第13話 優しい時間

「宍道湖松江、運転士島崎です……異常ありません……七時五十分、美保マリン二十二号車発車します。点呼お願いします」

 今日子が謹慎中のため教育業務も無く、ひとまずお役御免となった島崎は通常業務を行っていた。

 〝辞令〟を渡してから一週間が経過していたが、弟子のことが気にかかりなかなか本業に身が入らない。佐伯が本日の注意事項を述べているのにもかかわらず、当の島崎は心ここにあらずといった有様である。

「――し、左良し、車内良し……前良し」

 全く気の抜けた様子に佐伯も呆れ返るばかりだったが、そんな島崎に〝特効薬〟とも言えるニュースがあったので内心ほくそ笑んでいた。

「そうそう。もうすれ違いましたか?」

 突然の佐伯の質問に島崎は何のことだかさっぱりわからなかった。

「すれ違う? 何と?」

 当然の反応だったが佐伯はあくまでポーカーフェイスを崩さない。

「……まだご存知ありませんか? 最近運転士の間でも目撃情報が増えてる謎の女のことです」

「謎の女だぁ?」

 島崎はまだ佐伯が何を言ってるのかわからなかった。だんだん苛々してくる。

「若い女が運転士風の格好をして、老人数人を乗せてうちの路線をうろちょろしてるようです。茶色の旅館名が描かれているマイクロバスで。

 別に停留所に停まったりなどの違反行為もしていないし、白ナンバーで営業妨害をしているわけでもないみたいですから別に構わないんですけどね。目的不明……というやつです」

 佐伯は僅かに口元を歪ませる。島崎はそれが今日子のことだと一瞬で理解したが、何故そのような状況になっているのかはわからなかった。老人施設の送迎のバイトでも申し出てやらせてもらってるのだろうか……

「ひ……ヒヨっ子が?」

佐伯は島崎の反応がもう可笑しくてたまらなかった。笑いたいのを必死で堪える。

「高梨さん? まさか。彼女は謹慎中です。今も自宅でおとなしくしている〝はず〟です」

「――!」

 佐伯にからかわれていることにやっと気づいた島崎は、佐伯をひと睨みしてから点呼場を出ようとする。

「先ほど美保マリンから帰ってきた者からも報告がありました。今日はあちらの方をうろちょろしてるようですね」

 島崎はその言葉を合図に点呼場を飛び出していた。



「次は垣ノ内。垣ノ内です」


 ――チーン――


「は、はい。次止まります。バスが停まるまで立たないでください」

 福寿会一行を乗せた今日子のマイクロバスが、垣ノ内停留所手前の電柱へ向けて減速して行く。今日子は左ウインカーを点滅させゆっくり車体を寄せて行った。

「良し……このマイクロなら後輪のすぐ前くらいが中型の中扉じゃ。合わせてみろ」

 岩田が今日子の傍らでアドバイスする。今日子は前方の安全を確認しつつ寄せ過ぎないように左ミラーで間隔を調整しながら静かに停車させた。停車する直前の〝戻し〟も忘れなかった。大した揺れも感じることなくバスは停まった。

 今日子はホッと息をつき肩の力を抜いた。

「……出来たようじゃの」

「はい。けど停まる瞬間はアナウンスしてませんから……微妙な気分です」

 今日子は満足していない様子だった。

「とりあえずそれでいいんじゃ。一度にあれもこれもと欲張り過ぎじゃと言ったろ?」

 初日のいきなりの大失態。なんとかしようと二日目も三日目も悪戦苦闘した今日子だったが、結果は散々だった。見かねた岩田が悩みに悩んだ結果、出した答えが〝作業の分離〟であった。

 今日子のウイークポイントは一度にたくさんのことをしようとすると頭がパニックを起こし、普段出来ていることさえ出来なくなることであった。三日間今日子をじっくり観察しそれを十二分に理解した岩田は、四日目の朝いきなり今日子に「無理な時にアナウンスせんでもえぇ」と伝えたのだ。

 停車間際と言うのはもっとも作業が集中する瞬間である。前方、左側、車内と様々な箇所の安全確認が必要である。その上にブレーキも慎重に行わなければならないし、中扉を乗客がいるポイントへ合わせて停める必要がある。そうした作業中の真っ只中に更に車内アナウンスをすると言うことは、熟達した者で無ければ必ずどこかが疎かになると岩田は言った。

 確かに停車間際に注意を促すアナウンスを入れるのはベストなタイミングではある。気の早い乗客……特に高齢者などは降車をもたついて乗務員や他の乗客に迷惑をかけることを最も嫌う。まだバスが停まりきっていないのに気が急いて立ち上がってしまうのは良く見る光景だった。それを抑止するためにも〝停車間際のアナウンス〟とは重要なのである。

 だが、今の今日子の力量ではまだ少し早い……なので〝乗客が降車ボタンを押した時に席を立たないように前持って言ってしまえ〟というのが岩田の提案した作戦だった。

 そうすれば少なくとも停車間際は作業に集中して安全に停めることが出来るし、おまけに乗客に停車するまで席を立たないようにちゃんと注意も促せている。現時点では何も問題はなかった。

 更に岩田は最初からそんなに長々と喋る必要は無いとも今日子に言った。要は〝自分の言葉で〟〝乗客に伝えたい注意を〟〝どんなに簡潔でも良いから伝える〟最低限この三つが出来ていれば問題は無いんだと。

 だから四日目は降車ボタンが鳴った直後に「はい。停まるまで立たないでください」しか言わなかったのである。今日になって初めて〝次止まります〟が付け加えられたのであった。

「お前の師匠がくれたそのアナウンスの〝虎の巻〟な。それはあくまで〝最終的にはそれくらい言えるようになりなさい〟と言う意味で言っとるんだとわしは思う」

 運転席の傍らに置いてある〝島崎のアナウンスメモ〟を岩田は指差して言った。

「お前はちと生真面目が過ぎるわい。そうと言われたら何がなんでも〝そうしないといけない〟と深く考え過ぎじゃ。

 客にはお前の言葉で注意が伝われば、とりあえずそれでえぇんじゃ。流暢に話すのはガイドに任せておけば良い。あやつらは〝喋りと接遇の職人〟…お前が目指しとるのは〝安全運行の職人〟なんじゃからな」

 岩田は諭すように言った。何でも最初から完璧にこなせるわけは無いのに、こなそうと無理してしまう性格が今日子の長所でもあり短所でもあった。

 岩田に言われた〝作業の分離〟……出来ることは出来る時に分けてやる。これは今日子の肩の荷を少しだけでも軽くしてくれたことは間違いなかった。

「アナウンスのために本来一番大事である〝安全な運行〟が疎かになったりしたら本末転倒じゃ」

 岩田はケタケタ笑いながら言う。今日子は救われた気持ちになり頭を下げた。

「はい……ありがとうございます」


 

 美保マリン線の往路。島崎は〝しじみバス〟を走らせ運行中だった。平日の日中ということもあり車内には数名の客しか乗っておらず、どことなくのどかな雰囲気を醸し出していた。

 市街から郊外へ向けて山を二つ越える。峠の頂きを過ぎた辺りで遥か前方に海が見えてきた。長い長い下り坂を駆け下りる途中、島崎は車内放送の〝送りボタン〟を押した。


『次は 垣ノ内 垣ノ内です』


 愛想の無い機械音声が流れる。反応は無かった。

「降車……無しと」

 そう呟くと同時に島崎は前方の停留所で乗客がいないか確認する。

「?」

 島崎から見て停留所の少し先。ウインカーを出しながら停車している茶色いマイクロバスの姿があるのを島崎は確認した。

「いた! 謎の女」

 やがて二台のバスはすれ違う。島崎は車内を凝視したが、向こうは何やら話をしていてこちらに気づいてないようだった。島崎は監督席に座っていた老人に見覚えがあったが、誰だったかなかなか思い出せないでいた。しばらくの間思案する……


「――あ! あの爺さん確か出雲本社で……」


 確か十年くらい前だったろうか。トラブルがあり松江から出雲本社へ応援に行った時、運転士の服装で駐車場をうろうろしてるのを見たことがあった。

 もう定年も過ぎているだろうに人手不足で辞めさせてもらえないのか、老後の蓄えのためにギリギリまで頑張っているのか……なんにせよ大変な時代になったなぁとその老人を見ながら物思いにふけっていたのを良く覚えている。

 それと同時に元気そうな愛弟子の姿を見て、島崎は身体の奥底から喜びが沸き上がって来るのを感じ震えた。窮地に立たされ逆境に追い込まれながらも、あいつは自分で考え、諦めず、頑張ったのだろう。どういう成り行きかは知らないが、車両と指導者まで見つけたときている。


 ――イケるかもしれないっ!――


 指導してやれないことで半ば諦めかけていた自分に気づき、再び〝渇〟を入れる。そうだアイツは諦めなかった……自分で考え活路を見い出した。じゃあ師匠はどうする?

 島崎はハンドルを握る手に力を込める。

「ったく……いっちょまえなことしやがって……よぅし、早くひと皮むけて帰ってこいヒヨっ子!」

「――ません。すいませーん! 降りたいんですけどー!」

 島崎の叫びをかき消すかのように、後ろから悲鳴のような乗客の声が聞こえて来た。

「――も、申し訳ない! 停車します」


 乗務中の考え事は御法度である。



 今日子達一行はその後市内まで行ってから折り返し、美保マリン線の往路を練習走行していた。ちょうど昼時になったので少し路線を外れ、海の見える広い空き地にバスを停め昼食を取ることにした。

「今日は天気も良くて暖かいですから、皆さん外で食べませんか? こんなこともあろうかと敷物も持ってきてあるんです」

 今日子は運転席の後ろから敷物を取り出し少し広げて見せた。昔ながらの虹色ストライプ柄の敷物だった。

「あらー。今日子ちゃん気が利くわね。私も今日は腕によりをかけてきたのよ」

 久子が風呂敷に包まれた何段かの重箱を両手で持ち上げて見せた。

「あたしゃおにぎり握って来たんだ。作り過ぎたかも知れないが残すんじゃないよみんな?」

 初枝がタッパー二つにぎっしり詰め込まれたおにぎりを見せた。

「私はイチゴ持って来たのよぉ。デザートに食べてねぇ」

 雪がイチゴのパックとプラスチック製のつまようじを手にしていた。

「わぁ! 凄い。本当にピクニックみたいになっちゃいましたね」

 今日子は手を合わせて喜んだ。


 青い空と海。小春日和の風が一行を優しく包んだ。桜の花びらはもう落ちてしまったが、代わりに新緑の芽がちらほら顔を覗かせている。

 敷物を広げ、その上には久子が作った三段重と初枝のおにぎりや雪のイチゴが広げられた。面々はそれを囲み、時には笑い、時には冗談を言い合いながらしばしの時間を楽しんでいた。

「岩田のお爺さんはずっと出雲本社におられたんですか?」

 運転士の話なら今日子にはごちそうだ。興味津々で聞いてみる。

「うむ。運転士一筋四十年。ずっと出雲におった。元々わしは松江の生まれでな。引退と同時にこっちに引っ越したんじゃ」

 今日子に水筒からお茶を注いでもらいながら言った。

「そうだったんですね。あ、昔の運転士ってどんな感じだったんですか?」

 今日子の質問に岩田は海の遥か向こうを見つめた。思い出しているのだろう。

「……良くも悪くもおおざっぱで荒っぽくて……みんなが〝一生懸命〟な時代じゃった。利用客も今とは比べもんにならんくらいおってな? 昔はエアコンなんて無いから、夏は暑い車内で誰もが汗をかきながら押し合いへし合いじゃった。

 信じられんかも知れんが、昔は座席の背もたれに灰皿が付いておったんじゃぞ?」

 今では考えられない装備に今日子は心から驚いた。

「え? ほ、本当に?」

「タバコふかしながら運転手と馬鹿話するのが楽しみじゃった! モゴモゴ」

 源治がおにぎりを頬張りながら言う。

「そう運転士じゃなくて〝運転手〟じゃった。客との距離も近くてなぁ」

「へぇ~」

 今はむやみやたらに運転士に乗客が話しかけるのは禁止されている。今日子もそれが普通だと思って育ってきた。

「酔っぱらいが絡んでくるといつも運転手と殴り合いの喧嘩さ……あ、おいし」

 初枝が玉子焼きを口にしながら言う。

「とにかく夏は暑くて臭くて、べとべとしててねぇ……けどそれが普通だって思ってたから。窓を開けて飛び込んでくる風が本当に気持ち良くて」

「そうそう。悪く言えば〝雑〟〝不潔〟〝粗野〟って言葉がぴったりだったけどぉ、良い意味で運転手さんもお客さんもみぃんながおおらかだったわよねぇ」

 久子の言葉に雪が相槌を打つ。

「今は何かと言うと重箱の隅をつつくような時代になっちまった。きれいで清潔で、運転士の腰も低くはなったが……いつの頃からか運転士と客との距離まで遠くなってしまったんじゃ」

 岩田が寂しそうに重箱の隅の芋の煮っころがしをつつく。

 確かに今は運転士が下手なことをすればすぐに携帯で撮影されてネットで拡散される。やってはいけないことをやる運転士が勿論悪いのだが、それに対して警戒し過ぎている業界全体も今日子はなんだか悲しく感じた。

 雪が言う〝おおらか〟と言うのは、お互いが許容し合って尊重し合って『ま……いいってことよ』って言い合える習慣が根付いていたのかも知れない。

 岩田はきっと、そんな時代を懐かしんでいるのだろう。

「――あぁ、タタタ……今朝は早起きして張り切っちゃったから、なんだか肩が……」

 久子が片方の肩を押さえながら首を右へ左へ動かす。すると、それを聞いた今日子は手にした料理をとりあえず下に置き膝立ちになった。

「肩……私が揉みましょうか?」

「あらぁ、気を使わなくていいのよ今日子ちゃん?」

 遠慮する久子だったが、その程度で引き下がる今日子では無かった。両手で肩を揉むしぐさをしながら――

「私、お婆ちゃんに鍛えられてきましたから。こう見えて上手いんですよ~?」

 いたずらっぽく微笑む今日子に久子はようやく観念したようだった。

「そう言えば良く朝子さんの肩揉んでたもんねぇ。わかった……じゃあお願いしようかしら?」

「はい!」

 今日子は久子の後ろに回り込み肩を揉み始めた。最後に朝子の肩を揉んだのはいつだったろう。もうずっと昔のような気がする。

「あぁ、気持ちいい。上手ねぇ」

 瞼を閉じて久子は満足そうにしていた。一行も皆優しい気持ちでそれを見守っている。まるで今だけは、お爺ちゃんとお婆ちゃんと本当の孫かのように。


 この優しい時間がいつまでも続けば良いと、ここにいる誰もが願っていた。

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