。点呼場の入口から入るやいなや、ありったけの声量で腰を九の時に曲げて精一杯の謝罪をした。

 余りの声量にカウンターにいた佐伯は片耳を押さえる。ひと息ついて本題に入ろうとした矢先、今日子はくるりと向きを変え隣の総務へと歩いて行った。佐伯が口をパクパクさせていると『先日は大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした!』と同じ台詞が総務から聞こえて来た。

 少しの間を置いて再び今日子が点呼場に入ってきた。

「高梨さ――」

 今度こそと佐伯は今日子を呼び止めようとしたが今日子は佐伯の方を向いて――

「申し訳ありません。先に所長にもお詫びを言いに行かせてください」

 今日子は二階へ続く階段へ行こうと向きを変えようとしたが……

「待て待て待て! 今日は所長はいねぇ。ちょっと落ち着け」

 島崎に首根っこを掴まれやっと今日子は静止した。

「き、教官……こ、この度は――」

 言いかける今日子を手のひらで制し言った。

「いい、いい! そういうのは俺はいらん。そんなことよりわかってるだろうな?」

 島崎は今日子を威圧するように頭上から睨み付ける。余りの迫力に一瞬今日子はたじろいだが、初めからその程度で諦めるような覚悟で来てはいない。

「はい。今日の見極めで合格出来なければ……終わり……ですよね?」

 今日子の返答に島崎は黙って頷いた。

「……わかってるじゃねぇか。良し、心の準備は出来てるようだな。じゃあ車両の用意が出来たら事務所の前に着けて呼びに来い。ほら」

 島崎は教習車のキーを今日子に渡した。

「はい。整備の方々にも挨拶をしてから点検をしてきます」

 今日子はキーを受け取り足早に点呼場を出て行く。

「ったく……慌ただしいったらねぇ。うし……俺も用を足しとくとするか」

 そう言うと島崎は今日子に続き点呼場を後にした。

「……ぁ……ぅ」

 取り残された佐伯はしばしの間、口をパクパクさせ固まっていた。



 およそ一時間十分後。試験ルートを〝宍道玉湯線〟の往路とした教習車は、終点宍道連絡所の片隅で停車していた。


「「「……」」」


 車内には今日子を初め、試験官担当の佐伯と島崎が乗車していたのだが三人ともしばらくの間無言のままだった。

 当の今日子は、やっと辿り着いた試験がとりあえず終了したことに対しての安心感や脱力感で放心状態なだけだったのであるが、佐伯と島崎については二人共同じ理由で言葉を発せずにいた。


 予定通り九時三十分に教習車は試験開始のため、松江営業所を発車した。

 島崎も佐伯もいくらマイクロバスに二週間乗っていたとは言え、しばらくは中型の大きさに慌てて最初はギクシャクした運転になるだろうと考えていた。しかし、今日子は久しぶりの中型サイズだと言うのに慌てること無く、スムーズに教習車を発進させたのであった。

 予想と全く反対の滑り出しを見せた展開に二人は若干焦ったのだが、課題を消化させねばならないことを思い出し手元のバインダーの〝採点用紙〟に目を落とした。島崎がランダムに……と言ってもそれなりに停車させるのに技術のいる停留所の近くに来たら、降車ボタンを押した。

 今日子はそれを確認すると慌てること無く「はい。つぎ○○○停まります。お降りの際はバスが完全に停車してから席をお立ちください」とアナウンスし、停車時は完全に停車作業に集中する手法を取った。停車してから前扉を開け「お待たせしました○○○です」と到着アナウンスを入れる念の入れようで、島崎も内心かなり驚くと同時に感心していた。

 次に佐伯が立ち上がり乗客を演じる。佐伯は今日子に「○○○から乗ったのですが整理券を取り忘れました。大人二人、小学生一人、幼児一人でいくらですか」や「身体障害者です。介助の者がいます」等、色々なパターンの支払いを問題として提示した。

 時間はかかったものの今日子は慌てること無く、端末で計算したり備えつけマニュアルで確認したりして間違うこと無く運賃収受の方もこなした。

 実戦のレベルにはもう少しと言ったところだったが、結果的に終わって見れば十分〝第一見極め〟を合格出来る水準に達しており、試験中悪戦苦闘する今日子の様を予想していた二人にとっては、少々どころか〝かなり〟面食らった結果になってしまったのである。


 静まり返る車内。痺れを切らした今日子がおずおずと口を開いた。

「あ、あの……どう、でしたでしょうか……」

 口を半開きにしてしばし固まっていた二人だったが、今日子の言葉で現実に引き戻される。

「ど、どうって……課長、どうだったんだよ?」

 話を振られて佐伯も困った。あまり現段階で言うべき文句も無かったからだ。

「ま、まぁアレですあれ……これで終わりではありませんからね? 実車を運行するようになればそりゃもう……ね? 島さん」

 ハンカチで額の汗を拭きながら佐伯が島崎に返した。小さい声で『お、俺?』とか聞こえたような気がする。島崎は監督席から立ち上がり今日子に――

「ちょっと開けてくれ……」

 と言って降りて行ってしまった。車内は今日子と佐伯の二人きりとなり気まずい空気が流れたが、やがて島崎が帰ってきた。

「ほら! 課長も」

 島崎はどうやら飲み物を買いに行ってたらしく、今日子と佐伯に冷たい缶コーヒーを振る舞った。

「あ……ありがとうございます」

「ど、どうも」

 三人は無言でプルタブを開け、その音がやけに大きく車内に響いた。

 島崎がひと口目をぐいっと飲み、今日子にわからないように目で合図を送る。佐伯は島崎の合図がなんのことかすぐ分かったので〝了承〟の意味を込めて頷いて見せた。

「ふぅ……謹慎中何をしていたのか聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず合格だ」


「……へ?」


 第三回間抜け声選手権があるのなら……という返事を今日子がまたする。

「だから合格だ! 明日からはしばらく俺の元を離れ先輩らのバスに乗るんだ。いよいよ実車訓練だ」

「……よ、良かったんですか? もっと色々言われると覚悟していたんですけど」

 今日子は今日子で予想外の結果に困惑していた。

「いいも悪いも……なぁ? 課長」

 再び島崎は佐伯に振る。いきなりでコーヒーを吹き出しそうになったがなんとか持ち直した。

「あ、あくまで現段階です。明日から益々厳しくなりますからね? 油断しないように」

 二人の言葉の意味をもう一度ゆっくり頭の中で整理し、また一歩前進出来たことをようやく今日子は理解した。

 ふうっと息をつく。また下の瞼が怪しくなって来たが、上を向き精一杯我慢した。島崎の前で泣き顔は見せたく無かったし、それはまだまだ先のことだと思ったからだ。

 上を向いたままシートベルトを外す。次にマイクを外して制帽を脱いだ。

「……」

 もう大丈夫と自分の心を確認してシートから立ち上がる。島崎の顔を改めて見るとまた泣きそうになったが必死で堪えた。

 とりあえず謹慎を言い渡された夜の〝約束〟は果たせたのだ。まずはそれを喜ぼう。姿勢を正す。あの夜と同じように……今日子はほっと息をついて頭を下げた。


「ありがとうございました」

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